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満洲の休日

 昨日トゥーリアに羽繕いと一緒にされた、思わず変な声を出してしまった謎のマッサージのおかげかすこぶる体調がいい。

 ただ、「これもマッサージの一部」と称して身体のあちこちを触ったり鼻息荒く羽毛に顔をうずめたりするのは、絶対にマッサージとは関係ないはずだ。

 体調もいいが、気分もいい。昨日トゥーリアと話した時に彼女が激怒してカルロに説教すると言い出したのは朗報だ。

 あの時見捨てたことはもう水に流してあげたけど、その報いは何らかの形できちんと受けて欲しいのだ。


 今日は朝からカルロが仕事で新京へ向かうアドルフォを乗せて飛んで行ったため、フランチェスカは一日やることがない。

 二人を送り出した後の整備員たちも、朝から宿舎の部屋でビールを飲んでカードに興じている。

 せっかくの休みなので、今日一日羽根を伸ばそうと街へ出かけることにした。

 今のヨーロッパでは亜人種が一人で街を出歩くのは危険だが、ここ満洲ではその心配もあまりない。女性の独り歩きとはいえど、有翼人種の膂力は成人男性とさほど変わらないし、いざとなれば飛んで逃げられる。

 フランチェスカは着替えを済ませお気に入りの香水を一吹きして、身だしなみを整えると歩いて町へ向かった。


 *


 町行く人々は見慣れた洋服姿だけでなく、日本や中国などの民族服を着た男女も目立つ。アジアの文字で書かれた看板などもあわせてヨーロッパにはない異国情緒にあふれている。

 通りを歩いていると時折、すれ違う人々からの視線を感じる。背中まで伸びた金髪に青い目、上着の上からでもわかる豊かな胸の膨らみと背中の赤褐色の大きな翼。それに加えて見るからに高級なブラウスにロングスカートという洋装と、土地の者からかけ離れた格好をした有翼人種というのは珍しいし目立つので、良くも悪くも人目を引く。

 そんな中、カーキ色の軍服を着た日本軍の将校が数人の部下を従えて現れた。彼らは肩を怒らせ、方々を睨みつけながら大股で歩いているのが見えてきた。

 しかし町の人々は慣れたもので、みんなが静かになって道を開け、彼らが通り過ぎたあとすぐにまた元の喧騒を戻していった。

 ここ満洲国は日本の支配下にある。彼らのような横暴な日本の軍人を見てしまうと、六族協和や王道楽土という美しく聞こえるスローガンも単なる建前でしかないのだろうかと思ってしまう。

 その彼らの行いを悲しむかのように、建国時に住宅の塀に貼られたとみえる目出度いデザインのポスターが今にも剥がれそうで、寂しげに風になびいていた。

 それでも、物珍しい目で見られるものの誰はばかることなく有翼人種が道を歩けるこの雑踏の感じは、あるフランチェスカにとってイタリアより居心地がいいものであった。


 鼻歌交じりでぶらぶらと歩いていたら、商店街に来た。このあたりは初めて来る場所というわけでもなければ、別に必要な物を買いに来たというわけでもない。だけど、雑貨や洋服、民族服、土産物やアクセサリーの類のほかに見た目は綺麗だが効果があるのか怪しいおまじないグッズなど、物資不足でそれほど豊富ではないが、様々な物を扱うたくさんの店が並び、その品物を眺めるのは心が躍る。そのためだけに来ても十分楽しい。

 町は活気があるとはいえないが、買い物客もそれなりにいて寂れている感じもしない。遠くからハーモニカの音色も聞こえてきた。向こうで大道芸人が演奏しているのだろう。

 聞こえてくるメロディは、この前カルロにせがんで一緒に観に行った映画の主題歌のものだった。

 映画は日本語で上映されており、フランチェスカはそれを挨拶程度しかわからないため、セリフなどはあまり理解できなかったが、主演女優の迫真の演技は号泣するほど印象深かった。曲が聞こえてきた時にその時の感動が蘇ったのだが、一緒にいたカルロが隣で退屈そうにしていたのも同時に思い出してしまい、昨日の出来事もあって少しばかり腹が立った。


 色とりどりの野菜や果物、それに捌いたばかりの肉など食料品が並ぶ露店街を通る。その中にある屋台からの匂いにつられて割包を買った。

 しっとりとしてほのかに甘みがある生地と少し癖のある八角の香りがするジューシーな豚肉の味わいに舌鼓を打つ。

 食べ終わると、指に貼り付いてしまった生地を舐め取る。

 トゥーリアにこの歩きながら物を食べている姿を見られたらきっと、「そんなはしたない事をしてはいけません」などと説教されてしまうのだろうか。それは嫌だ。

 フランチェスカはそう思うと、別に本人が目の前にいるわけでもないのに、慌ててハンカチで手を拭った。


 *


 結構長い間歩き続けていたので疲れてきた。

 このあたりは日本人が集まって住む場所らしく日本風の建物が目立つ。

 日差しも強くなってきたので少し休もうと、前回映画の帰りにカルロと訪れた日本風の喫茶店に立ち寄ることにした。

 この店は欧米人の客がよく来るのか、渡されたメニューには日本語の他に英語が併記されている。

 質のいい茶葉を使った抹茶が売りらしいが、苦手な人のために煎茶や紅茶が用意されている。しかし、それに逃げたら何だか負けた気がするのであえて抹茶を頼んだ。

 前に来たときは苦くて飲めず、カルロに笑われたこの抹茶を今回で克服し、次に一緒に来た時に絶対に見返してやるのだ。

 注文をしたあと、見事な日本庭園が見える椅子もテーブルもない板張りのテラスのような廊下に通された。そこに置かれてある薄いクッションの上に座る。このクッションは座布団と呼ぶらしい。

 ゆっくりと腰を下ろし、庭を眺めた。

 愛らしい小鳥のさえずり。

 心地よく吹く初夏の風。

 それに凪ぐ木々の、葉擦れの音。

 そこは、石や苔、樹木が自然のままに組み合わせられ、美しい風景が表現されている箱庭のような庭園。

 人の手で丁寧に造形されたヨーロッパのそれとは趣が違うのが新鮮に思える。

 少し離れた位置に、品のいい格好をした日本人の老夫婦が二人並んで座っていた。


 注文した季節のお菓子、わらび餅というものが女給によって運ばれて来た。

 真っ黒な丸いトレイの上、お茶と一緒に乗った小さな群青色のボウルのような器の中に、少し濁った半透明の丸い物体が所狭しと詰められている。このわらび餅は初めて見るお菓子だ。

 一見するとゼリーの様な、その透明感が涼し気な感じを醸し出している。さすがに季節のお菓子を名乗るだけはある。

 わらび餅はそれ自体は無色だが、群青色の器に詰まったそれらはその器の青さを写してその内に湛え、宝石とはまた違ったつややかさを見せる。

 まるで、今ここで見上げた時に眼前に広がる、初夏の青空を詰め込んだかのようだ。

 日本の菓子は目で楽しむと聞いていたが、お菓子なんてどこでも職人が技をふるって飾りつけているではないかと思い、いまいちピンと来なかった。しかしなるほど、器と一体でこのように楽しむものなのかと感心した。

 小皿に乗っているきな粉というこの黄色い粉をまぶして食べるらしい。

 木でできた小さなスプーンできな粉を満遍なくふりかける。

 黄色の粉が水気を吸って徐々に変色していく。

 スプーンと同じく木でできた二股のフォークのようなもので一粒刺し、口に運ぶ。

 少し香ばしい、やさしい甘さが口の中に広がった。


 さて、問題のお茶である。

 緑色をしたエスプレッソ、といった見た目のこの抹茶という飲み物は、エスプレッソ同様に濃厚で苦い。

 フランチェスカはその苦いエスプレッソを飲めないわけではないのだが、それはたっぷりのミルクという強力な助っ人を頼めば飲める、という条件付きでの話だ。しかし、ここにはそんな頼もしい助っ人に相当する存在がいない。孤立無援である。

 恐る恐る器に口をつけた。

 思わず、えずきそうになる。

 一気に飲んでしまえば苦いのは一瞬だと閃く。覚悟を決めて、器をもう一度近づける。

 ふと、さっきの老夫婦と目があった。会釈をされたので慌てて会釈を返す。

 老夫婦がゆっくりこの抹茶を楽しんでいる様が優雅に見えた。

 その姿が羨ましかったから、一気に飲み干すのはやめることにする。優雅に飲んで大人っぽさをアピールしなければ。

 それにしても、談笑している老夫婦はとても仲がよさそうだ。二人で昔の懐かしい思い出を語り合っているのだろうか。自分もカルロと一緒にあんなふうに歳を取れたらいいな、などとそんなことを考えてしまい、頬がゆるんだ。


 *


 抹茶はなんとか飲み干せた。とても頑張った。これは褒め称えられるべき歴史的な偉業に違いない。

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