第1話 静寂の朝に
春の風が、校舎の窓をかすめた。
まだ七時前の早朝、昇降口に響くのは靴音と鳥の声だけ。
――そして、本来ならそこにもう一つ、“あの旋律”があるはずだった。
「……今日は、鳴らなかったんだ」
呟いたのは、音楽部の部長・花咲リオ。
彼女は、扉の外で立ち尽くしていた。
毎朝七時ちょうどに流れる自動演奏ピアノの音が、
今朝に限ってまったく聞こえなかったのだ。
誰もいない音楽室。
鍵はかかっており、窓も閉まっている。
ピアノは静かに、沈黙を守っていた。
まるで、永遠に息を止めたように。
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「なあユウマ、音楽室のピアノが鳴らなかったって噂、聞いたか?」
昼休み、屋上。
購買パンをかじりながら話しかけてきたのは、いつもの相棒――早瀬ミナト。
「朝から“怪奇現象”だってさ。音楽部のやつら、幽霊がピアノを弾いてたんじゃなくて、
今度は“幽霊が休んだ”って盛り上がってる」
冗談交じりに笑うミナトに、ユウマは小さく首を傾げた。
「……幽霊が、休む?」
「そうそう。だって、毎朝欠かさず鳴ってたんだぞ? 電源もオート演奏も問題なし。
でも今日は、沈黙。完全に無音だ」
ミナトの声に、ユウマの目がわずかに細くなる。
興味を持ったときの表情だ。
「壊れていないのに、音が消えた。
……それは、“鳴らなかった”んじゃなく、“鳴らせなかった”のかもな」
「は?」
「行こう。音楽室へ」
パンを食べ終える前に立ち上がるユウマ。
その背中に、ミナトは呆れながらもついていく。
――どうせまた、何か“気づいた”んだ。
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放課後。
人気のなくなった校舎に、二人の足音だけが響く。
音楽室の扉を開けると、
そこには整然と並んだ椅子と、光を反射する黒いピアノが鎮座していた。
「なあユウマ、ピアノって普通、焦げるものなのか?」
「……焦げ?」
ミナトが指差した先。
ピアノの足元の床に、うっすらと黒い焦げ跡があった。
「雷でも落ちたのか?」
「二階の室内でそれはないな」
ユウマはしゃがみ込み、焦げ跡を指先でなぞる。
すぐに何かを感じ取ったように、立ち上がった。
「電気系統……もしくは熱源。
何か“電子的な干渉”があったんだろう」
「おいおい、急に理系っぽい言い方するなよ」
苦笑するミナトを無視して、ユウマはさらに窓際へ。
窓ガラスはわずかに曇っている。
しかも外気温は高く、結露するはずがない。
「曇り……焦げ……そして音が消えた」
ユウマは小さく呟く。
その表情には、もうすでに“仮説の影”が浮かんでいた。
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そこへ現れたのは、音楽部の部長・リオだった。
彼女の顔は少し青ざめている。
「天城くん、ミナトくん……どうしてここに?」
「音を聞きたくてね」ユウマが答える。
「いや、正確には“聞こえなかった音”を」
リオは俯いたまま、震える声で言った。
「……私、朝に確かめようと思って来たんです。
でも、鍵が閉まっていて。
先生が開けてくれた時には、もう……」
「音は、完全に消えていた?」
「はい。ピアノは動いていたのに。鍵盤が、沈んでいたのに……音だけが、出なかったんです」
ミナトが目を丸くする。
「鍵盤が動いて、音が出ない? そんなこと、あるのか?」
ユウマは少しだけ笑った。
「あるさ。“音を鳴らさない方法”はいくつもある。
――たとえば、誰かが“音を遮った”ならね」
その言葉に、リオの肩が小さく震えた。
彼女はそのまま、何も言わずに部室を出ていく。
「おいユウマ、なんかリオの様子、変じゃなかったか?」
「ああ」
ユウマはピアノの上に視線を戻しながら言った。
「“罪悪感”を持つ人間の沈黙は、旋律より雄弁だからな」
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夕暮れ。
窓の向こうに沈む陽の光が、ピアノの鍵盤を照らしていた。
ユウマの指が、鍵盤の一つに触れる。
ポン――と、低いドの音。
その音だけが、部屋に響いた。
「……この音だけが、“生きている”。
となると、他の音は――誰かに“殺された”んだ」
彼の声は、夕闇に沈む校舎の中で、静かに消えていった。
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つづく
次回 第2話「無音の朝」
――沈黙の裏で、誰が“音”を止めたのか。




