クリスティーネ先生に励ましのお便りを送ろう!
「クリスティーネ先生の次回作にご期待ください!」をたくさん読んでいただけて嬉しかったので、お礼に続きを書きました。
時系列としては新婚旅行の話が出る前くらいです。
クリスティーネから手紙が届いた。
いつもと同じで、なかなか分厚い。
厚ければ厚いほど読み応えがある。わくわくしながら封を切った。
――『探偵王子マックイーン ~エピソード・ゼロ~』
なるほど、過去編か。
そもそも何故マックイーンが王子でありながら探偵をしているのか気になっていたのだ。
夢中になって読み進める。
読み終えて、余韻に浸った。まさかマックイーン王子にあんなに悲しい過去があったとは。
親身になって面倒を見てくれていた侍女の濡れ衣を晴らすために捜査するうちに、侍女が犯人だという証拠を掴んでしまい、苦悩するマックイーン。
侍女との別れは涙なしには見られなかった。
公務をしろとか言って済まなかった、マックイーン王子。
しばらくじんわり読後の満足感を噛み締めたところで、楽しそうに物語について話すクリスティーネの顔が思い浮かんだ。
重い腰を上げて、のろのろと文机に向かう。
面白かったら手紙の返事をする。そういう約束だ。
その約束をしてから、返事を送らなかったことはない。
つまり毎回面白いのである。約束を違えるようでは男が廃るというものだ。
便箋に「感動した」と書いて、手を止めた。
いや、感動するに決まっているだろう。そんな当たり前のことを書いていいのか。
こんなありきたりなことは誰にでも言えるわけで、たいしてよく読んでいないと思われるかもしれない。もっと気の利いた感想を書くべきではないか。
だが他になんと言い表していいのか分からない。クリスティーネと違って俺には語彙力も文才もないのだ。
書き出しては、くしゃくしゃと丸めて捨て、また書き出してはぐちゃぐちゃと消し、を繰り返す。
こんなに稚拙な感想なら、書かない方がいいのではないか。字も下手で、見苦しいし。
そう考えかけて、頭の中にクリスティーネの声が思い起こされた。
「短くても、字が下手でも構いませんから」
遠慮がちに、俺を見上げるクリスティーネ。
その姿を思い浮かべて……もう一度、ペンをインクに浸した。
◇ ◇ ◇
日課のお手紙執筆に勤しんでいたところ、お父様が私を呼んでいるとの声がかかりました。
サロンに向かってみると、お父様と叔父様が談笑しています。
二人は私に気がつくと、にこやかに迎え入れてくれました。
叔父様は商売にとても熱心で色々な国を飛び回っている方ですので、こうしてお会いするのは久しぶりです。
挨拶とお茶もそこそこに、叔父様がお話を切り出しました。
「留学、ですか」
「そうなんだ。仕入れの関係で隣国に数ヶ月滞在する予定でね。せっかくだから、クリスティーネも一緒にどうかと思って」
「騎士というのは家を空けることも多い。結婚すれば、レオナルド殿に代わって家を守っていかなくてはならなくなる。その前にいい機会だと思ってな」
「僕は、妻は粛々と家のことだけ、なんて時代は近々終わるんじゃないかと思ってるけどね。まぁ、どちらにしてもいい経験になると思うよ。もちろんクリスティーネがよければ、だけど」
「い、行ってみたいです!」
思わず勢い込んで、そう答えました。
他の国に行くなんて、滅多にある機会ではありません。
ここよりもずっと海に近い国です。もしかしたら本物の海を近くで見られるかもしれません。
いろいろな物語で出てくるので、一度本物を見てみたいと思っていたのです。
珍しい食材を使った料理があるとか、夜通し開かれるお祭りがあるとか、聞いたことはあってもよく知らないことや、行ってみたい場所がたくさんあります。
すっかり興味津々の様子の私に、お父様と叔父様は顔を見合わせて、苦笑いしました。
◇ ◇ ◇
そこから準備に追われているうちに、あれよあれよと出立の日が近づいてきました。
学校が夏休みの間に2ヶ月ほど滞在する予定です。
留学先の学校では夏休みにショートプログラムが行われているそうで、現地の方だけでなく他の国から留学してきた方とも交流できるとか。
今からワクワクしてしまいます。
文机周りで旅先に持っていくものを選別していて、ふと気づきます。
そうだわ。留学のこと、レオナルド様にお伝えした方がいいかしら。
そう思ったものの……でも今、お話がとってもいいところなんです。
これまでたくさんの人間を騙してきた悪魔の少年が、目が見えない少女の優しさに触れて、その少女の死を目前にやっと心を入れ替える。そういうシーンです。
もう筆が乗りに乗りまくっています。
ああ、自分がもっと早くに改心していれば、彼女を助けられたかもしれないのに。そう悔やんで流した涙が、彼女の頬を濡らして。
「これはなに?」って聞く少女に「雨だよ」って、そう答えるのです。そうしたら少女は「あったかい雨だね」って……
「……はっ!?」
気づくと文机にかじりついて朝を迎えていました。
お手紙がまたとんでもない厚みになっています。
最近分厚いお手紙に封をするのがどんどん上手になっているので、これくらいならきっと……
そう思って便箋を封筒に入れて、口を閉じようとしましたが……無理でした。
一度に送るのは諦めた方がいいかもしれません。
以前レオナルド様はキリのいいところまで送ってほしいとおっしゃっていましたし……留学のことは次のお手紙でいいですよね。
ちょうど良さそうなところでお手紙の山を2つに分けて、旅支度に戻りました。
◇ ◇ ◇
クリスティーネから手紙が届いた。
先日から続いている、悪魔の少年と盲目の少女の物語だ。
そろそろ物語も佳境に入っている。
盲目の少女の優しさに触れて、少しずつ心というものを知っていく悪魔。しかし盲目の少女は病で、悪魔の少年の腕の中で息を引き取ってしまう。
そこで悪魔の少年は、涙を流す。産声を上げずに生まれる悪魔にとって、生まれて初めての涙。大切なものを失ったことで、悪魔が心を手に入れたのだ。
感情移入してついつい俺まで視界が滲んでしまった。
悲しいが綺麗な終わり方だった、と思ったところで、もう1枚便箋があるのに気が付いた。
――『あれ? ここは、どこ?』
――少女は目を覚ましました。
――ぽつりと一人ぼっちの少女。周りには、誰もいません。
「は?」
思わず声が出た。
少女、生きてる。
え、何だ、どういうことだ。
さっきので終わりじゃないのか。この話、まだ続きが?
しかし、手紙はそこで終わっている。
いつもクリスティーネは、1つの話が終わるときには最後に「おわり」と書く。それがないということはやはり、この物語はまだ続いているのだ。
何故死んだはずの少女が目覚める。これはいったいどういうことなんだ。
だいたい、キリのいいところで送ってこいと言ったのに、まったくキリがよくないではないか。
返事を書こうかと思ったが、やめた。その代わりに出かける支度を開始する。
手紙を書くより、直接聞いた方が早い。そしてその場で続きを督促する。こんなもの、気になって眠れなくなってしまうだろうが。
◇ ◇ ◇
「留学」
「はい」
クリスティーネの屋敷を訪れた俺を迎えたのは、彼女の両親だった。
2人とも狐につままれたような顔をしている。
「あの。娘はレオナルド様に何もお話ししていかなかったのでしょうか」
「頻繁にお手紙のやり取りをさせていただいているようでしたので、てっきりお伝えしているものかと……」
「いや、聞いている。俺が日付を勘違いしていたようだ」
慌ててそう誤魔化して、クリスティーネの屋敷を後にする。
まずい。
手紙の中身が物語だとバレるところだった。そんなことがバレたらクリスティーネが怒られるかもしれない。それは避けなければ。
クリスティーネには出来るだけ元気に楽しく過ごしてほしい。そして意欲的に執筆してほしい。欲を言うなら毎日新作が読みたい。
だが、留学?
そんなこと、クリスティーネは一言も言っていなかった。
何故俺に何も言わないんだ。
言うだろう普通。何か、一言くらい。
◇ ◇ ◇
その後もクリスティーネからは、手紙が届いた。
国にいた頃と変わらず、毎回時間を忘れて読みふけってしまうような面白い話が届く。
だが……ふと気づいた。
気づいてしまった。
彼女が隣国で何をしているのか、どう過ごしているのか。それが一文字たりとも書かれていないのだ。
というか留学に行っているという話すら書かれていない。未だに本人から留学の「り」の字も聞いていない状態である。
何でだよ。
そういう話を書くのが手紙本来の趣旨なんじゃないのか。
こんなに分厚いんだから1枚くらい近況報告に使ったっていいだろうに。
……いや、それで物語の分量が減るのも困るので、単純に追加して送ってくれればいい。
だが考えてみれば、手紙のやり取りだけであれば隣国からでも数日遅れるだけで大した支障もなく出来てしまう。
わざわざ留学中であることなど言う必要がないといえばそうなのかもしれない。
いつも通りに物語が届いて、俺はそれを楽しめる。別に悪い状況というわけではない。
だというのに何となく……落ち着かなかった。
◇ ◇ ◇
「クリスティーネって、婚約してるのよね?」
「はい」
「どんな人!?」
「ええと」
留学先のショートプログラムで仲良くなったお友達、アンナさんにそう問いかけられて、私は首を捻りました。
どんな人、ええと……字が下手、って、これだと悪口ですね。
いつも感想をくれる、お話を褒めてくれる……というのも、私がお話を書いていることを言わないといけないですし。それを伝えるのはまだちょっと、恥ずかしいかもしれません。
しばらく悩んで、答えました。
「私のことを、面白いと言ってくださいます!」
「お、面白い?」
アンナさんがぱちぱちと目を瞬きます。
面白い、は誉め言葉ですよね。たぶん。
正確に言うなら「私の書いたお話のことを」面白いと言ってくれているのですが、その部分はそっと隠しておきましょう。
「おもしれー女、とか言うタイプの方、ってことかしら。俺様系……?」
アンナ様が不思議そうに呟いていたので、曖昧に微笑んで誤魔化しました。
すみません、レオナルド様。何か誤解されてしまったかもしれません。
◇ ◇ ◇
レオナルド様からいつもの通り、お返事が届きました。
お返事がなかったときが嘘のように毎回お返事を下さるので、嬉しくなってしまいます。
面白かったらお返事を下さるという約束ですから、返事が来たらそれだけで「面白かった」ってことですもの。
一人で書き散らしていても十分楽しいのですが、こうして「面白い」と言ってくださる方がいるとやっぱり、モチベーションが上がります。
――『悪魔視点デ 話ガ繋ガッタ。 悪魔ガ 命ヲ賭シテ 少女ヲ蘇ラセタ シーンガ 特ニ感情ガ 伝ワッテキテ ヨカッタ』
相変わらず脅迫状みたいな文字ですが、だんだん慣れてきました。
力を入れて書いたシーンを褒めていただけて嬉しいです。
ニコニコしながら感想を読み返していると、少し行間を開けたところにも何か書かれているのに気づきました。
――『最近 ドウダ』
どう、というのは。
はてなと首を捻ります。
……進捗のことかしら。
留学中も変わらず楽しくお話を書いていますけれど、せっかくいつもと違う環境にいるのですもの。いつもと違う物語に挑戦してみてもいいかもしれませんね。
それなら少し長いお話にしてみようかしら。帰ったときにまとめて感想を聞けるように。
あとは……そうですね。こちらで出来た新しいお友達にも、読んでもらえたりしたら……
それなら、きっと恋愛ものがいいですね。
婚約者の話をうきうきしながら聞いていらっしゃったから、そういうお話なら興味を持ってくださるかも。
2人の男性の間で揺れる心、ちょっと大人なラブロマンス、なんてどうかしら。
◇ ◇ ◇
クリスティーネからは変わらず手紙が届く。
近況を聞こうと思ったのだが、それは見事にスルーされていた。
いや、それはいい。
茶会に誘おうとしても観劇に誘おうとしても毎回驚くほど伝わらないのでもはやいつも通りという気すらしてくる。
気がかりなのは、物語の内容だった。
田舎を出て都会にある屋敷で働くことになった主人公。田舎には仲の良かった異性の幼馴染がいたが、離れ離れになってしまった。
幼馴染のことが気がかりながらも、都会での目新しい日々、そして新しい出会い、新しい……恋。
新しい恋。
あたらしい、恋。
見つけるな。
故郷の幼馴染と幸せになれ。
いや、そんなことはないとは分かっている。
クリスティーネは妖精でもなければ探偵王子でもないし悪魔でも盲目の少女でもない。
書いている人間と物語の中の人間は別物だ。それは分かっている。
だが……今までこんなに、揺れる乙女心を主軸に置いた、ラブロマンスをメインに据えた物語はなかった。
なのに初挑戦と思えないくらいに面白い。
恋愛物の演劇では寝てしまう超健康優良児と名高い俺でもぐいぐい引き込まれてしまう。どれだけ引き出しがあるんだ。
こんなに面白いのに、どうして俺は、こんなに不安になっているのか。
物語のことを楽しそうに話すクリスティーネの笑顔が浮かぶ。
――『楽しみにしていてくださいね!』
文机から立ち上がった。
そうだ、俺は。
お前の物語を、楽しみに待っていたいんだ。
不安な気持ちで、待っていたいわけじゃない。
◇ ◇ ◇
「クリスティーネ」
「れ、レオナルド様!?」
何と言うことでしょう。
留学先にレオナルド様が現れました。
雨が降るとか槍が降るとか、そういう以前に晴天の霹靂です。
どうして、レオナルド様がここに??
混乱して二の句が継げず、口をパクパク開け閉めすることしかできません。
隣にいたアンナ様が、こそっと私に耳打ちします。
「この人が例の、俺様系?」
いえ、別に俺様系ではないと思うのですが。
「ど、どうしてここに」
「見つけたのか」
「はい?」
「新しい恋を」
「恋??」
話がまったく理解できませんでした。
私がぽかんとしていると、アンナ様があっと声を上げました。
「もしかして、お話のこと?」
「え?」
「留学に行ったクリスティーネと自分を、お話の主人公と幼馴染に重ねちゃった、ってことじゃない?」
そんなまさか。そう思ってレオナルド様を見上げます。
顔を真っ赤にしてそっぽを向いていらっしゃいました。手には私が送った手紙が握りしめられています。
横顔に図星と書いてありました。
お話と現実を混同するなんて予想外のことで――いえ、でもレオナルド様はとても感受性が豊かなご様子でしたから、そういうこともあるのかしら。
とりあえず、違いますよと言うのを伝えてみます。
「レオナルド様。お話はお話、現実は現実ですわ」
「分かっている」
レオナルド様の眉間に深々と皺が寄りました。
そして一つため息をつくと、私に向き直りました。
「お前が全然近況を話さないから、心配になっただけだ」
「あら」
不満げなレオナルド様の言葉に、反論します。
「書いていましたよ、近況」
「は?」
「ほら、こちらの文章の頭文字を続けて読むと……」
レオナルド様の手から受け取った便箋の中から、最後のページを取り出しました。
そしてそれぞれの行の一番最初の文字を順番に指さしていきます。
――『ゲンキデス マタテガミオクリマス』
「ね!? すごい仕掛けだと思いませんか!?」
「………………」
レオナルド様が黙ってしまいました。
あ、あら?
いつもお話のことは褒めてくださるのに、これはお気に召さないご様子です。
やっぱり物語じゃないとご興味がないのかしら。
「……普通に書いて送るのではダメなのか」
「え?」
レオナルド様の言葉に、思わず目を見開きます。
普通に、書いて、送る?
手紙を、ですか?
私が、レオナルド様に?
……何故??
「レオナルド様は、お話を楽しみにしてくださっていますよね?」
「それはそうだ!」
即答でした。
よかった、楽しみにしてくださっていて。それでこそ私も送りがいがあるというものです。
「それは、そうだが、…………」
ニコニコの私に対して、レオナルド様はもごもごと口ごもっていました。
そしてやがて、手のひらで顔を覆って、呻くように呟きます。
「いや、俺が悪い」
「????」
首を傾げるばかりの私を見て、レオナルド様がため息とともに、苦笑を漏らします。
「3回に1回くらい、エッセイを送ってくれ」
「エッセイ」
「それで手を打つ」
「え、いいなぁエッセイ。あたしも読みたい」
それまで黙っていたアンナさんが、はーいと元気に右手を上げました。
「今書いてるお話もすっごく面白いもん、エッセイも面白そう」
レオナルド様がじろりとアンナさんを睨んだ後で、私に向き直りました。
また眉間に皺が寄っています。
「……読ませているのか」
「は、はい」
レオナルド様の言葉に、頷きます。
ちょっと照れてしまうときもありますけれど、アンナさんもたくさん感想をくださるので、とても励みになっていました。
「最初は恥ずかしさもありましたけれど……レオナルド様がいつも褒めてくださるので少し、自信が出て。感想をいただくのも嬉しいですし」
「…………」
「あの、レオナルド様?」
「あの顔ね。俺だけがよかったvs.俺が褒めて喜んでくれて嬉しい、の顔だよ」
「えっ!?」
まさかまさか、と思ってレオナルド様を仰ぎ見ます。
くるりと顔を背けられましたが、ええと、耳が赤いですね。照れていらっしゃるようです。
確かにレオナルド様、感想をいただいて私が嬉しそうにしていると、満足げなご様子をよく見る気がします。
進捗を気にしてくださっているし、きっと私の執筆環境やモチベーションを気遣ってくれているのでしょう。
俺だけがよかった、も、少しだけ分かる気がします。自分が気に入っていた本が後からベストセラーになったときとか、「私は最初から好きだったけど!?」と思いますもの。
大丈夫です。私は古くからのファンもきちんと大切にいたします。
「初めて読んでくださったのも、初めて感想を下さったのもレオナルド様ですから。私のファン一号はレオナルド様ですわ」
「そ、そうか」
レオナルド様が照れ臭そうに頬を搔いています。
最初に読んでくださって、感想を伝えてくださったのはレオナルド様ですもの。新しい読者の方が出来たからと言って、感謝を忘れてはいけません。
「じゃああたしが二号だね」
アンナさんがにこりと微笑みました。
そして私の腕を引っぱってこちらを見上げます。
「ねー、本にして売ろうよ。あたしのお父さん、出版の職人にも伝手あるよ」
「え、ええと」
本にして、売る?
思いもよらない提案に困惑してしまいます。
アンナさんのお家はとっても大きな商会をやっていらっしゃるそうなので、本当にそういうお知り合いがいてもおかしくはないのですけれども。
困ってしまってレオナルド様の方を見れば、レオナルド様は難しそうな顔をしていました。
しばらく押し黙ったあとで、言います。
「物語はいいが、エッセイはダメだ」
レオナルド様は私の手紙を丁寧に畳んで胸ポケットにしまうと、視線を私に移しました。
「俺のためだけに書いてほしい」
まっすぐに、私だけを見つめるレオナルド様。
物語だったら――まるで世界に2人きりみたいだった、なんて、モノローグを入れたくなるような。
そんな、時間が止まったような、一瞬でした。
「楽しみにしている」
もちろんここは現実で、物語などではありませんから――というか2人きりではありませんから、アンナさんが茶化すように吹いた口笛が、ヒュゥ、と響きました。
◇ ◇ ◇
「今回は分量がその……控えめ、だったな」
「実は、少し迷っていまして」
留学から帰ってしばらくして。
私はレオナルド様と向き合ってお茶をしていました。
今物語で悩んでいることを、ため息とともに打ち明けます。
「主人公が子育て中の母親なのですが、私には妊娠も出産も、経験がないものですから。どうにもリアリティが足りない気がして」
「そっ、」
レオナルド様が急にげほげほと咳き込みました。
大変です。紅茶が変なところに入ってしまわれたのでしょうか。
背中を摩ろうと立ち上がった私を手で制して、レオナルド様が息も絶え絶え、途切れ途切れに、言います。
「それ、は、その……」
「?」
「………………」
レオナルド様が黙りました。
ゴクリ、と息を呑む音が聞こえた気がします。
レオナルド様がまっすぐ私を見つめて、そこからまたしばらく沈黙が続いて――やがてレオナルド様は、すっと私から視線を逸らしました。
「……姉のところに、子どもが生まれたばかりなんだが。話を、聞きにいくか」
「まぁっ! よろしいんですか?」
◇ ◇ ◇
「やはり寝かしつけというのは大変なのですね」
「そうよぉ、寝ついたと思ったらちょっとしたことで起きちゃって。もう寝不足」
レオナルド様のお姉様はとても明るい方で、妊娠出産のことや育児のことなど、面白おかしくいろいろと話して聞かせてくださいました。
聞いたお話だけでお姉様のエッセイが書けてしまいそうなくらいです。
「まぁ反対に、起きずに何時間も寝てるとそれはそれで、大丈夫かしらって不安になるんだけどね~」
なるほど、なるほど。
手元のメモに書き込んで、視線を上げます。
こちらを見つめているレオナルド様のお姉様と、ばっちり目が合いました。
お姉様はふふっと、何だかくすぐったそうに笑いました。
「クリスティーネちゃんもすぐに分かるわ」
分かる?
分かると、いうと……何が?
「あの子無愛想だから心配してたけど……こうして二人で会いに来てくれるなんて。仲良しで安心したわ」
あの子、というのはレオナルド様のことだと思います。
私と、レオナルド様が……仲良し?
「楽しみね、クリスティーネちゃん」
にっこり笑って言われて、やっとお姉様の言葉の意図を理解しました。
お姉様からしてみれば、弟とその婚約者が2人で連れ立ってやってきて、妊娠出産育児について熱心にメモまで取って質問している、という状況なわけで。
それが来るべき将来のためだとか、勉強熱心なお嫁さんね、とか、勘違いしたっておかしくないわけで。
ぼっと顔が熱くなります。
わ、私ったら、なんてことを!!
まったくこれっぽっちも、そんなつもりではないのに!!
「……話は済んだか」
「きゃっ!」
急に現れたレオナルド様に、思わず悲鳴を上げてしまいました。
レオナルド様は一瞬驚いた顔をして、そして怪訝そうに眉をひそめながら、私に歩み寄ってきました。
「どうした、顔が赤いぞ」
「い、いいい、いえ、何でもありません!」
慌てて俯いて、顔を隠します。
ああ、早く冷めないかしら。
そしてお姉様にはその勘違いを絶対にレオナルド様には言わないでおいて欲しいのですけれど、それを頼むタイミングはもう失われてしまった気がします。
「書けそうか」
レオナルド様の言葉に、顔を上げました。
レオナルド様は、まっすぐ私を見つめています。
少しの心配と……楽しみな気持ちが混じった表情。
私の物語を楽しみにしてくれている。
それが伝わってきただけで、他のことなんて全部気にならなくなってしまうから、不思議です。
私にはまだまだ書きたいお話がたくさんあって。
きっと、次のお話も、楽しんでもらえるんじゃないかしら。
そう思うと、わくわくする気持ちが止まりません。
ああ、早く帰って、ペンを走らせたい。
それで早く、読んでどう思ったか聞いてみたい。
その気持ちでもって、答えます。
「はいっ! 今回もきっと、楽しいお話になりますよ」
私の言葉に、レオナルド様は一瞬目を見開いた後、ふわりとやさしく微笑みました。
「楽しみだ」