(13)蚕の進化
カイトの天使たちの態度に対する疑問が解けたところで、少しの間だけ無言の時間があった。
その無音を何となくまったりとした時間だなあとカイトが考えたところで、クーアがふと思い出した様子になって言った。
「そうだ。カイトさん、もう一度蚕たちに会ってもらえません?」
「うん? それは良いけれど、何かあったのか?」
「いえ、特に何かがあったというわけでは、ないですねー。ただ、先ほどの時はすぐにいなくなったこともあって、きちんと挨拶できなかったと後悔しているみたいですから」
蚕が後悔していると聞いたことで、カイトは内心で一瞬あっけにとられたが、相手が天使だったことを思い出して、それを表に出すことなく頷いた。
「そういうことなら全然かまわない」
蚕に感情があるのかどうかという問題は別にして、どちらにしてもきちんと蚕の状態を確認しようと考えていたので、もう一度部屋に行くこと自体は問題はない。
クーアに先導される形で蚕部屋に向かったカイトは、そこで聞こえてくるはずのない音が聞こえてきて、思わずキョトンとした顔になった。
「ええと……? 何か幻聴が聞こえた気がしたんだが?」
「安心してくださいー。今度はきちんと挨拶がしたいと張り切っているだけですから」
「……そうか。安心していいのか」
クーアの言葉に微妙な表情になって頷いたカイトの視線の先には、二体の蚕の成体――いわゆるカイコガがいた。
カイトが幻聴だと認識したのは、その蚕が「ピ」「ピピ」と鳴き声を発してきたからだ。
カイトが知る限りでは、蚕がすべての形態で挨拶をしてなんて話は、聞いたことがない。
だが、目の前の蚕は、明らかにカイトに向かって挨拶をしていたのだ。
蚕が挨拶をしてくるという事態にカイトが動揺しているを見て、クーアが悪戯が成功した時のような笑みを少しだけ浮かべていた。
今はカイトの足元にいるフアも、狐の姿で表情が分かりにくいのだが、なんとなく雰囲気で似たような感じがした。
その一人と一体の様子に気が付いたカイトは、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「これはどういうことなのか、聞いてもいいのか?」
「勿論ですー。といっても、あまり多く説明できることはありませんが」
「そうだの。吾が、カイトと共に蚕どもを連れてくる時に、ちょっとばかり変異したというだけのことだ」
「いや、それってちょっとの変異じゃないよな?」
さらりと重要なことを言ってのけたフアに、カイトは盛大にため息をついて見せた。
どちらかといえば、進化といったほうが良いような大きな変化だといってもいいだろうとカイトは考えた。
「そうか? いずれにせよ、大きな役割は変わっていないのだから大した変化ではないだろう?」
妙なところで神様らしい感覚を披露したフアに、カイトはもう一度ため息をつく。
「まあ、神様がそう言うってことは、それでいいんだけれどな。それで、鳴き声を出す以外に他に変わったことはあるのか?」
「ありますねー。まず、成体になってからの寿命が大幅に伸びています。今はまだ、どれくらいまで伸びたのかは分かっていません」
「……分かっていないのか」
「これは、仕方ないですよ。この子たちの時間が動き出したのは、カイトさんがこちらに来てからのことですから」
フアが創り出した蚕のためのこの神域は、カイトが入ってきてから時を刻み始めている。
そのため、具体的にどんな変化が蚕に起きているのかは、まだはっきりしていないことも多いという説明が、さらにクーアによって付け加えられた。
要するに、まだまだ分かっていないことも多いということだ。
クーアの説明を聞いてカイトが一瞬残念そうな表情になったが、それに対してフアが口を挟んできた。
「最初から全部を分かっていたらつまらないであろ? それに、こういうのを育成モードというのではないか?」
「いや。それは、ゲームによる……って、そういうことじゃないと思うんだが?」
茶化すように言ってきたフアに、カイトは思わず半眼を向けた。
だが、フアはその視線を分かっていながら、つらっと無視をした。
カイトが本気で言っているのであればきちんとフォローをしたのだろうが、前半の言葉を誤魔化すために言ったのは明らかだ。
つまり、蚕に育成要素が混じっているということを、カイトは楽しみにしているということになる。
「どちらにしても、蚕たちの進化は止められるようなものではないからの。もしそれでも駄目だということならば、折角連れてきた彼らを消さねばならぬぞ?」
「そ、それは蚕たちが可哀そうだな。うん。しっかりとどういう進化をするのか、見極めないと駄目か」
フアの言葉に、カイトは焦った様子でそう返した。
カイトが蚕の育成を楽しみにしているというフアが見抜いたのは、紛れもなく事実だった。
カイトとフアがそんな会話をしていると、クーアが少し引いた感じで割って入ってきた。
「あの。冗談もそろそろその辺にしませんかー? そろそろ皆が、本気でおびえ始めると思うのですが」
「……うむ。その方がいいかの」
クーアに続いてフアが真面目腐った様子で頷いた。
そして、それを見たカイトが一瞬首を傾げようとして、すぐにアッという表情になった。
蚕の進化について話をしておきながら、ついつい彼らがこちらの言いたいことを理解しているということを忘れていたのだ。
蚕のことをそっちのけで彼らについて話をしていたカイトは、改めて蚕たちの方を向きながら頭を下げた。
「ごめん。ついつい、変な方向で話が盛り上がってしまった。実際に、そんな変な真似はしないから、安心してくれ」
「大丈夫ですよー。彼らもまだ冗談だと分かっていますから。――それにしても、カイトさんは流石ですね」
いきなりそんなことを言い出したクーアに、カイトは首を傾げた。
「何がだ?」
「普通、蚕のような小さな生き物に、頭を下げるなんてことはしないですよ」
「そうか? ……そうかもしれないな」
クーアの言葉に一瞬首を傾げつつ、カイトは納得したように頷いた。
海人としての記憶が残っているカイト(とその家族)は、蚕を「おしら」と呼ぶほどに大切にしていたので、彼らに向かって頭を下げるのはさほど不自然な行為ではない。
ただ、普通の感覚ではないということもきちんと理解している。
「そうなんですよ。まあ、それはそれとして、カイトさんはどうしますか?」
「……いや、いきなりどうすると言われても意味が分からないのだが?」
「ああ、そうでした。すっかり言うのを忘れていましたね。会話ができるようになった彼らを外へと連れて行きますか?」
「は? いや、まだ育ててもらえるような場所は見つけていないんだが?」
フアによってこの世界に呼ばれたカイトが、養蚕をこの世界に広めることは確定事項である。
そのために、ここにいる蚕を連れ出すということは最初から考えていたことだ。
だが、育ててくれるような場所も見つけていない現状で、いきなり神域の外へと連れて行くことは全く考えていなかった。
「ああ、いえいえ。そういうことではないですー。蚕を一般に広めるのはそんなに慌てなくてもいいとして、この二体の蚕がカイトさんの傍にいたいようなのですが、どうしますか?」
「うん……? 二体だけ?」
「あれ、説明していませんでしたか? 今のところ進化が確認できているのは、こちらの二体だけです」
「……聞いていないな」
どうしてそういう重要なことを後回しにするんだという表情になるカイトに、クーアはてへぺろ的な表情になった。
「あれあれ、それは失礼いたしました。それで、どうしますか?」
さらりと何事もなかったかのように話を進めてきたクーアに、カイトはジト目を向けたが一度だけため息をついてから言った。
「進化の確認もあるから連れて行くのは構わないが、少し危なくないか?」
蚕は、攻撃はおろか自分の身を守ることができないほどに弱弱しい生き物である。
そんな生き物をこれから先、船を使って色々な場所へと移動するつもりのカイトと一緒にいることができるかどうかは、非常に怪しいところだ。
それに、大地の神が求める程に珍しい生き物を、強引に手に入れようとする者が出てこないとも限らない。
「確かにそうですねー。ですので、契約でもすればいいと思いますよ。そうすれば、いつでも呼び出すことができますから」
「契約?」
その言葉が、単純にビジネスとして使われる言葉でないことは、話の流れからカイトにも理解ができた。
そのため首を傾げたカイトに、クーアはいわゆる召喚契約についての説明を始めた。