第2話「標本室の亡霊」
⸻
雨が屋根を叩く音だけが、校舎に響いていた。
夜の天ノ原中学校。
外灯はすでに落ち、月光が割れた窓からかすかに差し込む。
「……本当に、ここに誰かがいるんですか?」
ミナトは小声で尋ねた。
手に握るライトがかすかに震えている。
「“動く標本”の噂は、夜限定。ならば、確かめるにはこの時間しかない」
静流は懐中電灯をゆっくりと理科準備室の床へ滑らせた。
冷たい空気。わずかに漂うホルマリンの匂い。
棚に並ぶ瓶たちは、今にも語りかけてきそうなほど静かだ。
ミナトはガラスケースの前で立ち止まる。
瓶の中のカエルが――まるで彼女を見つめているようだった。
「……動く標本って、もし本当に魂とかあったら、怖いですよね」
「魂より怖いのは、“人の手で動かされるもの”だよ」
静流の声が低く響く。
その瞬間――
カチ、という微かな音が部屋の奥から聞こえた。
「……今の、聞こえました?」
「うん。電源系のスイッチ音に似ている」
二人は同時に視線を向ける。
壁際、人体模型の影が――ゆっくりと動いた。
「ひっ……! 先生、今、首が……!」
ミナトの声が震える。
静流は模型に近づき、胸部のパネルを開いた。
中から出てきたのは、絡まった配線と小型のバッテリーパック、そして――タイマー式モーター。
「やはりな。……“誰か”が仕掛けている」
「こんなの、誰が……何のために……?」
静流は模型の内部から取り出した金属片をライトで照らす。
小さく刻まれた刻印――天ノ原理科部。
かつてこの学校に存在した部活動の名前だった。
「理科部の実験装置を、誰かが再利用しているのか……?」
ミナトが首を傾げたそのとき。
――バンッ!
突然、扉が勢いよく閉まった。
「……閉じ込められた?」
静流が扉を押すが、びくともしない。
中から鍵がかけられたようだった。
「先生、誰か外に……!」
その言葉に重なるように、部屋の照明が一斉に点滅した。
棚の標本瓶が、カタカタと揺れ始める。
その音が、まるで“誰かの笑い声”のように響いた。
「やめてよ……こんなの、ホラー映画じゃないですか……!」
ミナトが耳を塞ぐ。
静流は冷静に、音の方向を探る。
棚の奥――そこに、古びた実験装置があった。
円盤状の装置に小さな電磁石がいくつも取り付けられており、一定の間隔で磁力を発生させている。
「……磁気振動。これで瓶の中の液体を揺らして、“動いたように見せていた”のか」
「じゃあ、動いてたのは――」
「ただの錯覚だ。しかし――」
静流は装置の下に落ちていた紙片を拾い上げた。
そこには、震える字でこう書かれていた。
『彼らを、眠らせてあげて』
「……これは?」
ミナトが覗き込む。
紙は古びており、角が黄ばんでいた。
静流の表情が一瞬だけ陰る。
「――これは、生徒の字だ。十年前の事故と関係しているな」
「事故……?」
静流は理科準備室の壁を見上げる。
そこには、埃をかぶった掲示板があり、当時の理科部の集合写真が貼られていた。
中央に立つ少年の顔だけが、破り取られている。
「この学校の理科部は、十年前、実験中の爆発事故で一人が亡くなっている。
その“亡くなった部員”の遺品が、この準備室に残されていたはずだ」
ミナトは息を呑んだ。
「じゃあ、“亡霊”って……」
「――“生きていた誰か”が、亡霊を演じているのかもしれない。
この標本室を、“彼”のために動かしていた誰かがいる」
そのとき、背後で小さく“ガラスの割れる音”がした。
ライトを向けると、割れた瓶の中から――ひとつの鍵が転がり出ていた。
「……これ、戸棚の鍵じゃないですか?」
ミナトが拾い上げる。
静流は頷き、戸棚を開けた。
中には、埃をかぶったノートが一冊。
表紙には、かすれた文字でこう書かれていた。
『理科部観察記録――十年前』
静流は静かにページをめくる。
そこには、事故の直前まで書かれた観察日誌、そして最後の一文。
『僕がいなくなっても、彼らが動くようにしておいた。
僕の存在が、消えないように。』
ミナトは息を詰めた。
「……動く標本って、まさか……」
静流はノートを閉じた。
「そう。“彼”は、自分の実験の中で生き続けていた。
死後も、“動く標本”という形で」
――だが、本当にそれだけだろうか?
静流の瞳が鋭く光る。
「誰かが、この装置を最近になって再起動させている。
十年前の亡霊を“蘇らせた”人間が、今もこの学校にいる」
雨の音が、強くなった。
まるで、何かを隠すかのように。




