第2話「氷の中の色彩」
翌朝。
美術館の前には、雪の白に包まれた静寂があった。
夜の騒ぎが嘘のように、館は閉ざされたままだ。
ユウマとミナトは、椿雪絵の呼び出しで再び現場へ足を運んでいた。
入口の前に立つと、椿が小さく頭を下げる。
「昨夜はありがとうございました。……でも、まだ信じられないんです。あの絵が、本当に“消えていく”なんて」
彼女の声は震えていた。
展示室に入ると、そこには――白一面のキャンバス。
かつて雪原の中を歩いていた女性の姿は、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っていた。
「完全に白くなってる……まるで“上塗りされた”みたいだな」
ミナトがつぶやく。
「けど、絵の具の盛り上がりも筆跡も消えてる。塗り直しじゃない」
ユウマは指先で表面をなぞる。
触れた瞬間、冷たい感触が走った。
「……まだ、凍ってる」
「凍ってる? 室内だぞ?」
ユウマは黙って視線を巡らせた。
壁際の温度計は、外気よりも低い“−1℃”を示していた。
展示室の空調は、美術品保護のため常に一定の温度に保たれているはず。
だが――。
「空調を誰かが細工してるな」
椿が驚いたように顔を上げる。
「そんなこと……できるのは、職員か技術員だけです」
「じゃあ、内部犯だ」
ミナトが言いかけた瞬間、ユウマは首を横に振った。
「まだ断定はできない。
だが“白くなる”現象の正体は、もう見えてきた」
彼はポケットから小型ライトを取り出し、絵の表面を照らした。
光を受けたキャンバスには、肉眼では見えなかった“微細な粒子”が反射していた。
「これは……塩の結晶?」
「似てるけど違う。正確には“氷結結晶”。つまり――水分を含んだ絵の具が、急速冷却で結晶化したんだ」
ミナトがぽかんとする。
「急速冷却? でもそんなことしたら、絵の具が割れるんじゃ……?」
「普通ならな。けど、絵の具に“保水性ポリマー”が混ぜてあれば、割れずに白濁化する」
「白濁化……つまり“色が消えたように見える”だけか!」
ユウマは頷いた。
「絵の具は生きている。温度や湿度によって、光の反射が変化する。
つまり――この絵は“消された”んじゃなく、“眠らされた”んだ」
ミナトが息をのむ。
「じゃあ、何のために? こんな手の込んだこと……」
ユウマは展示室の隅に目をやった。
そこには、古びたキャンバスが裏返しに立てかけられていた。
端に書かれた文字――「第0号:雪の記憶(初稿)」。
椿が小さく呟く。
「それは……館長が隠していたんです。
この“初稿”は、亡くなった画家の奥様が描いたものなんです。
けれど、館長はそれを“本物”として公開しなかった……」
「なるほど」ユウマは頷く。
「つまり“展示されていた絵”は、夫による“再現画”だった。
本物の『雪の記憶』は、ずっと隠されていたんだ」
ミナトが息をのむ。
「じゃあ――“絵を白くした”のは、そのことを世に知らせるため……?」
その瞬間、展示室の奥から低い音が鳴った。
空調のダクトの奥で、何かが動いている。
ユウマがライトを照らすと、そこには――冷却剤のボンベが接続されていた。
「やはり、細工されてたか」
「誰が……こんなことを?」椿の声が震える。
ユウマは静かに答えた。
「まだ決めつけはしない。
ただ――これは“盗み”じゃない。“記憶の保存”だ」
ミナトが首をかしげる。
「記憶の……保存?」
「そう。誰かが“絵を守るために凍らせた”。
理由は、もう一つの“雪の記憶”を知る者に聞くしかない」
ユウマの視線は、館長室の方へ向けられていた。




