アルディーニ家の人々
ホテルはハルビン市街の松花江の豊かな流れが望める場所にある、ルネサンス様式を取り入れた石造りの華麗な建物だ。ドラゴンウォッチングの水上旅客機もこの近くの川沿いに停泊している。
このホテルは先の大戦で父と共に戦った戦友が経営しているという。そのため、アドルフォはそのうちの一室を格安で借りて住んでいる。彼の家族も一緒に来ており、自宅のような暮らしぶりだ。
中に入ると、大柄で細い目をしたアジア人のボーイがカルロたちを見つけるなり素早く近付いてくる。彼に案内されて、カルロたちは最上階のスイートルームへ向かった。
*
黒壇のテーブルが中央に置かれたリビングに漂う、優雅なオペラ歌手の歌声。それは白を基調とした高級な調度品が並ぶ、この部屋の隅に置かれている蓄音機からのものだった。流れているのは歌劇リゴレット第三幕の『女心の歌』で、そろそろ曲が終わるところだった。リゴレットは、カルロの年の離れた兄、アドルフォの好きな演目だ。
「遅かったな。元気か?」
ソファに座っているアドルフォは口から紫煙を吐き出し、足を組み替えながら言う。そして、そのまま短くなった葉巻をこれみよがしに灰皿ですり潰す。灰皿に捨ててある吸い殻は二本になった。吸っていた葉巻の長さと本数を見せつけて、どれだけ待ったかアピールするあたりが嫌らしい。
「たった今、元気じゃなくなった」
「ちょっとカルロ様!」
カルロが憮然としていると、フランチェスカがたしなめるように言った。それとほぼ同時に、アドルフォの左隣に座っている兄嫁のトゥーリアが微笑みながら口を開く。
「カルロちゃん、ここに来るといつもご機嫌斜めね」
「子供か……まあいい、そこに座れ」
アドルフォが対面のソファを指差したので、どすっ、と勢いよく座った。フランチェスカはその右隣に足を揃えてゆっくり腰を下ろす。
「いつまで根に持ってるんだ。いい加減にしろ」
眼鏡の位置を直しながら放たれるアドルフォの言葉にカルロは苛立ち、それが自然と顔に現れた。
子供の頃から空に憧れ、空の騎士めいた戦闘機乗りを目指したカルロ。だがその希望は、先の大戦で陸軍航空隊に所属していた父親が撃墜され、戦死しそうになったことを直接知る家族全員の反対にあってしまった。特にアドルフォには誰よりも強硬に反対されてカルロと取っ組み合いの喧嘩になってしまい、未だそれを根に持っている。
それでも反対を押し切り家を飛び出て空軍に入隊し、憧れの戦闘機パイロットになったカルロは、参加したスペイン内戦で見た光景によって幻滅させられてしまった。
それは、ソ連が支援する共和国派とドイツ、それに祖国イタリアが支援する反乱軍、両陣営による無差別爆撃によって、かつて絵葉書で見た美しいスペインの町並みが無残な瓦礫の山と化していくところだった。
そしてカルロは帰国後、すぐに軍をやめた。
反対した家族の方が正しかったのだ。心の中ではそれを認めているが、つまらない意地やらプライドやらが邪魔をして、態度には出せないでいる。特にアドルフォの前では。
そんなカルロを、自社で導入した武装民間機に乗せるため満洲に呼んだのはアドルフォだった。
あれだけパイロットになることに反対したくせに。
その時、そんな言葉を口に出しそうになったが、かろうじて飲み込んだ。言ったところで何の意味もないことは、自分でもわかっていたからだ。
隣のフランチェスカが心配そうにこっちを見ている。
「むしろ、大口叩いたくせにあっさり軍をやめた、肩身のせま~いお前に仕事をくれてやった事に感謝してもらいたいくらいだ」
アドルフォは歯を見せて笑いながら小馬鹿にするように言い放った。カルロは憤ったが我慢した。それを言われると反論できない。何一つ言い返せないだけに余計腹が立つ。嫌味な言い方で憤りもさらに倍増だ。
「まあいい。それよりお前も吸うか?」
目の前に葉巻入れを差し出されたので、何の躊躇もなくひったくるように一本もらった。すぐに葉巻の吸口を切り落とし、マッチで火をつける。
この国で売っている紙巻きタバコは安っぽい味がしたので吸う気にならないが、葉巻はなかなかいい品物だった。
「しかし、後ろ向きの銃で竜退治とか正気とは思えんが」
後ろ向きの銃とは、機体の後部旋回機銃を外して装着している騎兵の長槍のような風貌をした、巨大なゾロターン対戦車銃。
それは竜の硬い表皮と頭蓋骨という二重の装甲を貫き、なおかつ脳という脆弱な体内組織を炸薬で効率よく破壊できる20ミリ徹甲榴弾を放つ竜殺しの槍だ。
しかし、その大きさと重量のために旋回銃の銃架に載らず、機体が双垂直尾翼形式で真後ろに撃っても垂直尾翼を破損しないこともあり、機体を改造して固定している。
そもそもそんな奇妙なやり方を始めたのは、はじめにカルロがこの機体を渡され、操ってみて思わず、
『どうすんだよこれ……』
と口からこぼれてしまうほどの性能のせいである。
この信頼性が低く出力不足のエンジンと、高い翼面荷重由来の低い安定性と運動性能では一撃離脱もドッグファイトも難しいため、竜にこの機体で通常の空中戦を挑むのは自殺行為でしかなかった。
そのため、どうにかしようと必死になって考えついたのが、竜を挑発してこっちを追わせ、まっすぐ逃げながら同じようにまっすぐに追いかけてくる竜の頭を狙い撃つという、人間同士が戦う空の戦場ではあり得ない方法である。
それは戦闘機乗りが技術を駆使して戦う空中戦というよりも、獲物を追い立ててそれを狩る、猟師による狩猟の方が近い。
「曲がらないしパワーもないあの飛行機でそれ以外の方法があると思うか?」
「飛行機は詳しくないから知らん。お前たちが死なないならそれでいいが……」
「何が死ななきゃいいだこの鬼畜眼鏡。どうせ値段だけ見て飛行機買ったんだろ!?」
「鬼畜眼鏡」
その言葉にトゥーリアが反応した。
「まあ、夜はそうだけど……」
「おい馬鹿やめろ」
顔を赤らめてにやつきながら言う彼女を、アドルフォが慌てて制止する。
身内の夜の夫婦生活がどんなものかなんて、この世でもトップクラスに知りたくない情報なのでたとえのろけ話だとしても口にしないで欲しい。
隣でフランチェスカが、興味を持ったかのような顔をしている。
ちょっと待て。
「あらフランちゃん、気になる?」
「え? はい、いやその」
「ちょっとあっちでお話してあげようか?」
「あの、トゥーリア様?」
トゥーリアのフランチェスカを見る目が、獲物を見つけた肉食獣のようだ。フランチェスカも身の危険を感じているようだった。
「遠慮しなくていいからいらっしゃい。話しながらその綺麗な羽根をモフ……じゃなかった、繕ってあげる」
「モフ?……って、カルロ様!」
カルロは、トゥーリアに腕を掴まれて涙目になったフランチェスカに助けを求められたが、同時にトゥーリアにも睨まれてしまった。その鋭い眼光で蛇に睨まれたカエルのように動けない。
アドルフォに何とかするようアイ・コンタクトを送ったが、彼は我関せずといった涼しい表情をしており、完全にスルーされた。
もはや打つ手はなく、ここで義姉に逆らうと後が怖いので、
「せっかくだし義姉さんに可愛がってもらってこい」
好きにさせることにした。
それに涙目のフランチェスカというレアな表情が可愛らしかったので、とにかくよし。そう自分に言い聞かせた。
「カルロ様!?」
「さっすが~カルロちゃん、話がわかるッ」
何か一瞬、褒められ方に不穏なものを感じたが、きっと気のせいだろう。
「カルロ様のバカ! 薄情者! チキン野郎!」
「こらっ! そんな言葉遣いしちゃいけません!」
言葉遣いをたしなめられたフランチェスカは、なおもカルロに恨み言やら何やらを浴びせながら、トゥーリアに引き摺られて彼女が使っている寝室へ消えた。
カルロは黙ってそれを見送った。
アドルフォが咳払いをひとつ。
カルロも落ち着いた。さっきは思わず激昂しそうになってしまったが、トゥーリアに毒気を抜かれた格好だ。
「さて、話が逸れたが本題だ」
「ようやくかよ。で、話って何だ?」
「単刀直入に言う。ドイツが近い内にソ連へ攻め込むのが確定した。だから今後、シベリア鉄道での輸送ルートが長期間使えなくなるだろう」
「そんな情報どこで」
「言わなくてもわかれよこの馬鹿」
アルディーニ旅行社は業務上ヨーロッパ各国の交通事情に詳しく、ドイツ本国からドイツ占領下のポーランド、それと東プロイセンへの鉄道による軍事輸送の量が激増しているという情報を入手している。それから推測して導き出された結論が、ドイツのソ連侵攻だ。兵力の移動は軍事機密に思えるが軍事輸送が優先されればその分民間の輸送が圧迫されるため、輸送される貨物の内容まではわからなくともその情報自体を入手するのはスパイでなくても容易である。
イタリアがドイツについて参戦したのでイギリスはスエズ運河を封鎖し、戦場と化した地中海にある航路はすでに使えなくなっている。さらに陸路であるシベリア鉄道も使えなくなると、イタリアとの行き来は真っ当な手段では不可能だ。
イタリア製の飛行機を使っている以上、交換部品の調達においてそれは死活問題である。
だが、列車はそれよりも重要なものを運んでくる。
それは、ヨーロッパでの迫害から逃れる有翼人種。
彼らは、カルロたちの父が先の大戦で有翼人種の兵士に命を助けられたという話を聞かされている。その父を助けたのがフランチェスカの母だったということも。
戦後、有翼人戦傷者に対する祖国の扱いに失望した彼は軍をやめ、同じように憤っていた戦友たちとともに有翼人種の処遇を改善しようと活動していた。しかし、ヨーロッパの長い歴史の中で染み付いた人々の偏見を取り除くことは、彼らの力だけでは不可能だった。
そこにちょうど現れたのが、亜人種も含めた六族協和を掲げる満洲国。
彼らはその理想を当てにして、有翼人種をその満洲国へ亡命させるために私財と労力を注ぎ込んだのだ。
「じゃあこれからどうすんだよ」
「ロンメルがスエズまで到達するよう祈っていようか。スエズ運河が再び使えるようになるぞ?」
「冗談言うな。ドイツ野郎の勝利を祈るとか死んでも御免だ」
「一応、同盟国なんだが……」
「知るかよそんなこと」
「それに、すごい勢いでイギリス軍をトブルクまで押し戻したからな。案外現実になるかもしれんぞ」
「そんなことより、大丈夫なのか? 我らが祖国は」
ドイツの快進撃を見て、われも続けとばかりにノリと勢いで参戦したのはいいが、フランス、バルカン半島に北アフリカと祖国の戦いは先の大戦からろくすっぽ更新されていない旧式な装備と教義、稚拙な戦争指導という個々の兵士がどんなに奮闘しても覆せない劣悪な環境により士気も低く散々な有様で、ドイツにその尻拭いをしてもらった挙句、戦争計画の主導権を彼らに握られるという始末だ。
カルロには、古代ローマを讃えながらそれを衰退させたゲルマン人に傅く総帥があまりにも滑稽に見えた。
「それは知らんが、ここでの稼ぎはこちらに蓄えてあるから最悪負けても、逃げ出せれば家族は大丈夫だ」
「ひでぇ」
一瞬、アドルフォの眼鏡がきらめいたようにカルロには見えたが気のせいだろうか。やはり我ながら鬼畜眼鏡の名付けはピッタリだと思う。
「そう言うな。そうだ、交換部品その他諸々は今週中に着くと連絡があったぞ」
「ひょっとすると、それが最後になるかもしれないな……」
「ああ。だから、こっちでできることを先に準備しておく」
「何があるんだ?」
「お前は飛行機の整備部品をここで手に入るもので代替できるか調べろ。整備の連中とも相談して、自前で工作できるものもあるかも含めてな」
「えー」
「えーじゃない。これも仕事だ。必要なら商社の人間も呼べ。もちろんお前が相手するんだ」
「わかった。わかったよ」
「嫌だというのが露骨に顔に出ているぞ。もうちょっと取り繕え」
「無理だな」
そういう面倒な仕事はしたくない。
「ほんとにお前というやつは」
アドルフォはため息をつきながら、新しい葉巻を取り出した。
「話はそれだけか?」
「ああ」
「それだけならわざわざ呼び出さなくてもいいだろ」
「まあな。こっちの話はオマケで本命はあっちだ。トゥーリアがフランに会いたがってたんでな」
寝室の方を指差す。どうりで、さっきは止めに入らなかったわけだ。
そこに突然、
「あうゥウウウゥン♡」
フランチェスカの大きな嬌声が中から聞こえてきた。
二人は驚き、アドルフォは持っていた葉巻を足元に落とす。
「義姉さん……中でいったいナニを……」
男たちは黙って、扉越しにしばしば聞こえてくるフランチェスカの声に耳を傾けていた。
*
宿舎に戻ってから何があったのか尋ねたが、頬を赤くして首を振るだけでフランチェスカはその日ずっと口を聞いてくれなかった。
あと、向う脛を思いきり蹴られた。