第1話「動く標本の噂」
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「……なぁ、聞いたことあるか? “動く標本”の話」
夜の校舎に響く、誰かの囁き。
その噂は、まるで古い校歌のように、静かにこの街に広まっていた。
かつて閉校になった天ノ原中学校。
取り壊しの予定もないまま十年以上放置されたその校舎は、今では“肝試しスポット”として若者たちの間で有名になっていた。
そして最近、その廃校にまつわる新たな都市伝説が囁かれている。
「夜中の理科準備室で、標本が歩く音がする」
「人体模型の目が動いた」
「ガラスケースの中の蝶が羽ばたいた」
――“動く標本”。
そんなばかげた話、誰が信じるものか。
そう言いながらも、噂の火は静かに燃え広がっていた。
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六月の終わり。
雨上がりの午後、古びた喫茶店に、ひとりの少女が入ってきた。
黒髪を結んだ高校生――神楽ミナト。
探偵・**榊原静流**の助手を務める、まだ見習いの少女だ。
「先生、また依頼です。今度は“動く標本”だそうですよ」
カウンターの奥でコーヒーを淹れていた静流が、片眉を上げる。
「……また怪談系か。前回の“止まった列車”で懲りたと思ったんだが?」
「私だってそう思いましたけど、今回はちゃんと“現象”があるらしくて」
ミナトは依頼書をテーブルに置く。
差出人は、市教育委員会の文化財管理課。
内容はこうだった。
――旧・天ノ原中学校の理科準備室で、展示標本の一部が“動いた”との報告あり。
現地調査を依頼。
静流は静かにコーヒーを口に含み、短く息を吐いた。
「……なるほど。行政が動くということは、単なる肝試しでは済まないか」
「そうなんです。しかも“動いた”のが――標本瓶の中のカエルだって」
ミナトが言葉を続けた瞬間、静流の目が細くなる。
「ホルマリン漬けの……死体が、動いた?」
「ええ。監視カメラの映像にも、瓶の中で“何かが動く影”が映っていたそうです」
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夜。
二人は、鍵を借りて廃校の中へ足を踏み入れた。
「……カビと埃の匂い。典型的な“時間の止まった建物”だな」
静流が懐中電灯をかざす。
廊下の壁には色あせた掲示物、倒れかけたロッカー。
窓の外には、沈みゆく夕闇。
「理科準備室はこの奥です」
ミナトが扉を開けた瞬間――
ひやり、とした空気が流れ込む。
棚の上には、無数の標本瓶が並んでいた。
蛙、蛇、魚、そして無数の昆虫。
薄暗い蛍光灯が、ホルマリンの中の生物を青く照らしている。
「……うわ、ちょっと、怖いですね」
ミナトの声が震える。
静流は無言のまま、部屋の奥へと進む。
やがて、ひときわ大きな瓶の前で立ち止まった。
「これが、例の“動くカエル”か」
瓶の中には、白く変色した小さなカエル。
液体は濁っており、長い年月を感じさせる。
だが――
その瓶の“外側”には、何かがついたような手の跡があった。
「……先生、これ……誰かが触ったんですか?」
「指の形が微妙に歪んでいる。内部から押したようにも見えるな」
ミナトの顔が青ざめる。
静流は瓶をそっと傾け、底を確認した。
わずかに、金属の反射――
底面に小型の磁気装置のようなものが貼り付いていた。
「……トリックの匂いがするな」
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その瞬間、理科準備室の奥――
ガタッ、と何かが倒れる音がした。
「ひっ……!」
ミナトが身をすくめる。
静流はライトを向ける。
光の先にあったのは――
ゆらりと揺れる人体模型。
その片腕が、わずかに動いたように見えた。
「……静流先生、今、動きましたよね?」
「“動いて見えた”んだ。――だが、見間違いではないかもしれない」
静流は模型の胸部を指でなぞる。
内部に空洞――そして、微かな振動音。
「……電源が、生きている?」
廃校に、電気など通っていないはずだった。
しかし、標本棚の奥で“何か”がわずかに点滅している。
静流は低く呟いた。
「――この“動く標本”は、幽霊の仕業じゃない。
だが、誰かがこの噂を利用して何かを隠そうとしている。」
ミナトは唾を飲み込む。
「隠す……何を?」
「それを確かめるために、ここに来たんだよ」
静流の瞳が、夜の理科準備室の奥――封鎖された戸棚を射抜いた。
そこに、次の事件の“鍵”が眠っているとも知らずに。




