第1話「白の侵食」
雪が、静かに降っていた。
街外れの丘の上、白鷺美術館は、冬の闇の中にぽつりと光を放っていた。
文化祭の片づけを終えた放課後、ユウマとミナトはその道を登っていた。
「……寒いね、ユウマ。こんな日に美術館って、デートでもないんだし」
「依頼があったんだ。断る理由もないだろう」
マフラーを直しながらミナトが苦笑する。
依頼主は、美術館の若きキュレーター・椿雪絵。
彼女のメールには、ただこう書かれていた。
『今夜、絵が“消える”かもしれません。助けてください』
意味のわからない一文。だが、ユウマは直感で“何かが起きる”と感じていた。
美術館の入口をくぐると、冷たい空気が肌を刺した。
館内はすでに閉館時刻を過ぎており、照明は展示室の一部だけが灯っている。
出迎えた椿雪絵は、深刻な面持ちで二人を案内した。
「こちらです。『雪の記憶(Snow Recollection)』が展示されている部屋です……」
特別展示室の中央。
柔らかなライトの下に、一枚のキャンバスが鎮座していた。
雪原を歩く女性の後ろ姿。淡い群青と白の調和が、まるで冬の夢のように美しかった。
「本当に“消える”って?」とミナトが尋ねる。
「ええ。昨日、照明を落としたあと、この絵の色が一瞬……白くなったんです」
「照明の故障か?」
「そう思って技術員に確認しました。でも、電気にも絵にも異常はありませんでした」
その瞬間――
展示室の照明が、ふっと揺れた。
外の風が窓を震わせ、ほんのわずかな雪が吹き込む。
ユウマが絵に視線を戻したとき、彼は気づいた。
「……色が、薄くなっている」
ほんの数秒のうちに、群青の影が退き、絵全体が“白く”濁っていく。
ミナトが息を呑んだ。
「おい、これ……本当に消えてるぞ!」
椿の顔が青ざめる。
「まさか……もう始まったの……?」
警報が鳴り、美術館の職員たちが駆けつける。
しかし、防犯カメラの映像には――誰も映っていない。
人の手による破壊ではなかった。
絵の前の床には、粉のような“氷の粒”が散っていた。
ユウマはそれを拾い上げ、指先で弾く。
淡い光を反射するその粒は、まるで「雪の欠片」のようだった。
「ユウマ、それ……絵の具じゃないよな?」
「違う。これは氷だ。だが――どうして、室内で?」
ユウマの脳裏に、ひとつの仮説が浮かぶ。
この部屋は、他の展示室よりも明らかに温度が低い。
そして、照明の角度が、絵の上部だけを強く照らしている。
「……温度、そして光。これは、偶然じゃない」
その時、老館長の佐伯が現れた。
「何の騒ぎだね?」
「館長、展示室の温度が異常に下がっています」
「そんなはずは……だが、今日のこの寒さではな……」
館長の目が、一瞬、椿の方をかすめた。
その表情は――まるで、何かを知っているかのように。
ユウマは展示室の窓辺に立ち、夜空を見上げた。
外では、粉雪がゆっくりと降り続いている。
白い闇の中、彼は静かに呟いた。
「“雪の記憶”……か。
――なら、雪が止めば、記憶は戻るのかもしれないな」
誰もまだ気づいていない。
この“白の侵食”が、人の想いと科学の狭間で生まれた、儚いトリックの始まりだということに。
⸻




