堅物夫が手を出してくれません!
微エロ注意
「じゃあ、おやすみ」
「……うん。おやすみなさい」
ノートンの手が、私の肩まで掛け布を引き上げる。額に落とされた口づけは羽が触れるほど軽くて、顔を上げた時には、もう彼の手は枕元の灯りへ伸びていた。
部屋が暗くなる。
隣で衣擦れがして、いつものように腕が回ってくる。私はその胸元に頬を寄せ、寝間着の袖をそっとつまんだ。温かい。顔を見なくても彼だと分かる匂いがして、少しずつ、肩の力が抜けていく。
幸せだと思う。
思うからこそ、この先を望む自分が、ひどく欲張りに思えた。
宮廷で宰相補佐を務める彼と、女官として働く私、レティシア。仕事で顔を合わせるうち、厳格そうな彼が、不慣れな私の失敗を黙って補ってくれていることに気づいた。お礼を言うと、困ったように目を逸らす。そんな不器用な優しさに惹かれ、彼からの告白で交際が始まった。
『これからは、同じ家に帰りたい』
そう求婚された時には、嬉しくて何度も頷いた。返事をしなければと分かっているのに、声にならなくて、彼の手ばかり強く握った。
あれから、一年。
彼は約束どおり、私の待つ家へ帰ってくる。疲れていても話を聞いてくれるし、寒い夜には、こうして抱き寄せてくれる。
けれど、結婚してからというもの、私たちの夜は、いつもここで終わってしまうのだ。
(……今日は、もう少し)
眠りにつこうとする彼の袖を、指先でわずかに引く。
「寒い?」
すぐに、腕の中へ深く包まれた。
違う、と言えばよかった。
でも、こんなに優しくしてもらって、その先をねだる言葉を、私はまだ知らなかった。
「……大丈夫、暖かいよ」
そう言えば、彼が安心したように息をつく。
私はつまんでいた袖を離し、その代わりに、言えなかった言葉を胸の中で繰り返した。
(今日も言えなかった……)
* * *
翌日の休憩時間、私は宮廷の書庫で、場違いな雑誌を膝に広げていた。
『愛しい彼の誘い方♡』
穴が開くほど見つめても、書かれているのは大胆すぎる方法ばかり。
(こんなのができてたら苦労してない……!)
臆病な私には、どれも無理難題だった。
「……ずいぶん熱心に読んでるな」
頭上から降ってきた声に、雑誌を取り落としかけた。
「エリック!?」
棚の脇に立っていたのは、私とノートンの同僚だった。上着にかすかな煙草の匂いを残した彼は、膝の上の表紙と私の顔を見比べ、片眉を上げた。
「い、いい、いつから、そこに……」
「お前が同じページを三回くらい読み直したあたり」
「……ッ!!!!誰にも言わないで!特に、ノートンにはっ!!」
雑誌に気を取られ、気配にまったく気づいていなかった。慌てて隠す。もう遅い。
彼は笑いかけ、それから私の顔を見て、少し声を落とした。
「何かあったの?」
「何かあった、というより……何もないというか……」
言いかけて、口をつぐむ。書庫の奥では、誰かがページをめくっている。私はさらに声をひそめた。
「結婚してから、ずっと……営みがなくて……一緒に眠るだけなの」
「……ずっと?」
「はい」
「嘘だろ……!?あのノートンが!?」
エリックは心底信じられないというような声をあげて前のめりになった。
「まだ一回も!?」
雑誌の角を指でなぞった。紙の端が少し折れていた。何度も開いたり閉じたりしているうちに、つけてしまった跡だった。
「だから……その、私にそういう魅力がないのかなとか、私に愛想が尽きちゃったとか……」
口にすると、思っていた以上に情けない声になった。そんな私を見たエリックは一度、閉じた雑誌へ目を落とした。
「……それはないと思うけどな」
「どうして?」
「俺が執務室に入ると眉間に皺が寄るのに、お前が入ると消えるから」
「それは……エリックが書類を溜めているからでは?」
「今は俺の勤務態度の話じゃないだろ」
わざとらしく顔をしかめるので、思わず笑ってしまった。強張っていた口元がほどけると、少しだけ息がしやすくなった。
エリックは呆れながらも近くの棚に肩を預けた。
「冗談抜きに、お前への気持ちが冷めたとは思わないよ。ほら、あいつ、結婚してから徹夜が減っただろ?」
「うん……そうだけど」
以前は執務室へ朝食を届けることさえあった。それが今では、遅くなる日も必ず帰ってきてくれる。
「理由を聞いたら、早く帰ってレティシアに会いたいから、だってさ」
指が止まった。
彼のいないところで、自分の名前がそんなふうに口にされていたなんて、知らなかった。
「……そう、なんだ」
「うん。だから、詳しいことは本人に聞くのが一番だと思うけど。お前まで遠慮してたら、分からないままだぞ」
「でも、何か深い理由があるのかもしれないし……困らせてしまうだけかも……」
「おいおい。好きな相手に甘えられて、困る男なんていないよ。少なくとも、あいつは」
それでも俯いた私の肩に、彼の手が軽く置かれた。
「もう少し、自信を持て」
顔を上げると、いつものふざけた色のない目があった。
「……分かった。頑張ってみる」
「おう。お前ならできるさ」
「何ができるんだ?」
ドスのきいた低い声がエリックの背後から聞こえた。でもそれは、よく聞き慣れた声で……
「仕事をサボって人の妻にちょっかいか」
ノートンが書類を抱えて立っている。凍えるような冷たい視線が、私の肩にある手で止まった。
エリックは、何事もなかったように両手を上げた。
「やだなぁ、相談に乗ってただけだぞ」
「ずいぶん距離の近い相談だな」
「の、ノートン。本当に、話を聞いてもらっていただけだから」
彼は私を見ると、何か言いかけた口を閉じた。短い沈黙の後、小さく息を吐く。
「……分かった。で、エリック、書類は?」
「はいはい。終わってるよ。あとで持ってくからさぁ」
「今すぐ持って来い」
「……んー、分かったよ。じゃ、レティシア、頑張れよー」
ノートンに急かされるようにエリックが立ち去っていく。立ち去り際、エリックが私にだけ分かるように、軽く頷いた。
私は小さく頭を下げ、雑誌を裏返して脇へ寄せた。残されたノートンが、そばに来る。
「本当にあいつに何もされてないか?」
「なにもされてないよ。仕事について少し相談してただけ」
「……俺には、相談できないこと?」
少し拗ねた声に、胸が鳴った。
「小さい事だったから……それに、もう解決したから」
「そう……なら、いいんだけど」
とっさについた嘘が、胸に引っかかった。
あなたのことです、と言いたかった。
好きで、寂しくて、どうしたらいいのか分からないのだと。
「あの……ノートン」
彼が少し屈んで、目の高さを合わせてくれる。
その優しさに触れると、途端に怖くなった。私が欲張ったせいで、この穏やかな関係まで変わってしまったら。
「何でも、ない」
「……そう。無理はするなよ」
そう言ってノートンは私の肩を優しく撫でた。遠ざかる足音を聞きながら、私は膝の上で手を重ねる。昨夜、彼の袖を離した時と同じ心細さが、指先に残っていた。
* * *
その日の午後、宰相府へ書類を届けに向かった私は、回廊の先にノートンを見つけた。
高い窓から、傾き始めた陽が差している。その明るい場所に、彼は一人の女性と立っていた。何度か書類を受け渡したことのある事務官だ。すらりとした姿勢も、相手の目を見て笑う仕草も、いつも綺麗だと思っていた。
仕事の話だろう。
邪魔をしないよう、少し歩調を緩めた時だった。
「……そんなに、お好きなんですね」
声が、回廊を渡ってきた。
ノートンが口元を手で覆う。
窓の光の中で、その耳が赤く染まっていた。
私は足を止めた。
彼は何か言おうとして、諦めたように目を逸らした。女性が楽しそうに笑う。
そんな顔をする人だと、私は知っていた。交際を始めたばかりの頃、初めて手を繋いだ時。求婚の返事を、ようやく声にできた時。
けれど、最近の彼は、私の前でそんな顔をすることはめっきりなくなっていた。
「この話は、内緒にしてもらえると……」
「ふふ。承知しました」
書類の端が、手のひらに食い込んだ。
内緒。
私にも、だろうか。
女性がこちらを向きかけ、私はとっさに柱の陰へ身を引いた。隠れる理由なんてないはずなのに、足が勝手に動いていた。
窓から流れ込む風が、袖口を冷やしていく。
仕事のことで褒められたのかもしれない。私には分からない、何かの冗談だったのかもしれない。
そう考えるたびに、今聞いた言葉が、静かに打ち消していった。
『そんなに、お好きなんですね』
昨夜の「おやすみ」を思い出す。
額への口づけも、掛け布を直してくれる手も、優しかった。けれど、それだけで終わる夜を、私はもう、いくつ数えただろう。
(……ほかに、好きな人がいるから?)
浮かんだ考えを、すぐに否定できなかった。
昼間、エリックに聞いた言葉まで、うまく思い出せなくなっていた。家に帰ってくれる。優しくしてくれる。それは、私が妻だからなのかもしれない。……でも、胸を高鳴らせる相手は、もう別にいるのかもしれない。
名前を呼べば、彼は振り向いただろう。
それでも、声が出なかった。
私を見つけた瞬間、その顔から赤みが消えたらと思うと、どうしても。
* * *
「……今度は、どうした?」
書類を届けた帰り、エリックに呼び止められた。
いつの間にか、来た道を通り過ぎていたらしい。彼は私の顔を見ると、それ以上何も言わず、空いている談話室の扉を開けてくれた。
話し始めるまで、少し時間がかかった。
彼は椅子に腰を下ろして待っていた。途切れ途切れの説明にも、いつもの軽口を挟まなかった。
「……前後の話は、聞いてないんだな」
「はい」
「それなら、あいつが浮気したかなんて分からないだろ」
「分かってるけど……でも」
膝の上で、制服の布を握る。
「私には最近、あんな顔、見せてくれなかったのに……」
言ってしまうと、堪えていたものが目の奥へせり上がった。
エリックが黙ってハンカチを差し出す。礼を言おうとしたら声が震えて、私は受け取るだけになった。
「俺は、あいつがお前以外の誰かを好きだとは絶対に思わない」
静かな声だった。
「でも今は、俺がそう言っても不安だろ?」
頷くと、彼はしばらく考えてから、少し身を乗り出した。
「ノートンに聞くんだ。お前が何を見て、どう思ったのか」
「……本当だったら、どうしたらいいんだろう」
「そんなこと絶対に無いだろうけど……ま、その時はまた話を聞くよ」
その言葉に、ようやく顔を上げられた。
「だから、気をしっかり持て」
手の中のハンカチは、端が少しくたびれていた。何でもない物の感触が、ひどく頼もしかった。
私は小さく息を吸い、頷こうとした。その拍子に、堪えていた涙が頬を伝った。
廊下を行く足音が、ふいに止まる。
「……レティシア?」
顔を上げるより先に、半開きだった扉が大きく開いた。
ノートンが立っていた。
彼の目が、私の頬と、握りしめたハンカチを捉える。それから、向かいのエリックへ移った。
「お前、レティシアに何をした」
地を這うような低い声だった。
エリックが答える間もなく、彼は部屋へ入ってきた。私のそばで足を止めると、エリックを見据えたまま、私を強く抱き寄せた。
「誤解だよ。俺は話を聞いてただけだ」
「それで、どうして泣いている」
「ノートン」
私は慌てて、その袖を掴んだ。
振り向いた彼の顔には、怒りよりも、隠しきれない焦りがあった。
「何も、されてないよ。エリックは、相談に乗ってくれただけだよ」
「……それは、泣くほどのことなのか?なぜ俺には話してくれないんだ?」
「……ここでは、うまく話せないの」
声を絞り出すと、彼の動きが止まる。
「帰ったら、お話があります。……二人きりで、聞いてほしいの」
袖を掴む指に、力が入る。
「だから、今は……」
ノートンは私を見つめた。
一度、何か言いかける。それから唇を結び、ゆっくりと頷いた。
「分かった。今日は、早く帰る」
その声に、私は俯いたまま頷き返した。
彼は立ち上がり、エリックへ向き直った。
「……悪かった」
「いいよ。ちゃんと聞いてやって」
「ああ」
短い返事の後、背中の手が離れた。
扉の前で、ノートンがもう一度こちらを見る。私はハンカチを握ったまま、小さく頷いた。
* * *
「ただいま」
その晩、ノートンはいつもより早く帰ってきた。
外套を受け取り、壁の鉤へ掛ける。すぐ隣にある自分の上着を、私はぼんやりと見つめた。
居間に入っても、お茶を淹れる気にはなれなかった。向かいの椅子に腰を下ろしたノートンが、私を待っている。
「さっきの話。聞かせてくれるか」
急かすことのない声だった。けれど、私を見つめる目は、談話室で別れた時から、ずっと心配していたのだと分かる目だった。
私は一度唇を引き結び、それから頷いた。
「はい」
ノートンは私の向かいに座り、こちらを見ている。もう、何でもないとは言えない。
「ノートン……あの……ほかに、好きな方がいるの?」
彼の顔から、表情が抜け落ちた。
その沈黙に耐えられず、私は言葉を継いだ。
「今日、回廊で女性と話してるのを見たの……ノートン、その人と話してる時に顔を赤くしていたでしょ?」
「ちょ、ちょっと待て。何の話だ?」
「内緒に、とも、言ってたから……」
目を見ていられなくなった。
聞くと決めたはずなのに、答えが返ってくるのが怖かった。自分の口から、先にいちばん嫌なことを言ってしまいたくなる。
「だから、私のことは好きじゃなくなったのかなって」
椅子が鳴った。
「違う」
ノートンが立ち上がっていた。
思わず肩を揺らした私を見て、彼は動きを止める。それから、ゆっくりとそばへ来て、椅子の前に膝をついた。
「それだけは絶対に違う」
見上げてくる目が、落ち着きを失っていた。
「俺が愛しているのはお前だけだ。」
涙が落ちかけたまま、止まった。
ノートンの真っ直ぐな視線が刺さる。
「レティシアを愛さなくなる日なんて絶対にない。未来永劫、それだけは絶対だ」
「……っ」
「それにあの事務官とは、その……レティシアのことを話してた」
ノートンは少し気まずそうに口を開く。
「早く帰りたいから、明日に回せる書類を確認してたんだ。用事があるのかって聞かれて、レティシアと夕食を食べたいからって……」
まだ、うまく意味が繋がらなかった。
「……その後、結婚して一年ですねって話になって」
彼の視線がわずかに逸れた。
「暮らしには慣れたかと聞かれたから、まだ慣れないって」
「何か、不便なことが……」
「違う。そうじゃなくて」
彼は言葉を探すように唇を結んだ。
私が待っていると、ようやく、小さな声が落ちてきた。
「家に帰るとレティシアがいることに、まだ慣れないんだ」
私は、膝の上の手をほどいた。
「廊下に灯りがついてて、レティシアの声がして。外套を掛けるところに、レティシアの上着もあるだろ。そういうのを見るたびに、本当に結婚したんだなって思う」
彼の耳が赤くなっていく。
午後の回廊で見たのと、同じ色に。
「そんな話をしてたら、奥さんのことが大好きなんですねって、笑われた」
部屋の中は静かだった。
時計の針の音を聞きながら、私はもう一度、その言葉を思い返した。
『そんなに、お好きなんですね』
あの声の前に、私の名前があったのだ。
「……内緒に、というのは」
「こ、こんな話、職場中に広まったら、たぶん一生言われるだろ……」
ノートンが顔をそらす。その顔は赤くなっていた。
その顔を見て、ようやく息が深く入った。午後からずっと、浅いところでつかえていた息だった。
ほっとした途端、泣きたくなった。
けれど、まだ聞かなければならないことがある。
私は彼の袖をつまんだ。夜ごと、何も言えずに離してきた場所だった。
「だったら……どうして、いつも、おやすみで終わってしまうの」
「そ、それは……」
彼の目が、私の指先へ落ちる。
「私、ずっと考えていたの。結婚して、見慣れてしまったのかとか。もう、前みたいには思ってもらえないのかとか」
「っ!そんなことない!」
「なら、教えて。あなたが、何を思っているのか」
袖を離さずに待った。
ノートンは何度か口を開き、そのたびに閉じた。いつもなら複雑な案件も淀みなく説明する人が、たった一つの答えを持て余していた。
「……止まれなくなりそうだったから」
ひどく小さな声だった。
「レティシアが、可愛くて」
私は瞬きをした。
「結婚する前は、帰る時間があっただろ。寂しかったけど、一人になれば、少しは落ち着けた。でも今は、ずっと一緒にいるから」
彼は私の手に触れ、確かめるように指を重ねた。
「俺の帰りを待ってくれて、隣でお茶を飲んで、眠くなると、こうして袖を掴む。それだけで、胸がいっぱいになる。昨日より今日の方が好きで、明日もきっとそうなんだろうと思うと……」
言葉が途切れた。
重なった指が、熱かった。
「抱き寄せたら、ずっと離したくなくなる。あと少し、もう少しって、際限がなく求めてしまいそうで……俺はレティシアをただ大事にしたいのに」
顔を上げた彼は、今にも叱られそうな顔をしていた。
「だから、いつも、欲張る前におやすみって言ってたんだ」
昨夜、私の肩を包んだ腕を思い出す。
穏やかな声。すぐに消える灯り。
その暗がりで、彼がどんな顔をしていたのか、私は一度も確かめていなかった。
「この、一年、そんなことを……?」
「……ああ」
信じられなくて、でも、目の前の赤い顔があまりにも真剣で、笑うような息が漏れた。
「……自分でも、情けないと思ってる」
そこでようやく、涙が落ちた。
ノートンが手を伸ばし、また、途中でためらう。
私はその手を取った。
「もう我慢しないで」
手のひらを頬へ寄せると、彼の親指が、そっと目尻を拭った。
その温かさに、今まで言えなかったことが、少しずつ言葉になっていく。
「私はずっと、寂しかった。ノートンに飽きられたんじゃないか、とか……」
「……ごめん」
私は頬に添えられた手に、自分の手を重ねる。
「私は、ノートンにされて嫌なことなんてなにもないんだよ」
ノートンが目を見開いた。
「ノートンがしてくれることなら全部……私、受け止めるから。だから、もっと私に触れてほしいの」
ノートンの顔が徐々に真っ赤に染まっていく。ああ、この表情だ。
「れ、レティシア……良い、のか?」
「何が?」
「俺は多分……いや、絶対にお前に無理をさせてしまう」
「……むしろ、その方が嬉しい、かも」
言ってから、頬が熱くなった。語尾が、自分でも分かるほど小さくなる。
「〜〜っ」
ノートンは声にならない声を漏らし、片手で顔を覆った。私がぽかんと見つめているうちに、彼はようやく息を整えて、恐る恐る、私を抱きしめた。
「……今夜、寝ないで待っていてくれ」
「っ、うん」
初めての誘いに、胸が高鳴りながら答える。
ノートンは私を抱きしめたまま、長い長い息を吐いた。その体温がじんわりと伝わってきて、私もようやく全身の力を抜くことができた。
* * *
寝室の灯りは、ひとつだけ残してあった。
ベッドの縁に並んで腰かけ、どちらからともなく唇を重ねる。
「ん……っ、ふぁ、ん……」
深いキスだけなら何度かしたことはあった。けれど今日のキスは前よりもずっと蕩けるような熱があった。いつもより熱いノートンの指先が、耳の後ろまで滑る。
「ん……っ」
息が混ざる。ノートンの額が、私の額に触れた。
「レティシア……」
名前を呼ばれると、胸の奥がきゅっとなる。彼の声は低くて、今まで聞いたことのない響きだった。
寝間着の紐に、指がかかる。ほどく前に一度止まり、私の目を見る。許可を待っている目だ。私が小さく頷くと、紐がほどけ、肩が冷える。その隙間を、すぐに温かい掌が埋めた。
「寒い?」
昨夜と同じ言葉。でも、今は違う意味に聞こえる。
「……ううん」
答えながら、私のほうから彼の上着に手を伸ばす。ボタンを一つずつ外していく指が、少し震えていた。ノートンはそれを見て、苦笑いのような息を漏らす。
「俺のほうが、下手だな」
「そんなことない」
言いながら、私は彼の胸に額を預けた。心臓の音が速い。自分のものより、ずっと速い。それを聞いて、ようやく本当なのだと思えた。一年間、おやすみで終わっていた夜の理由が、ここにあったのだ。
シャツが肩から落ちる。肌と肌が触れた瞬間、ノートンの腕に力が入った。
「……止まれなくなる」
「止まらなくて、いいよ」
そう言った私の声も、驚くほど小さかった。
彼は一度、深く息を吸う。それから私を抱き上げるようにして、布団の中へ沈めた。掛け布が肩までかかる。暗がりでも、彼の目だけははっきり見えた。赤くなった耳も、唇を強く結んでいるのも。
キスが鎖骨へ落ちる。羽のように軽かった昨夜の口づけとは違う。熱が残る。私は彼の髪に指を入れ、無意識に引き寄せた。ノートンの吐息が、鎖骨の窪みで震える。
「レティシア……」
言葉の途中で、彼は顔を埋めた。恥ずかしいのか、抑えるのか、どちらにも聞こえた。私は彼の背中を撫でながら、昨夜つまんで離した袖の感触を思い出した。あの時言えなかった言葉が、今なら出せそうだった。
「ノートン」
「ん」
「もっと、触って」
肩が固くなる。すぐに、ゆっくりと力が抜けた。彼の手が、腰へ、そして腿の外側へと降りていく。遠慮がちに、それでも確かめるように。私は膝を少し開き、逃げないことを伝えた。
「……本当に、いいのか」
「いいよ。……きて?」
彼は何度も頷いてから、やっと目を上げる。その顔は真っ赤で、それでも真っ直ぐ私を見ていた。
「俺は、レティシアを愛してる。好きすぎて、どうしていいか分からなかった」
「今は、分かってる?」
「……分からない。でも、知りたい」
その言葉に、私は笑った。小さく、安堵の混じった笑いだった。ノートンはそれを見て、顔を寄せて唇を重ねた。深く、長く。息が苦しくなるまで離さなかった。
その夜、「おやすみ」が言えたのは、すっかり夜が更けた頃だった。




