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バールは鈍器

 新京からの帰路、高度5000メートルの上空。少し風に流されたのでわずかに旋回して針路を正す。

 旋回のためにバンクした時、眼下に見えたのはエーゲ海の島々のように点々と浮かぶ積雲。それらが影を落とす緑の大地は、遠く地平線の向こうまで続いている。

 その地平線は地中海の遠浅が見せるエメラルドブルーの色合いを持ち、地上から見て感じるものとはまた違った印象を抱かせる。カルロはこの風景が好きだ。


「仕事で日本軍の司令部に行くって一体何やってたんだよ。軍人の慰問旅行の企画でも売り込みに行ったのか?」

「今回はただのご挨拶だ。軍には日頃お世話になってるからな」


 満洲国は、建国の経緯から国際社会の批判に晒されている。そのため、対外的なイメージアップを図るべく、ヨーロッパで迫害されている人々を積極的に受け入れる政策を始めていた。

 そこにわざわざ自腹で有翼人種を運んでくるアルディーニ旅行社は、満洲国にとって渡りに船である。それに、経済的に発展途上にあるため外国、主に租界からやってくる観光客のもたらす外貨も貴重だった。

 そこで日本軍との利害が一致したため、アルディーニ旅行社は様々な便宜を図ってもらっている。普段使用している格納庫や宿舎といった飛行場にある施設の貸与などがそうだ。


「それに、昨日のドラゴンウォッチングの竜は彼らに確保してもらったものだ。そのお礼も兼ねてというわけだ」

「は? そんなの初耳だ」

「お前に言ったら子供のように機嫌を損ねるのがわかってるからな……」

「おい、オレを何だと思ってるんだ」

「馬鹿ガキ」

「てめぇ……」

 カルロは声色で怒りを表明したがアドルフォは無視して話をした。

「竜が現れて他所の武装民間機が先に退治してしまうと空振ってしまう。それだと返金で儲けがパァだからな。だから街や線路から遠く離れた安全な位置で竜が発見された場合、ウチに優先してもらえるように手を回してくれている」

「ガキじゃあるまいし、そこまで丁寧に説明しなくてもいい」

「いや、ガキだろ」

「……それにしても、汚ねぇ商売してるんだな」

「ほら、そういうところだぞ。そうだ、雲を近くで見せてくれ」

「わかったよ」

 アドルフォが突然メルヘンなことを言い出したので、彼の言葉に不満を覚えつつも、その珍しい要求に応えた。

 後席にいるのは素人なので予定外の進路変更は少々気を使う。緩やかに旋回しながらゆっくり高度を下げ、積雲の一つにギリギリまで近づいた。

 綿のような雲の表面に機体の影が映った。速度を落とし、雲に沿うように飛行する。

「生まれて初めて近くで見たが、大して面白いものでもないな」

 つまらなさそうに言う。

 どうやらお気に召さなかったようだ。まあ、そうなるだろうとは思っていた。なら、これ以上用はないだろう。

「満足したならもう戻るぞ」

「ああ、手間をかけさせたな」

 機体をハルビンへの針路へ向けて速度を上げ、元の高度まで緩やかに上昇させる。

 上方に新京へ向かうのであろう飛行機が見える。往路でも何機かとすれ違った。空は広いというが、航続距離や燃料費の都合で飛ぶルートは案外同じような場所になっている。

 これからさらに飛行機が進歩して数も増えれば、同じルートを飛ぶ飛行機が増えてどんなに広い空も狭く窮屈に感じられるようになるのだろうか。

 ふと、そんなことをカルロは思った。


「意外と空の上は冷えるんだな」

 空の上は山の上と同じで空気が薄く、地表に比べて気温が低い。それは往路でも体感しているはずで、わかりきったことをアドルフォは言った。

「何を今更」

「いや、トゥーリアがフランのことでお前に激怒していたのを思い出してな」

「意味がわからん。わかるように話せ」

「フランに操縦桿を握らせているせいで腕に筋肉がついて硬くなってるのが許せない、とか、もうなんだかものすごい剣幕だったぞ。何で女に働かせてお前が後ろで座ってるだけなんだともな」

「別にオレが働いてないわけじゃねぇからな?」

 人間や荷物の移動なら二人もいらないので、竜退治でなければ交代でどちらかが飛ばすことになる。今回はカルロの番だ。

「それはわかってる。あいつもフランのことになると見境がなくなるからな。それに……」

「それに?」

「後席は直接風が当たるし、銃を撃つとなると身を乗り出すから外気に対して無防備だ。満洲の冬は厳しいしこれは肌にも悪いよなあ。そういうことだろ?」

 意地悪そうな言い方をする。

「……」

「どうした?」

「うるさい黙れ」

 この全てを見透かしたかのような兄に苛ついた。

「あいつには言ってるのか?」

「……いや」

「なら初めにちゃんと言っておくべきだったな。そうしておけばトゥーリアも話を聞いて激怒しなかったはずだ。そういうのはな、キチンと言葉にして伝えないと。顎を掴んで見つめながら、こう……君のきらめく美しい肌にはこの凍えるような満洲の空は……」

「うっわ義姉さん口説いた時もそんな風に言ってたのかよ」

 聞いてるこっちが恥ずかしくなったので言葉を遮る。もう語り出しの時点ですでに引いた。

 だが、確かに子供の頃から彼女と一緒で、気心も知れているので言わなくてもだいたいわかってくれている、などと甘えていたのかも知れない。

 内心ではその忠告に感謝した。もちろん心の中だけだ。

 ただ、自分なら絶対にあんな気持ち悪い言い方はしないが。

「そんな気持ちの悪い口説き方をするか馬鹿。言うとおりに真似をしたら笑ってたところだがな」

「おい」


「全く……いつまでもガキだな」

 アドルフォの呟くような言葉が聞こえた。


 その言葉に何も反応しないでいると、そのまま会話は途絶えた。


 *


 いつもの飛行場が見えてきた。

 カルロは機体を滑走路へ正対させ、着陸態勢に入った。

「おい、後ろから飛行機だ。ふらついてるし煙を吹いているぞ」

 ギアダウンしようとしたところで、アドルフォが何か異常なことが起こっているのを知らせてきた。

「事故か?」

「知らんが窓を開けて手を振ってるぞ」

「窓? ああ、キャノピーの事か」

 専門用語を知らない素人の言葉を翻訳した。

 後ろからくる機は竜にでもやられたのだろうか、それとも整備不良なのだろうか。

 多くの武装民間機は個人所有で、それらは操縦士が自分一人で整備までしているのが当たり前らしい。彼らを見ていると専門の整備士に整備させなくて不安じゃないのか気になってしまう。

 カルロはとりあえず先に降ろさせる判断をした。

「そいつを先に降ろす。一旦飛行場を通り過ぎるがいいか?」

「ああ。だが何でわざわざ断る?」

「時間は大丈夫なのか? あんたの事だから分刻みで仕事を入れてたりするんだろ?」

「お前ごときに心配されるとは俺も落ちたもんだ。俺が移動時間に十分な余裕を持たせていないとでも思っていたのか?」

「チェッ、気を使って損したよ。じゃあ定刻どおりに移動できたらそのたっぷり余った時間をどうすんだ」

「どうするってお前馬鹿か? ゆっくりコーヒーでも飲んで、時間が来るまで待ってりゃいいだろ」

「そりゃそうだな……」

 カルロがイタリア人離れした仕事人間と思っていたアドルフォも、やはりイタリア人だった。


 飛行場をフライパスし、旋回しつつ例の飛行機を確認すると、主脚を降ろしてふらつきながらも滑走路に進入している姿が見えた。

「滑走路を塞いでくれるなよ……」

 カルロの心配をよそに丁寧な着地をしたのが見えたので、ほっと胸をなでおろす。


 しばらくすると着陸した機体が移動し滑走路が空いて着陸できるようになったので、サジタリオ号はそのまま進入コースに入って着陸した。


 *


「カルロ様お帰りなさい!」

 サジタリオ号が格納庫に入りキャノピーを開けると、整備員が脚立を持ってくるよりも早くフランチェスカが文字通り飛んできた。

「いやちょっと待て、先に降ろさせてくれ」

「はーい」

 フランチェスカは所在なさげに主翼の前縁に座る。そして、彼女が左手に持っている黄色い箱から小さな四角い粒を一つ取り出し、包みを剥いて中身を口に入れた。

 脚立が立てられて、カルロは機体から降りる。そこに待ってましたとばかりにフランチェスカが飛び降りた。特にスカートは捲り上がらない。

 先に降りていたアドルフォがニヤつきながら二人を見ている。

「うわ何か腹立つさっさと出ていけ」

「カルロ様またそんなこと言って……」

 そこに、

「たのもー!」

 野太い声が格納庫内に響いた。

「何!?」

 驚いたカルロたちは、一斉に声のした格納庫の入り口脇へ視線を向ける。

 そこには飛行服姿の髭面で太った大男が立っている。

「もしかして泥棒か?」

 カルロは男に近付いて声をかけた。

「堂々と挨拶して泥棒に入るやつがあるか! いや、失礼。さっきのことだが……いきなり割り込んですまんかった」

「ああ、あれか……」

「エンジンにガタが来てしまってな。液冷エンジンは整備するのが大変でなあ」

「そんな面倒なものを一人で整備してるのか?」

「ああ、そうだ。しかしお前さんとこは双発機に専用格納庫、整備員か。羨ましいな」

 髭面はサジタリオ号を舐めるように眺めている。その視線が垂直尾翼で止まった。

「……貴様イタ公か!」

 にこやかにしていた髭面が急に怒りだした。

「よくもフランスを!」

「ぐえっ」

 カルロは髭面のフランス人に襟元を掴まれると、情けない声を出した。

「カルロ様!」

「カルロ!」

 格納庫にいた全員が駆け寄る。

「落ち着けフラン、それは使うな」

「あっはい」

 アドルフォに言われ、フランチェスカはとっさに持ってきたバールを後ろ手にした。

 アドルフォは続けてそのまま髭面に向かって歩く。

「その手を離せ。フランスの仇を満洲でとろうというのは穏やかじゃないな」

「ファシストの手先に指図される謂れはねぇ」

「祖国の敗戦が悔しいのはわかるが、軍人でも政治家でもないただの民間人に八つ当たりしても仕方ないだろう」

「……」

 髭面はカルロから手を離し、突き飛ばす。そのまま尻もちをついたカルロにフランチェスカは駆け寄る。

「だいたい、イタリア軍はアルパイン線を突破できずにグダグダしていただけだ。いてもいなくても同じだぞ。ドイツはパリを踏み荒らしたのかも知れないが、イタリアはその土を一切踏んでないからな」


 アルパイン線とは、伊仏国境付近にあるフランス軍の要塞線である。独仏国境にあるかの有名なマジノ線同様強固な要塞線で、小マジノ線とも呼ばれる。ちなみにマジノ線と違って『迂回路』はない。


「……ぷっ」

 髭のしかめっ面が崩れ、笑いだす。

「お前さんそれ言ってて悲しくならないのかよ!?」

「事実だから仕方ない。イタリア軍がどうしようもなく弱体なのも否定できん。それに、イタリア人全員がファシスト党を支持しているとは思って欲しくないな」

 アドルフォは眼鏡のフレームを押さえて言った。まわりの皆も頷いている。

「わかったわかった。ワシが悪かった。ワシは元フランス空軍大尉、ジャン・ポール・ベルモント。ジャンと呼んでくれ」

 ジャンは名乗るとカルロに手を差し伸べた。

「すまない、立てるか」

「ああ、オレはカルロだ。よろしくな」

 カルロはその手を強く握って立ち上がり、湧き上がった疑問を口にする。

「それにしても、あんたもファシストを見るだけで怒りに我を忘れるほどの愛国者なら、何でイギリスに行って自由フランス軍に参加しないんだ? こんな東の果てで管巻いていても何もならないぞ」

「フン、弟を殺したブリテン野郎の土地など踏めるか。だからといってヴィシーの連中に従うのも癪だ。だから降伏後のドサクサに紛れてインドシナからここに来たってわけだ」

 興奮気味にジャンは語る。握られたその拳は震えていた。

 色々込み入った話がありそうなジャンの事情に対して、カルロはこれ以上立ち入らないことにした。

 そこに、アドルフォが割って入ってくる。

「なるほど、俺にいい考えがある。そちらにとっても悪い話ではないと思うが」

「何だ、ビジネスの話か? なら大歓迎だ」

 ジャンは、アドルフォに連れられて格納庫の奥へ向かった。


 *


「え? あのフランス人の機体も整備しろって言うんですかい?」

「あいつを雇うってさ。兄貴が言ってた」

「あのモラーヌなんとかっていう飛行機、聞くところによると液冷エンジンにモーターカノンと面倒くさい要素満載の飛行機じゃないですか! ただでさえいつも厄介なエンジンの機体を見てるんですぜ!」

 そう言うと、整備班長は堰を切ったように不満を垂れ流し始めた。聞かされるカルロにしても、突然厄介な仕事が増えれば作業担当者としては憤るのも当然ということは理解できるが、それでも、自身が責められているようでそれはそれで堪える。

「ああわかった、慣れるまではあいつも整備に立ち会わせるし、整備マニュアルも寄越すように言っておくから」

「わかりました。頼みますよ!」

 その場はなんとか宥めて話を終わらせた。

 整備班長が去ると、カルロは壁際に置いてある工具箱の上に腰を下ろしてため息をつく。上の思いつきに振り回され、下からは文句を言われて板挟みである。これから先の事が面倒になりそうで、少し頭が痛くなった。


「お疲れさまです、カルロ様」

 物影からフランチェスカがひょっこり現れた。

「整備班長に愚痴られたくないから隠れてたろ」

「えへへ……」

 彼女は羽根をぱたぱたさせながら、笑ってごまかしている。

 フランチェスカの操縦は機体にかなり負荷をかけるので、いれば一緒に文句を言われただろう。もっとも、竜を相手にすると機体性能のせいでそう飛ばさずにはいられないという側面があるわけだが。

「それよりキャラメル食べます? すごくおいしいんですよ、これ」

 と言うなりフランチェスカは黄色い箱を差し出してきた。

 そういえばさっき、帰ってきた時に何か持っていた気がする。そんなに気に入ったのだろうか。

 そのキャラメルを手に取ろうとして、カルロが右手を突き上げて箱に近づけると、

「あ、そうそう」

 フランチェスカは箱を引っ込めて、自分で一つ取り出す。突き上げたカルロの手は空を切る。包みを剥がす、その彼女の白い指の動きを仕方なく眺めていると茶色い塊が現れた。

「はい、あーん」

 フランチェスカはそう言って口を開けるよう促して、キャラメルをつまんだ指先をカルロの顔に近づける。

 こんな場所でのろけているのを整備の連中に見られでもしたら、舌打ちが飛んでくるだろう。周りに誰もいないことを確認して口を開けると、

「ほらっ!」

 フランチェスカはキャラメルの粒を明後日の方向に放り投げた。

「おいっ!」

 カルロは素早く立ち上がり、それを手で掴んだ。一瞬の差で間に合った。

「何考えてるんだお前は!」

「そこは口で追いかけてくれないとダメじゃないですか!」

「オレは犬か!?」

 残念そうな顔をしているフランチェスカのおでこを指の腹で叩くと、カルロは掴み取ったキャラメルを口に入れて噛んだ。

「旨いなこれ」

「でしょう?」

「ん……」

 口の中に甘さを広げながら柔らかくなっていくキャラメルを味わいつつ、ふと思いついた。

「どうしたんです?」

 不思議そうにこちらを見るフランチェスカの顎をすばやく掴んで引き寄せて、

「ふぁっ!?」

 柔らかくなったキャラメルを、口移しで彼女の口内へと押し込んだ。

 彼女の顔が一瞬で真っ赤になる。

「ちょ……な、なにしゅるんですか!」

 慌てふためいたフランチェスカは、腰を抜かしてその場にへたりこんだ。

 その呂律の回らなさは、恥ずかしさのせいなのか、それとも口の中のキャラメルのせいなのかは区別がつかなかった。

「さっきのお返しだ」

 真っ赤になってあたふたしているフランチェスカの様子を面白がりながら、少し意地悪めに言った。

「おかえしって……むしろごふぉうびじゃないですか!」

「ご褒美」

 思わず真顔になってしまった。

 冗談のつもりだったが、これは変な趣味に目覚めさせてしまったかもしれない。

 カルロは少し後悔しながら、口移しされたキャラメルを嬉しそうに食べるフランチェスカを見つめた。


 *


「なあ、さっき通りかかった時に見てしまったんだが、あいつらをそこのバールでブン殴ってきていいか?」

「あー……そのうち慣れますよ」

「そっかー……」

「まあ、目の前でやられたら舌打ちでもしてやって下さい」

「お、おう……」

 ジャンは、話しかけた若い整備員にこの職場での流儀を教わった。

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