シルクロードの果て
男が旅客機の窓越しに、双眼鏡から望む満洲の青い空と、巨大な竜。
それは太古の昔より存在する厄災。古くから高名な画家が聖ゲオルギウスの竜退治の絵などでその姿を描いているが、実際に見るとグロテスクで見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。
そしてその竜は、ほぼ同サイズの双発機を追っている。
しかし、追われている飛行機はその赤く塗られた機体を陽光で輝かせながら、闘牛士のようにスレスレで竜の突進をかわし続けている。
疲れからか竜の動きが鈍ると、赤い飛行機は直進しはじめた。竜もそれをまっすぐに追う。
男は息を飲む。
まっすぐ飛び続ける飛行機の、その後ろの方が光ると直後に竜の頭部が爆発した。一瞬の出来事に周りから大きな歓声が上がる。男も思わず雄叫びを上げた。
古の時代、英雄や聖人たちの逸話に登場する竜退治の物語。その行為は崇拝や尊敬、畏怖の対象であった。しかし、時代を経て発展した科学技術による兵器の進化によって、竜が凡人でも武器を手にして立ち向かえる相手となると事情が変わった。
尊ぶべき勇者の崇高な戦いは、畑を荒らす猪や家畜を襲う狼を退治するのと同じ、単なる害獣駆除という扱いでしかなくなったのだ。
男は幸運にも竜が現れた時にだけ突発的に開催されるという、このドラゴンウォッチングに参加できた。参加費は高額で大きな出費になったが竜退治をこの目で見ることができ、それ以上の価値があったので大いに満足した。
男はいまだ興奮している。自然の脅威に打ち勝ち、とうとうこの大空でも敵う者がいなくなった、素晴らしき人類の大きな進歩を目の当たりにしたことに。
あとは、我らが総統がゲルマン民族の宿願を果たす時が来るのを待つだけだ。
だが、それもそう遠くはない。宿敵フランスを下した祖国ドイツは、もはやヨーロッパにおいて敵はいない。やがてドーバー海峡の向こうにいるイギリスや東のソ連も、フランスと同じように祖国の威光の前にひれ伏すであろう。
そうなれば偉大なゲルマン民族が主導する千年帝国のもとで、人類は永きに渡り繁栄し続けるのだ。
男の興奮に水をさすかのように、客室乗務員によるアナウンスが始まった。
「お楽しみいただけましたでしょうか? 当機はこれより、ハルビン市へと戻ります。皆様、座席へお戻りください」
その声で右側の窓に張り付いていた乗客は皆、ざわめきながらそれぞれの座席に戻ってゆく。男も落ち着きを取り戻し、ゆっくりと深く自分の座席に腰をおろした。彼のスーツの胸についた、国家社会主義ドイツ労働者党の党員バッジが鈍く光る。
乗客の興奮冷めやらぬまま、旅客機は緩やかに旋回しながら飛行場へと針路を向けた。
*
「コロッセウムの剣闘士奴隷みたいで気に入らないな」
日本と中国の戦争景気で潤ったのであろう、上海の租界から物見遊山に来た金持ち達を乗せた水上旅客機。それが悠然とハルビンの方へ向かって飛び去るのを見送るカルロ・アルディーニは不機嫌そうに言った。
「カルロ様、これも仕事ですよ」
たしなめるように言ったのは操縦席にいるフランチェスカ。親しい人間は、彼女のことをフランと呼ぶ。
彼女はカルロの父が引き取った、孤児になった有翼人種の娘だ。彼女は美しい赤褐色をした背中の羽根をばたつかせながら続ける。
「このドラゴンウォッチングはうちの会社の目玉商品ですからね」
彼らは、カルロの父が経営するアルディーニ旅行社が所有する武装民間機、サジタリオ号の乗員である。
「あーわかったわかった。だが羽根を動かすのはやめろ」
細い胴体による幅のない座席に加えて操縦席と後席の間が余りなく、さらに仕切られていないので彼女の羽根がこちらまではみ出てきて、ただでさえ狭い機内がますます窮屈になる。
それに加えて。
「乗客にファシスト党員がいたらどうするんだ。まだこっちを見てるかもしれないぞ」
「見てたとしても、こんなところでは何もできないですよ」
ドイツの人種差別政策が有翼人種などの亜人種をもその対象としていることはあまりにも有名である。イタリアも最近、それに倣い始めたのだ。
「ここではな。本社の方がお国から何を言われるか」
「……そうでしたね」
イタリア本国にアルディーニ旅行社が社員として有翼人種を雇用していることが知られると、ファシスト党にいちゃもんをつけられるのは確実である。
*
竜の死体確認を済ませ、二人はハルビン市近郊の飛行場へ戻ってきた。
サジタリオ号が着陸態勢に入ると、カルロは飛行帽で蒸れた頭に風を通そうとそれを脱いだ。少しクセのある黒い髪の毛が爽やかな初夏の風に靡くと同時に、飛行帽がその風を拾って飛ばされそうになる。
「うわ危ねえ」
「何やってるんですか?」
「いいから着陸に集中しろ。いつもの癖だ、また左に傾いてるぞ」
傾いたまま機体は高度を落とし、二人に強い衝撃を与えて滑走路に接地した。空の上では操縦の難しいこの機体を巧みに操れる彼女だが、着陸は雑だった。
「今の着地、風が無いからって舐めてかかっただろ」
「今のはカルロ様が邪魔したせいですよ!」
「そっちが勝手に絡んできただけだろ。真面目にやれ」
「そんなに文句言うなら次からカルロ様が操縦してください!」
「逆ギレするな。それに、そっちは風を感じられないから嫌だ」
「今時の飛行機で風ってそんな……これだからイタリアの男は戦争に弱いんですよ……」
「何か言ったか?」
「いーえ、何も」
くだらないやり取りをしている間にも徐々に速度が落ちていく。
この飛行場は日本軍のものだが武装民間機のためにも開放されており、頑丈そうな軍の格納庫、いかにも安普請な民間用の宿舎などの様々な施設や、駐機されている航空機が滑走路の脇に見える。アルディーニ旅行社が日本軍から貸与されている大型機用の格納庫もそこにある。
カルロは、駐機されている武装民間機の列を眺めた。持ち主が自分の愛機にそれぞれ思い思いの塗装を施しているので、地味な軍用機と違ってカラフルだ。しかし、そこに並ぶのは単発単座の機体が多く、エンジンの二つついた複座の双発機という贅沢品は珍しい。
サジタリオ号がタキシングしながら誘導路へ入ると、そこに社員でもある整備員が一人やってきた。彼は大きく手を振って格納庫の中へと誘導しはじめた。
格納庫に入ってサジタリオ号が停止する。
右倒しにキャノピーが開くと、操縦席からフランチェスカが羽ばたきながら舞い降りる。彼女が飛行帽を脱ぐと、結ってあったサラサラの金髪が解けて背中まで伸び、ふわりと靡いた。
「あーっ! 左のエンジン、オイルが漏れてます!」
フランチェスカが左エンジンの異常を見つけて甲高い声で叫んだ。
「嘘だろ、左はこの前直したばかりだぞ。ほんと面倒くさいエンジンだなコイツ……」
禿頭の整備班長が奥から頭を掻きながら現れた。
彼らの乗機であるこのサジタリオ号は、ブレダBa.88というイタリア製の双発機である。この機体は一見すると洗練された流線型の胴体を持つ最新鋭機に見えるが、軍用機としての生命はほぼ絶たれていた。
非武装の試作機が輝かしい世界記録をいくつも出したにも関わらず、軍用装備を施すと性能が大幅に低下してしまい、北アフリカの砂漠ではまともに飛べずにそのまま部隊編成から外されて本国へ戻されてしまった。
そのため、実戦デビューの対フランス開戦から半年足らずで退役、工場に残っていた機体も直接スクラップヤード送りが決まるという残念な結末を迎えた。
だが、そのため入手するのは簡単だった。メーカーもそのままスクラップヤードに送るくらいなら二束三文でも金に換えられた方がいいと考え、飛行機としては破格の値段で民間市場に流出させたためだ。
北アフリカの砂漠地帯と違って草原の広がる満洲は砂塵がなく気温も低いため、寒い時期の凍結にさえ気をつければまともに飛んでくれる。だが、エンジンの元々のデリケートさはどうしようもない。
「えーっ、班長さんホントに直したんですかー?」
フランチェスカは冗談めかして言う。
「てめぇ……」
「帰って早々何やってんだお前ら」
周りの整備員たちが、また始まったよ、と笑いをこらえながら話している中、後席から降りたカルロは呆れ顔で割って入った。
「あ、お帰りなさい、カルロさん。アドルフォさんが二人ともお呼びですぜ。ホテルの方に来いとのことです」
「わかった」
カルロが嫌そうな表情を見せる。
「またそういう顔をする……」
整備班長は呟くと、肩を竦めた。
「フラン、着替えて来い。慌てなくていいぞ」
「え? 急がなくていいんですか?」
「あんなの待たせておけ」
「相変わらず兄弟仲が良いんだか悪いんだか」
「は!? いいから早く行け!」
「はーい」
フランチェスカは不機嫌そうなカルロをからかいながら笑みを見せ、飛び跳ねるように格納庫奥の裏口から出ていった。
カルロもそのあとを追って向かうが、ふと機体の方へ振り向いて機体を眺めた。駄作機だの欠陥機だのと言われようと、腐っても愛機である。乗り続けていればそれなりに愛着もわく。サジタリオ号と名前を付ける程度には。
方向舵の部分が赤白緑のトリコロールに塗られた二枚の垂直尾翼に描かれた、イタリア王国の紋章が目に映る。
こんなシルクロードの終わり際にいてもカルロは良きローマ市民であるが、祖国のファシスト政権については、スペイン内戦とドイツの人種差別政策めいた内容である人種憲章の布告から、それを嫌悪するようになった。
そのためファシスト政権の定めたこの紋章を消したいと思っていたが、ファシスト党に無駄に睨まれないようにするため付けておいた方がいいと兄・アドルフォに忠告された。天津にはイタリア租界があるので、満洲にいるとはいえどもその目がどこにあるかわからないからだという。
しかし、機体が王立空軍の所属機ではないため、描かれていたファシストのシンボルたるファスケスは機体を赤く塗り直すついでに潰した。
整備員たちが工具を準備して、機体の整備に入ろうとしているのが見える。彼らの邪魔をしないようカルロは身を翻し、歩いて裏口から出て行った。