白煙
雪の白さに憧れた、そんな濁った白煙だった。
煙はいくつものうねりを帯び、段々と車の中を満たしていく。口内から吐き出されたそれは、感情の波で弄れた自身の心模様にも見えた。言葉の通り、ストレスを発散しているかのような、そんな気分。その煙がまた焙茶のような芳しい香りで、非常に甘ったるいのだ。嫌になるくらいに。しかしその分、俺の心が軽くなっていくのを感じていた。
冬夜の肌寒さに震えていた体と心が、段々と満たされていく。俺は火が灯ったライターを消し、助手席にボングを置いて、運転席へもたれかかる。使い古されたシートカバーは体の形を象るようにへこんでいて、俺の体を綺麗に沈ませていった。
ああ、落ち着く。ここは俺だけの世界だ。
雨に病んだ
飢いたこころと
凍てついた空を
街翳が縁取る
旧車のインパネに無理やり嵌め込んだ最新の1DINオーディオから、音楽が流れている。最初の父親がよく聴いていた、お気に入りの曲。その曲に聴き浸りながら、フロントガラスの向こう側を覗いた。
新宿区歌舞伎町二丁目。小さな個人店が並ぶ、東新宿駅近くの裏通り。街灯はなく、建物からの環境照明がちらほらと見える程度で、周りは薄暗い。アスファルトには大きな水溜まりが出来ているが、雨は既に止んでいた。しかし、夜空は相変わらず雲で覆われている。月の光すら見えない。代わりにこの寂れた通りに建つ廃墟の上から、フラッシュライトやネオンの灯りが見え隠れしている。嫌に目にチラついた。都会の放つ光がいかに強烈かを、俺は思い知らされる。白煙に透け、雨に濡れたフロントガラスから覗くそれは、酷くぼやけて霞んでいるというのに、とても眩しかった。
「ちっ……」
光を隠すようにサンバイザーを下ろして、俺は目を閉じる。そうすると、オーディオから流れる音楽がより鮮明に聴こえてくる。微かな環境音も消えていく。これだ。こうして音楽に身を委ねていれば、何もかも忘れられる。そう思ったが、それも束の間だった。
『――彰良』
聞き覚えのある声がした。耳元で囁かれたかのような、吐息混じりの女性の声。だが、言葉はハッキリしている。俺の名前だ。
もちろん、助手席には誰も乗っていない。幻聴である事は理解しているはずなのに、妙にリアルな感覚。そしてすぐ、胸を締め付けられるような強い圧迫感を覚えた。嫌な予感がする。いつものアレだ。悪夢が蘇っていく。
彼女は何度も何度も飽きもせず俺を呼んで、目を覚ましてくれと言わんばかりに語気を強めていく。ここは現実じゃない、俺は夢の中にいる。そう信じ込まされていく。違うと否定しても、彼女は俺の名前を呼ぶ事をやめてはくれない。遂には瞼の裏へ姿を滲ませていくように、少しずつ彼女の姿が浮かび上がってきた。
美紗希だ。俺を捨てて、置き去りにした女。
「クソッ」
俺は手に持っていたライターを、フロントガラスへ投げつけた。間の抜けたような、軽い音がした。力なんて全く籠ってはいなかった。衝動的な自分の行動が馬鹿らしく感じて、深く溜め息をつく。俺は背もたれに寄りかかって、そのまま目線を上げた。そして、サンバイザーの裏に挟んだ一枚の写真に意識が向く。彼女と撮ったツーショットの写真だ。
どうして忘れさせてくれない?どうして俺を苦しめる?そんな言葉達が、音楽を遮って脳内に響き渡った。俺は右手で顔を押さえ、流れそうになる涙を必死で止めようとする。体がまた、震え出す。きっと今の俺は、とても情けない姿だろう。呼吸は乱れ、嗚咽が抑えられず、体は段々と胎児のように縮こまっていく。
「美紗希……」
思わず彼女の名前を呟いた。それをきっかけに、忘れようとしていた思い出が、一気に頭の中へ浮かび上がってくる。楽しかった時間が、一緒に過ごした時間が、お互いの感情をぶつけ合った時間が、フラッシュバックしていく。オーディオから流れる音楽など、既に聴こえてはいなかった。
この胸の苦しみから、俺はいつ解放される?そんな事を考えると、余計に気が狂いそうになった。寒気がして、体は凍えてしまいそうだった。このままでは、きっとまた酷い幻覚が見えてしまう。
コンコン。
不意にドアのガラスを叩く音がして、俺は窓を覗いた。
「……?」
そこには、ずぶ濡れで突っ立っている少年がいた。年齢は6、7歳といったところか。華奢で背は低く、肌はやたらと白い。灰色のパーカーを着ているが、服のサイズは全く合っておらず、全体的にだぼっとしていた。雨に濡れたのも原因の一つだろうが、所々縒れていたり、糸がほつれている部分も見える。そんなボロのパーカーのフードを被り、彼は俺の事をじっと見つめていた。
少し不気味に感じたが、ずっと見られているのも気分が悪い。俺は涙を拭いて、出来るだけ体の震えを抑える。そして窓を開いて、モールの上に肘をかけた。
「……なにやってんだ、お前」
俺が少し震えた声で話しかけると、少年は口を噤んでいた。別に脅えているわけでもなく、口が聞けないわけでもなさそうだ。様子が気になるのか、静かに俺を見ている。しかしそれだけではない。彼の目は、何かを懇願しているかのようだった。気に入らない目付きだ。
「めんどくせぇな……」
俺は少年から目を逸らし、札束に塗れたグローブボックスの中を漁る。そして、ある物を取り出した。
「用がねぇなら失せろ、ガキ」
取り出した物を少年へ突きつける。それは"銃"だった。右手の人差し指をトリガーに添え、『すぐに撃てる状態だ』と意識的に彼を脅す。実際はただのモデルガンで、玩具同然の代物だ。それでも、子供を驚かせるには充分だろう。
「……」
だが、彼は全く動じていなかった。銃が偽物だと気づいている様子はなく、その場から退こうとする様子もない。『撃つなら撃て』と言わんばかりに、俺を見ているのだ。とても拍子抜けな反応だった。なんだか自分の方が恥ずかしく思えてきて、突きつけた銃を元の場所へとしまった。
「……なにか言いたいんだったら早く答えろっつーんだよ。じゃなきゃ窓閉めるぞ」
俺がそっぽを向きながらそう伝えると、少年はドアの方へ少しだけ近づいてくる。そして、閉ざしていた口を遂に開いた。
「……乗せて」
そう言った彼は少しだけ後退りをすると、両手で口を覆って息を吐く。彼の指の隙間から、白息が漏れているのが見える。か弱い素振りを見せ、憐れみを乞いているつもりか。嫌なガキだ。
極めつけには、見るからに磨り減った靴の裏を、アスファルトへ擦りつけている。今か今かと、俺の答えを待っている様子だ。
「あのなぁ、タクシーじゃねぇんだぞ」
それを見て、俺は呆れた表情を少年へ向ける。彼の方はというと、それすら特に気にしてなさそうだ。
俺は人差し指でとん、とんと窓枠を何度もつつきながら、どうにかしてこの少年を追い払えないか、と考えていた。
沈黙。嫌な空気が流れる。相変わらず、少年は俺の方を見つめている。心に隔てた壁を越え、中へ中へと入り込もうとしているのが、彼の視線を通して伝わってくる。俺の創り上げた世界が、一気に崩れ去っていくような気がした。
しばらく考えた後、俺は右手の人差し指と親指で丸を作り、少年の方へ向けた。
「……金」
「え?」少年は不思議そうな声を上げる。
「金出せってんだよ。タダで汚ぇガキ乗せるわけねぇだろ。それにな、言ってみりゃ誘拐してくれってことだろ?俺のリスクも考えろ」
助手席のシートを左手で叩きながら、俺はそう言った。
「……お金出したら、乗せてくれるの?」
「ああ。その代わり、タクシーより高いけどな」
「どれぐらい?」
「諭吉三人分」
「諭吉って?」
「ったく……三万って意味。持ってねぇならどっか行けよ」
俺は少年へ向けて、手で追い払うジェスチャーをする。
「……用意出来たら、本当に乗せてくれる?」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出る。子供にそんな金が用意できるわけがない。金を強請れば流石に退くだろうと思ったが、余程強情らしい。そこまでして、俺に乗せてもらいたいのだろうか。
「三万だぞ?どうやって用意するつもりだよ」
「……」
「ほら見ろ、どうせなんも考えてねぇんだろ」
少年はまた口を噤む。しかし、まだ退く様子は無い。なんとか説得して、俺の車に乗せてもらおうとしているようだ。しかし何も思いつかないらしく、彼はそのまま顔を伏せてしまう。
――勘弁しろよ……。
「……どこまで乗りたいんだよ」
俺は頭を掻きながら、少年に聞いた。ああ、やってしまった。遂に聞いてはいけない事を聞いてしまった。もう後には退けない。なぜなら、少年から返ってくる答えを、なんとなく察していたから。
「出来るだけ遠く」
少年は答える。
やはり、か。家にすら帰ろうとしない辺り、"そういうこと"だろう。予想していた通りの回答だった。俺は助手席に置いたボングを後部座席へ乗せて、座席の裏に掛けてあったタオルをシートの上に敷いた。
「汚すんじゃねぇぞ」
そう言って、俺は首を助手席の方へ振り、『乗れ』とジェスチャーを送る。少年は特に表情を変えることもなく静かに頷くと、助手席の方へ走っていく。
似たような境遇だと、同情してしまったのだろうか。彼を連れていれば、少しはマシな人間にでもなれるとでも思ったのか。
グローブボックスの中へ無造作に敷き詰められている、盗んだ金を見て思う。彼を救ってやれば、あんな玩具を二度と使う事もないのだろうか。あんな物に頼らずとも、悪夢を見る事はなくなるのだろうか。
――いや、救われたいのは俺の方か。
きっと俺は、少年に期待しているのだろう。あの世で待つ美紗希のように、心を変えてくれる何かを。
「ありがとう」
「え?」
突然の声に驚いて、助手席へ向く。それは少年の声だった。彼は俺の様子を、不思議そうな眼差しで見つめていた。
「あ、ああ……」
俺は戸惑いながら返事をして、少年から目を逸らした。彼の一言で心が温まっていく感覚がして、とても小っ恥ずかしかったから。こんな気持ちになったのは久しぶりだった。俺にも子供がいたら、いつもこんな気持ちになれたのだろうか、と思ってしまう。美紗希と送るはずだった未来を想像して、また泣きそうになる。俺は少年に見えないように右側へ顔を向けて、必死で涙を堪えた。
気付けば、外は雪が舞っていた。相変わらず雪はとても白い。俺にはその光景が眩しくて、潤んだ目を拭いながら大きく溜め息をついた。
その白息は、今まで見た事もないくらいに白く感じた。