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緊急のお仕事

 カルロは朝から日本語の勉強をしていたが、仮名文字とかいうルーン文字の親戚みたいな奇妙な文字の読み書きで頭が痛くなったため、休憩することにした。

 アドルフォは「さっさと日本語を覚えろ」と急かしてくるがなかなか進まない。


 ジャンの操る青いモラーヌ・ソルニエMS.406が、イスパノ・スイザ12気筒液冷エンジンの軽快な音を響かせて青空を飛び回っている。その姿はまるで、空ではしゃぐ鳥のようだ。

 格納庫の前に白いリクライニングチェアを引っ張り出したカルロは、くつろぎながらそれを見上げている。

 チェアの横に置いてあるテーブルの上の無線機から、ジャンの嬉しそうなダミ声が聞こえてくる。飛ぶのが楽しいといった感じのその様子が、カルロには少し羨ましく思えた。

『よーし、完璧だ! それにしてもこんなに気持ちよく飛ぶのは久しぶりだな! やっぱりエンジンの整備はプロの手に限る! ガハハ!』

「そうかい。そいつは良かったな」

 と、ぶっきらぼうに答えたのは、カルロの隣に立つ整備班長。彼の目の下には隈ができている。

 初めて触る液冷エンジンに難解なフランス語のマニュアル、勘で整備していたジャンの要領を得ない説明。それに今までジャン一人で作業していたので、ありとあらゆる箇所に見落としがないか確認しながら整備員一同総出でくまなく整備した。それを連日遅くまで続けて、ようやくエンジンを完全な状態に仕上げることができたのだ。

「もう寝た方がいいんじゃないか?」

 カルロは、整備班長に声をかけた。

「馬鹿言わんで下さい。最後まで面倒見ないと」

 と、大きなあくびをしつつの返事。さすがの職人気質だった。

 ジャンは総仕上げとばかりに鋭い空戦機動を見せつけた。

「おー、やっぱり単発機はよく回る。サジタリオ号であんな機動をしたら失速するな」

「あれはそういう飛行機じゃないですから」

「それにしたって酷いだろ……」

「まあ……」

 カルロは、自身が軍にいた時の乗機だったCR.32を思い出した。今、目の前で舞っているあの飛行機よりも更にクルクル回る、素直な操縦特性の乗っていて楽しい複葉機を懐かしむ。

 最近の飛行機の進化速度は凄まじく、スペイン内戦で他国機を圧倒してその空を制した名機CR.32も今となってはもはや旧式機であるが、また乗ってみたいと思う。

 だが、それで竜と戦えと言われるとそれはそれで不安なので、そこは遠慮しておきたい。

『おう、お前さんも乗ってみるか?』

「いいのか?」

『ああ。でも壊すなよ?』

「壊すかよ。それに、あんたより上手に飛んでみせるさ」

『言いやがったな。よし、お前さんの腕前を拝見させてもらうぞ』

「おい、二人とも無茶して壊すんじゃねぇぞ……」

 寝不足の整備班長の、嘆きにも似た呟きが聞こえた。


 *


 フランチェスカは飛行場の敷地内にある井戸から桶を引き上げると、その中の水に浸かっているサイダーの瓶を取り出した。冷たい井戸の水を利用し、サイダーを冷やしていたのだ。

 瓶を覆う水気を飛行服の袖で拭き取ると、拭いたその跡から水滴が浮き出てくる。十分に冷えているようなので、美味しく飲めるだろう。

 持ってきたトレイの上にはガラスのコップが三つ。そこにサイダーの瓶を加え、格納庫へ向かった。

 裏口から格納庫へ入り、サジタリオ号が鎮座するその横を通ってそのまま正面口へ向かう。扉が開いたままの正面口には、カルロのリクライニングチェアとテーブル、大柄な整備班長の立ち姿が見える。

「カルロ様、サイダーが冷えましたよー」

 そう言いながらフランチェスカがリクライニングチェアに近づくと、

「うわ豚っ!? もしかしてカルロ様、自分に魔法をかけて豚になったんですか!?」

 カルロがいるはずの場所で太った大男がくつろいでいるのを、彼女は見た。

「お前さんも大概失礼だな!?」

「なーんだ、大尉どのでしたか」

「そんな露骨に嫌そうな顔するな!」

「そりゃあ、カルロ様と思ってたのが毛むくじゃらで腹の出たむさ苦しい中年男だったら、もちろん嫌ですよね!?」

「ボロクソ言ってる相手に同意を求めんな! それにな、カルロの奴もいつかこうなるんだぞ!」

 と、言い終わるとジャンはポン、と自分の腹を叩いた。

「えー……ちょっと触ってもいいですか?」

「ん? ああ、いいけど?」

 フランチェスカはトレイをテーブルに置くと、人差し指でジャンの腹をつついた。

「んー……あ、でもカルロ様がこうなったらこうなったで、お腹に顔を埋めて気持ちよく眠れそうですね」

「……」

 ジャンと整備班長の目が合う。

「「チッ!」」

 男二人の舌打ちが同時に響いた。

「まあまあ、男の嫉妬はみっともないですよ?」

「嫉妬じゃねぇ」

「ふーん」

 フランチェスカはジャンの言葉を適当に流して、並べたコップにサイダーを注ぎ始めた。

 注がれたコップの表面にじんわりと水滴が現れ、その中のサイダーが炭酸ガスの放つ爽やかな音を奏でている。フランチェスカはそれを持ち上げて整備班長へ差し出した。

「はい、班長さん」

「おう、すまない」

 整備班長は受け取るとすぐに、ぐいっと飲み干した。

「どーぞ」

 続けてジャンにも。

「おお、ありがと……って、泡ばっかりじゃねぇか!」

 フランチェスカはジャンの抗議を無視して自分の分を手に取り、一口飲む。

「じゃあ今飛んでるの、カルロ様なんですね」

 空を見上げると、飛行機がキラリと光り、飛行機雲を引きながら空を舞っている。

 機動の制限が多いサジタリオ号に乗っているときに比べ、楽しそうに見える。

 いつものように一緒に飛ばず、一人、地上に残されている時にそんな様子を見せられると、彼が自分の元を離れてどこか遠くへ飛んで行ってしまいそうな気がして一瞬、不安な気持ちになった。

「なかなかいい腕じゃないか」

「わかります? 十代の頃から乗ってるんですよ」

「あー……やっぱり金持ちのボンボンは違うな。それになんだ、戦闘機乗りみたいな動きをしやがる」

「へー」

 フランチェスカはジャンとのファースト・コンタクトでの出来事を思い出し、カルロがかつて空軍に在籍していたことは言わなかった。

『そろそろ降りるぞ』

 無線機からカルロの声が聞こえてくる。その声で、十分に堪能した様子が伝わってきた。


 *


 カルロが着陸して格納庫の前にタキシングしてくるのとほぼ同時に、カーキ色をした軍用小型自動車が近づいてきた。

 格納庫の前で止まったその自動車の中から、日本軍の軍人と一緒にアドルフォが現れた。

 機体から降りたカルロは、そこに近づいた。

「何だ? もしかして何かやらかしてとうとう憲兵に捕まったのか?」

「え? アドルフォ様が?」

「馬鹿か。俺は何かあっても多少のことなら揉み消せる側の人間だぞ」

「今さらっととんでもない事言いやがった!?」

「それはいいから仕事だ、すぐに飛んでもらう」

「そこの軍人は?」

 アドルフォの隣りには、威厳のある口ひげの軍人が姿勢を正して立っている。

「町で昼飯を食べてたら、いきなりこの大尉に連れて来られた。ここに来る途中で仕事の話も聞いている」

「仕事ならこっちに直接電話した方が速いじゃないか」

「おっそうだな。なら誰が相手でも電話に出られるように、お前も早く日本語を覚えような」

「あー」

 藪蛇だった。

「それより、ハイラルからこっちに向かっている途中の列車が機関車の故障だとかで立ち往生しているそうだ。で、そこにデカい竜が子連れで近づいている」

「親子連れとは珍しいな」

「都合の悪いことに今、近所の武装民間機でそいつらに対応できそうな奴らが出払っているそうだ。満鉄が日本軍に泣きついたそうだが軍の戦闘機では手に余る大きさなので、ウチが最終防衛線だぞ」

「そんなにデカいのか」

「目撃した奴の話だと目測で20メートルくらいあるらしい」

「確かにそれは7.7ミリじゃ無理だな……」


 満洲に展開する日本軍の戦闘機は武装が7.7ミリ機関銃のみと貧弱なものが多く、大型の竜を相手にするにはいささか不安である。

 それなりの大きさの竜を相手にするには12.7ミリ以上の、できれば20ミリクラスの武装が欲しいが、それらを装備した機体は比較的新しいものが多いので武装民間機の中でも普及台数が少なく、今のところ一般的な装備とは言い難い。そのため今回のように捕まらないこともある。

 サジタリオ号は後ろ向きの20ミリ対戦車銃だけでなく、使う機会は竜への威嚇以外にあまりないとはいえ、機首に三門の12.7ミリ機関銃を備えている。それにジャンの機体の20ミリ機関砲を合わせると、武装民間機としては比較的強力な火力を持っているといえた。


「子供にたっぷりとごちそうを食べさせてあげるわけだ。素敵な親子愛で泣かせるな」

「泣きたいのはこっちだ。そのごちそうとやらはウチの大事なお客様で、それに貴重な交換部品も運んでいるんだぞ」

「うぇ、こっちも被害者かよ……班長、アレのガスを頼む」

 カルロは近くにいた整備班長に向かって、さっきまで乗っていたMS.406を指差して言う。ジャンは軍人らしく素早く動き、すでに機体に向かっていた。

 整備班長は頷くと、格納庫へ向かってガソリンを用意するよう、大声で叫ぶ。

「フラン、先行ってエンジンを回しておけ」

「は、はい!」

 フランチェスカは羽ばたいて体を浮かし、サジタリオ号へ飛んでいく。

 カルロは、歩き出したアドルフォにすれ違いざまに肩を叩かれた。

「頼んだぞ」

「ああ」

 短いやりとりの後、彼はそのまま乗ってきた自動車の方へ歩いていった。


 格納庫へ向かう道すがら、カルロはテーブルの上に置いてあるサイダーの瓶を手に取り、残りを一気に飲む。炭酸はすでにほとんど抜けていて、しかも温かった。

 瓶を置いて腕で口を拭うと、格納庫へ駆け出す。燃料の入ったドラム缶とポンプを台車でMS.406まで運ぶ整備員たちとすれ違った。

 格納庫内では、すでにサジタリオ号のプロペラが回り始めている。カルロはそれを避け、主翼の外側をくぐって後席へ向かう。

 カルロは、整備員から20ミリ徹甲榴弾が十発入った弾倉を受け取るとすぐに脚立を登り、対戦車銃で狭くなった後席のスペースに入った。

 その対戦車銃に弾倉をセットしてスコープのカバーを外す。そして、整備員が脚立を持って機体から離れるのを確認すると、席に座って横開きのキャノピーを下ろした。

「ジャンとの無線は通じているか?」

「はい、なんか汚いダミ声が聞こえました!」

『汚いは余計だコラァ!』

 ジャンが何か言ってるが繋がっているのは確実だったので、カルロはそれを無視した。

「よし、出せ」

「了解です!」

 フランチェスカの心地いい返事が聞こえた。

 車輪止めが外され、動き出したサジタリオ号はゆっくりと滑走路へ向かう。

「お先ー」

 フランチェスカがジャンに向かって、すれ違いざまに声をかけ手を振った。機体に燃料を入れている最中に操縦席で手持ち無沙汰にしていたジャンは、目を丸くしてこちらを見ている。どうやらフランチェスカが操縦する側と思っていなかったようだ。


 カルロが空軍に入った時、フランチェスカは自分も空軍に入って一緒に飛ぶ、と父にわがままを言って聞かなかった。父はフランチェスカに甘いが、さすがにそれは聞けず、民間のライセンスを取らせる、という形で落ち着いた。しかし、ついに二人が翼を並べて飛ぶ機会は訪れなかった。


「行きますよ」

 そう言うと、フランチェスカがスロットルを上げた。

 左右二基の、ピアッジオP.11 RC.40 14気筒1000馬力の空冷エンジンが唸りを上げる。

 いつも整備員たちが丁寧に仕事をしてくれているので、今日も調子がいい。たまのオイル漏れはご愛嬌だ。

 滑走が始まると機体が加速し、あらゆる景色を流し去りながら離陸速度まで到達する。

 そして、機体が地面から離れたのが感覚でわかった。

 高度が上がるにつれ、斜めに傾いた地平線がどんどん遠のいていく。

「で、どこに向かえばいいんですか?」

「ハイラルの方だ。線路沿いに北西へ向かえ」

 地上を見ると、ジャンの機体が滑走路で動き出している。この機体は上昇力が低いので、こちらが上昇している間に離陸して追いついてくるはずだ。

 サジタリオ号は緩やかに上昇をしながら、その機首を線路の方へ向けた。

 動けない列車がすでに竜に襲われていないことを願って。

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