(2)過去の記憶
桑守海人は、日本人にとっての三大生活習慣病の一つで天に召されることとなった。
……はずなのだが、正確なところは覚えていない。
普通に生活をしていたらいきなり倒れて、気が付いたら今いる場所にいたのだ。
倒れた時に感じたはずの痛みなどは全くないのは不幸中の幸いだが、逆に今の状況は疑問しか感じない。
「うーん。こういう時はお迎えに来るのが普通じゃないのか? もしくは、光の道みたいなのが出て来るとか」
気が付いた時には周囲には何もない個室のような場所にいて、何かが起こるようなこともない。
自分が完全に死んで生き返れないという意識があるのか、不思議と元の生活に戻りたいという思いはわいてこなかった。
それよりも、今の不思議な状況がいつまで続くのかが気になって仕方がない。
そんな状態で十分程度の時間が過ぎた頃になって、ようやくその状況に変化が訪れた。
それまで海人一人しかいなかった部屋に、いきなり老人と少女が現れたのだ。
海人がいた部屋にはドアらしきものは見当たらず、その二人は本当に何の前触れもなく出てきたことになる。
「いやいや、遅くなってすまんの。こんな時に限って用事ができたものでの」
海人に向かって最初にそう言ってきたのは、その口調にも関わらず老人のほうではなく流水文が描かれている和服を着た少女だった。
お迎えに来たわりには老人と少女という少し不思議な組み合わせだなと海人が疑問に思っていると、それに気付いているのかいないのか少女がさらに続けて言った。
「なんだ。吾のことが分からんかの?」
そう言いながら小さく首を傾げる少女に、海人も同じく首を傾げることしかできなかった。
海人に子供はいないが、妹には既に同じような年ごろの孫娘が二人いる。
だが、その少女はどう見てもその子たちと同一人物には見えない。
そもそも海人は、こんな口調で話す子供はアニメ以外ではお目にかかったことがない。
無言のまま疑問の表情になっている海人に、その少女は一度だけ老人を見てから何を思ったのか四つん這いになった。
それを見て海人がさらに疑問を深めるのとほぼ同時に、その変化が起こった。
少女だったはずが、いきなり狐の姿になったのだ。
そして、その狐を見た海人の脳裏に、生きていたころに会ったことのある一匹の狐のことが思い浮かんできた。
「……もしかして?」
「思い出してくれたかの? 吾は、そなたに昔世話になった狐だ」
狐の姿のままでそう声を発してきたことに海人は驚いて思わず老人を見たが、彼自身は穏やかに笑ったままだった。
そもそも今の状況が不思議の塊だと思い出した海人は、少女が狐になることもあるのだろうと無理やりに納得して頷いた。
「確かに、過去に何度か狐に食べ物を持って行ったことはあるけれど……あの狐が君ってことか」
「そういうことだの。――狐の姿だと話しづらいので、こっちに戻らせてもらうからの」
狐はそう言ってから、もう一度着物を着た少女の姿に戻った。
狐が話をしていると多少の違和感があるので、海人としても少女の姿に戻って貰うのはありがたかった。
「吾のことを思い出したところで本題に入るがの。そなた……海人は自身が既に亡くなっていることは認識しておるかの?」
そう聞いてきた少女に、カイトは黙ったまま頷き返した。
「うむ。それなら話は早い。本来であればすぐにでもあの世に向かってもらうはずのところを、吾らがこちらに呼んだのだ。ちょっとした用事、というかお願いがあっての」
「お願い?」
「うむ」
「フア、待ちなさい。そこから先は私が話そう」
海人に向かって頷いた少女の名前を呼んで止めたのは、これまで黙っていた老人だった。
少女――フアに向けていた視線を海人に戻した老人は、ゆっくりと落ち着いた調子で話し出した。
「今、この子、フアが言ったとおり私たちはそなたにお願いがあって、輪廻の輪に戻ってもらうことなくこうして来てもらったのだ」
そう切り出した老人を見ながら、海人は心の中で見たことがあるパターンだなと考えていた。
より正確に言うと、海人がよく読んでいた異世界転移物で見るシーンである。
その海人の心を読んだのか、単に偶然だったのか、老人は一度頷いてからさらに話を続けた。
「そなたは、私たちのお願いを断っても別に構わない。その場合は、予定通りに輪廻の輪に戻ってもらうだけだ」
そう前置きをした老人は、海人が予想した通りのことを続けて言った。
簡単にまとめると、海人には異世界へと転生して持っている知識や知恵を広めてもらいたいということだった。
ちなみに、今の姿そのままに肉体を与えて転移をするのではなく、新しい世界で生まれ直す転生である。
老人が話したこと自体は予想できていたので海人は素直に頷いて聞いていたが、一つ疑問に思ったことがあってそれを聞くことにした。
「私がお役に立てるのであれば転生自体は構わないのですが、そもそもなぜ、私なのでしょうか?」
ある程度の能力は授けると言われたのですぐにでも頷きたかった海人だったが、それだけが引っかかっていた。
「ふむ。色々と理由はあるが、そなた自身がそもそもこういう話に抵抗がなかったというのが一番の理由だな。その条件と私たちそれぞれの願いをかなえられるのがそなただけだったというわけだ」
「なるほど。そういうことですか」
老人の答えに、海人は納得した表情になった。
老人とフアが海人に望んでいる知識というのは、船と蚕に関するものだった。
海人は、実家が養蚕業と農家を兼業で営んでいて、その知識は小さい時から自然と身に着けていた。
さらに、実家の養蚕業自体は妹夫婦に引き継いで貰って、海人自身は船の関係の職に進んだ。
そして、六十歳になるまで勤め上げた会社では、大型船の船長をするまでの地位に就いていた。
その会社をリタイアした後は、妹夫婦が住んでいる実家の近くに小さな平屋の家を建てて、そこから通いで妹夫婦の手伝っていたのである。
そう考えると、確かに海人は二人が望む知識を両方持っていることになる。
「それだけではないぞ。そなたが昔、吾のことを助けてくれたというのも理由の一つだの」
「うむ。とにかく、そなたであれば無茶を通り越して馬鹿な要求をしてくることも無いだろうしな」
「それは分かったのですが、もし私がこの話を断った場合は?」
「それは、特に今までと変わらないな。いずれ世界で生まれてくるのを待つだけだ。ただ、待つだけなのも飽きたので、できれば引き受けてもらうと嬉しいがな」
「先ほども言ったように、私は構いません」
「うむ。それはよかった。――先ほども言ったように、転生先ではいくばくかの能力を授けることになるからな」
念を押すようにそう言ってきた老人に、海人は黙ったまま頷いた。
この時点で海人は、貰える能力がなんであるかは確認していない。
チート転生でtueeeするのも魅力的ではあるが、最初から決められた条件で転生するのが条件の一つだった。
そのため、チート能力をごり押しをして話がなかったことになるよりも、異世界に転生することを選んだのだ。
勿論、海人としての記憶は残して転生することは確認してある。
その後、転生先の世界のことをいくらか聞いた海人は、フアと老人に見送られながら異世界へと送り込まれた。
「さて、上手くやってくれるといいがな」
その老人の言葉から失敗しても構わないと考えていることを察したフアは、少しだけ笑みを浮かべながらそれに応じた。
「おや。吾は、彼なら出来ると信じておるがの」
「ハハハ。まあ、とにかく私たちはもう少しの間、待つこととしようか」
老人がそう答えると、フアはそれに言葉で答えることなく、その場から姿を消した。
そして、それを見ていた老人も同じように姿を消すのであった。