第8事件「家庭科室の消えた調理器具」 第1話 消えた器具と密室の謎
放課後の校舎は、夕焼けに染まっていた。
窓際に差し込む橙の光が、廊下の床をまるで溶かした飴のように照らす。
灰色ユウマは、いつものように図書室から帰る途中だった。
静かな廊下に、ひとり分の足音――そして、鼻をすするような小さな声。
「……どうしよう……どうしよう……」
声の方を向くと、家庭科室の前で一人の少女が立ち尽くしていた。
長い黒髪を後ろでまとめ、エプロンを抱えたまま呆然と立ち尽くしている。
家庭科部の部長、ナギサだ。
「ナギサさん、どうしたの?」
「ゆ、ユウマくん!? あ、あの、ちょっと大変で……!」
ナギサは慌てて教室の中を指差した。
扉を開けると、甘いバニラと洗剤の香りが混ざった、いかにも家庭科室らしい空気が広がる。
しかし、目に入った光景に、ユウマは小さく眉をひそめた。
――棚が、空っぽだった。
調理器具のセットが並んでいるはずの金属棚。
そこにあったはずのステンレスの包丁も、計量スプーンも、泡立て器さえも――
まるで誰かが全部“持ち去った”ように消えている。
「……盗難?」
「うん。昨日の放課後、私が最後に施錠して帰ったの。
でも今日来たら、器具が全部ないの……! 明日、文化祭の試食会なのに!」
ナギサは唇をかみしめ、エプロンを握りしめる。
部長としての責任が、その小さな肩にずしりとのしかかっているのがわかった。
「鍵は?」
「私と、家庭科の香坂先生しか持ってないはずなの」
「先生には?」
「朝から探してくださってるけど……見つからなくて」
ユウマは部屋の中に足を踏み入れた。
窓を開け、空気の流れを感じながら、何気なく棚の上に指を走らせる。
――すっ、と。
指先にわずかな“境界”を感じた。
「ナギサさん、この棚、少し変だね」
「え? 変って……?」
「ここだけ埃がない。器具があった跡のように、四角く拭かれてる」
「た、たしかに……!」
ユウマは視線を窓際に移した。
カーテンの裾に、白い粉のようなものが付着している。
風が吹くたびに、細かな粒子がひらひらと揺れた。
「これは……小麦粉?」
「うん。昨日、焼き菓子の試作をしてたから」
「なるほど。じゃあ、器具を持ち出した人は昨日の夕方以降に入った。
けど、この部屋は鍵がかかってたんだね?」
ナギサは小さく頷く。
密室の中で器具が消えた。
盗難なら窓かドアの痕跡が残るはずだが、どちらも異常なし。
ユウマは無言で視線を走らせ、冷蔵庫のコンセントのあたりで立ち止まった。
――微かに、焦げたような匂い。
古い冷蔵庫の側面から、わずかな熱気が漏れていた。
温度設定のつまみは「強」になっている。
家庭科室にある中で、唯一“熱”を発する機械。
(冷蔵庫の熱……埃のない棚……カーテンの粉……)
頭の中で、何かがかすかに結びつく。
しかし、まだピースが足りない。
「ナギサさん、この教室、いつも鍵はどこに?」
「部長の私が放課後に職員室で受け取って、最後に返します」
「なるほど。じゃあ――鍵が本当に“盗まれた”のかもしれないね」
ユウマの言葉に、ナギサの顔が青ざめる。
責任を取らされる未来を想像したのだろう。
けれどユウマは静かに首を横に振った。
「大丈夫。盗んだ人がいるとしても、“目的”は器具じゃない」
「……え?」
「まだ確証はないけど、少なくとも――これは“誰かの優しさ”が関係してる気がする」
ユウマの瞳が、窓の向こうの夕焼けを映す。
オレンジ色の光が二人の間を照らし、埃の粒が金色に舞った。
「ナギサさん、今日の放課後、もう一度ここに来よう。
もしかしたら、“その人”も戻ってくるかもしれない。」
ナギサは戸惑いながらも頷いた。
夕焼けが暮れ、やがて夜の帳が降りる。
――そのとき、家庭科室の謎は、静かに形を見せ始めるのだった。




