謹慎デビル
人はどうすべきか迷ったとき、心の中にいる天使と悪魔に答えを求める。
一級誘惑師の資格を持つベテラン悪魔が、神様より謹慎を言い渡された。
本来であれば、人が迷ったとき道徳や倫理に反する選択をするよう唆すのが悪魔の仕事である。ところがこの頃の彼はというと、まるで天使のように人を正しい方向に導いてばかりいた。
誘惑師としての役割をまっとうしない悪魔に対して神様は激昂し、謹慎期間中に邪悪な心を取り戻すよう強く命じた。
悪魔は恭しく頭を下げ、地獄の一丁目にある自宅に閉じ籠った。
長年彼のパートナーとして働いている天使が屋敷を訪れると、真面目な悪魔は畳の上で座禅を組んでいた。
「悪魔のくせにずいぶん殊勝なことをやってるじゃないか」
天使がからかうように言った。
悪魔は姿勢を崩さず、目線だけを天使のほうに移した。
「どうやら俺は悪魔らしさを見失ったようだ。だからこうして自分の心と向き合っている」
「君が悪意を忘れたと?」
「最近の俺は人間を唆すどころか人間に正しい道を示している。これは俺が悪魔の心を失くしてしまったからだ」
「ふむ、確かに最近の君は悪魔らしくない。やり方こそ僕とは違うが、まるで天使のような仕事っぷりだ。だけど君はそれを自覚していなかった」
「……お前は現場で俺の間違いを指摘しないよな」
「悪魔のくせに天使に甘えようとするな。君はプロの誘惑師なのだろう?」
「それもそうだ」
悪魔は目を閉じて、再び自分のうちに眠る悪意と向き合おうとした。
しかし、天使は知っていた。問題があるのは彼の心ではない、と。
誘惑歴百年以上のベテラン悪魔が今さら悪意を忘れて、善良な心に目覚めるはずなどないのだ。悪魔はちゃんと邪悪な心を持っている。ただ近年は人間社会で善悪の基準が曖昧になっており、悪魔が悪事と思って勧めたことが、人間にとって善き行いに結びつくことがざらにあるのだ。
座禅を組んで無駄な努力を続ける相棒を見かねた天使は、憐れな悪魔にこのことを教えてやった。
すると悪魔は一瞬目を白黒させて天使に聞き返した。
「つまり、俺の知識が古いということか?」
「そうだね。現代人の新しい倫理観に合わせて、君も善悪の基準をアップデートさせる必要がある。……仕方ないから、今回だけは僕が指導してやろう」
「すまない。助かるよ」
悪魔は天使を客間に通して緑茶とようかんを二人分用意した。
遥か欧州からこの島国に転勤してきてもう随分と経つ。八百万の神々の機嫌をとる毎日には苦労が絶えないが、熱い緑茶を飲んでいる時だけは悪魔の表情もほっこりと緩む。天使も緑茶を啜ってほうっと深く息を吐いた。
二人が同時に湯飲みを置くと、おもむろに天使が人差し指を立てた。
「まず昨日のことだが、ダイエットに励む女子高生がいただろう。彼女は食事制限をしていたが、甘いものが食べたくなり葛藤した。君は彼女の耳元で冷蔵庫のショートケーキを食べるよう囁いた。違うか?」
「違わない」
ダイエット中の女性に甘いものを食べさせるのは、悪魔の十八番である。悪魔もまた甘いものが好きなので、どのように囁けば効果的なのかを熟知しているのだ。
悪魔は菓子楊枝でようかんを一口大に切り分けると、乙女みたいなおちょぼ口で頬張った。
「あれは痛快だったな。あの女、半年以上も食事制限をしていたというのに、俺に唆されると泣きながらケーキを食いだしたんだ。あれできっと、今後も食欲の歯止めが利かなくなるだろう。ダイエットは失敗だ」
「そうだな。ダイエットは失敗だろう。だが君は善いことをしてしまった」
「なに?」
「彼女は無理な食事制限をしていたからなあ。あそこで食べなければ近いうちに栄養失調で倒れていたはずだ。彼女の家族も心配していたし。だから彼女がケーキを食べたのは正しいことなんだ。君は善いことをしてしまった」
「なんだと……」
「僕は彼女にバランスの取れた食事をするよう勧めていたけど、うまくいかなかった。君がケーキを食べるように誘惑してくれたから彼女は助かったんだ。君の方が一枚上手だったな。だが君がやったのは、本来天使がすべき仕事だ」
悪魔は苦い顔をしてあごに爪を立てた。ストレスを感じると体のどこかに爪を立てるクセがあるのだ。
一方の天使は涼しい目をして人差し指と中指を立て、Vサインをつくった。
「次は先週のことだ。大きな荷物を持ち運んでいる老婆を心配して、声をかけようとした青年がいただろう。君は勇気をだして老婆に話しかけようとする青年に、そんなことはやめておけと言った。違うか?」
「違わない」
知らない人に声をかけるのは勇気がいることだ。この島国には善行イコール恥ずかしいことだという共通認識があるので、耳元で一言「やめておけ」と囁くだけで、即席の勇気なんてあっけなく雲散霧消してしまう。
ベテラン悪魔にとって青年の好意を握り潰すなど造作もないことであった。
悪魔は腕を組んで、勝ち誇った顔をした。
「この島国には意気地なしが多いからな。簡単な仕事だったぞ」
「確かに、困っている人がいても無視すべきだという風潮があるのは嘆かわしい限りだ。しかし、老婆に声をかけなかった彼の選択は正しかった」
「なに?」
「あの青年は優しい心の持ち主だが、見た目が怖すぎるからな。あのタイミングで老婆に話しかけていたら、驚いた老婆は腰を抜かしていただろう。それにあの程度の荷物なら持ち慣れていたし、事実老婆は誰の協力も必要としていなかったよ。女性や子供に心配してもらえるのは嬉しいだろうが、怖い顔をした男が彼女に話しかけたところで、無用な恐怖を与えるだけなんだ」
「……そうか」
「君が青年を引き止めてくれたおかげで、老婆は腰を抜かさずに済んだ」
途端に悪魔は悲しくなった。彼もよく顔が怖いと言われるが、悪魔として生まれた以上は仕方のないことだ。人に害をなす悪魔が恐れられるのは納得できるが、心根の優しい青年が見た目を理由に避けられる人間社会は何ともやるせない。
「君は善いことをしてしまった」
悪魔はしょんもりと肩を竦めた。
彼の失敗について一息に告げるのは残酷かもしれない。しかし、天使は悪魔のためを思って三本目の指を立てた。
「最後のはもっとひどいぞ。大失敗と言っても過言ではない」
悪魔がさらに小さくなるのを見て、天使はなんだか嬉しくなった。世のため人のため、悪魔を懲らしめるのが天使の役割なのだ。たとえ相手が長年組んでいるパートナーでも、天使は本能的に悪魔の悲しむ顔が好きなのだ。
「先月の話だ。僕たちは中学校で仕事をしたんだけど、覚えているよね? あのクラスは運動神経抜群のK君がリーダーになって、クラスメイトをまとめていた。K君は頭も良かったから、本当にうまくクラスメイトを統率していたんだ。文化祭の劇だって、K君のおかげで大成功だった。
でも、そんなK君のことを心底憎んでいるクラスメイトがいた。そう、僕たちが担当したA君だ。A君はK君のことを殴ってやりたいくらい憎んでいた。当然僕は暴力なんて振るわず平和的に解決するようA君を説得していた。でも悪魔である君は、A君の耳元で気に入らないK君を殴るよう囁き続けたよね? 結局A君は調子に乗っているK君に不意打ちの一発を食らわせた。
結果的に、あの渾身の一撃によって、ひとつの命が救われた!」
悪魔は「もう止めてくれ!」と叫び、机に顔面を押しつけてしくしく泣きだした。
その失敗については悪魔も薄々感づいていた。
A君の親友が、K君率いるクラスメイトたちにいじめられていたのだ。
「A君があそこで勇気を出していなければ、追い詰められた親友はその日の放課後に自ら命を絶っていただろう。本当に、君は善いことをしてしまった!」
天使が称賛の拍手を送ると、悪魔は自分の腕に爪を食いこませた。
* * * * *
悔し涙が枯れてしまうと、ふと、去年の出来事を思い出した。
目を真っ赤に腫らした悪魔が、美しい微笑みを浮かべている相棒に確認する。
「去年のことだけど、有名企業のT社でも似たようなことがあったよな。上司にいじめられてる部下の葛藤を相手にしたんだけど……」
天使は首を傾げたが、すぐに思い出したようで両手を打ち鳴らした。
「ああ、そういえばあったな、あれは酷い事件だった! 精神的に追い詰められていた部下が、君に唆されて上司を殴ってしまったんだ。いい大人が暴力を振るうなんて許し難い事件だよ」
* * * * *
謹慎が解けると、悪魔は一級誘惑師の資格を返上した。
人間の善悪が悪魔の尺度で測れないことを、彼はもう知っていた。
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