(35)貧困層の未亡人
クローバー神父から紹介されて、今カイトの目の前に立つこの女性の名はヤーナという。
現在は息子であるヤロと共に貧困地域に住んでいるヤーナだが、何年か前までは普通の地域に住んでいた。
そんなヤーナが今いる場所に移り住むことになったのは、小さな商会を切り盛りしていた旦那がとある事故で亡くなったからである。
本来であればヤーナがその商会をついで、裕福なとまでは行かないまでも普通の暮らしはできていたはずである。
それができずに現在の場所に住むことになったのには、旦那が亡くなった事故も関係している。
数年前まで普通の地域で旦那と共に商会を切り盛りしていたので、カイトが欲しい能力は備わっている。
身元に関しても、変な政治的な繋がりもあるわけではなく、他の商会ともある程度の繋がりは持っている。
カイトに言わせれば、なぜそんな女性がこんな場所で暮らしているんだと言いたくもなるが、人にはいろいろな事情があるということも分かっている。
ついでに、カイトはクローバー神父からその事情に当たる話もある程度は聞いていた。
それらを含めて問題がないと判断したからこそ、カイトはいきなり雇用の話を持ち掛けたのだ。
その一方で、商会の管理という業務を持ち掛けられたヤーナは、疑わし気な視線をカイトに向けていた。
「商会の管理……ですか。失礼ですが、そもそも私はあなたのことを存じ上げないのですが?」
「ああ、これは失礼をいたしました。私の名はカイト。こちらはメルテと言います」
簡単に挨拶を済ませたカイトは、クローバー神父から話を聞いたことも含めて、商会を切り盛りできる人手が必要だという話をすることにした。
いきなりカイトのような少年が、そんな人材を探しているということ自体、疑われても仕方ない状況である。
だからこそヤーナは、未だにカイトとメルテに疑うような視線を向けているのだ。
現在のカイトの状況を聞き終えたヤーナは、少し驚いたような顔になって言った。
「――そうですか。あなたがあの大きな船のオーナーで、他の船も管理できるような商会を作りたい、と」
「そうです。引き受けていただけますか?」
「その答えを出す前に、いくつか質問をしてもよろしいでしょうか?」
「勿論です」
「まず、お聞きしますが、何故私なのでしょうか?」
「それは――」
ヤーナから問われたカイトは、クローバー神父から複数の話を聞いていてその中の一人であることを正直に話した。
ここで嘘をついても何の得にもならないし、後からばれた場合はもっと面倒なことになる。
カイトとしては、最初から断られることを考慮に入れたうえで、ヤーナに会いに来ているのだ。
そして、いくつかの問いを終えて満足したのか、最初にあった警戒はすっかり解けた表情になっているヤーナが、頷きながら言った。
「畏まりました。そういうことでしたら、是非お受けいたします」
「本当ですか? それはありがたいです」
「……正直なところ、他の商会の方に良い顔をされないと言ったせいで、そちらから断られると考えておりました」
「私の船が他と競合するような商売だけをしているのであれば、そういうこともあり得たのでしょうが、そういうわけではありませんから」
これはヤーナの過去にも関係するのだが、彼女はセイルポートにあるいくつかの商会とちょっとした因縁があったりする。
だからこそ、こんな場所で一人息子を連れて生活しているのだ。
カイトにとってはヤーナの過去はどうでもいいことであるし、他の商会の事情などさらに輪をかけてどうでもいい。
それよりも、能力があってある程度信用の置ける人材を雇用する方が、はるかに重要なのである。
「そうなのかもしれませんが、それでも多くの商品はこちらの商会で捌かなければならないのでは?」
「確かにそうですが、フゥーシウ諸島産の商品だけを取引して、他の商品は駄目とはいきませんよ。力のある商会であれば、過去のことなどよりも実利を取るのではありませんか?」
「それは、そうでしょうね」
カイトの答えを聞いたヤーナは、そう答えながら感嘆の溜息をついていた。
その様子に気付いて不思議そうな表情を浮かべるカイトに、ヤーナはクスリと笑ってから言った。
「カイトさん、あなたは本当に十代前半ですか? 今の問いにしっかりと、しかもすぐに答えられるのは何故でしょう?」
「いや、何故と言われても……」
海人としての記憶があるからという明確な答えがあるのだが、それを他人に話すつもりは、今のところはない。
カイトの困った様子にもう一度笑ったヤーナは首を振りながら言った。
「いえ、すみません。困らせるつもりはなかったのです。私も一人の息子を育てている最中ですので、どうすればそのような子に育つのかと不思議に思っただけです」
「えーと、そこは、それこそクローバー神父に話を聞いたほうがいいのかと思います」
「確かに、そうですね」
カイトにとっては誤魔化すための答えだったのだが、ヤーナはそれで納得したのか何度か頷いていた。
それはそれとして、カイトとしてはヤーナが引き受けてくれたことのほうが重要だ。
「すみませんが、この後予定はありますか? 早速ですが、具体的な業務の話をしたいと思うのですが」
「そうですね。私としてもその方がありがたいです。蓄えはまだまだありますが、だからといって余裕があるというわけでもありませんから」
「そうですか。では、場所を移動して……ああ、勿論ヤロも一緒でいいですよ」
二人の話を騒ぐことなく黙ったまま聞いていたヤロを見ながら、カイトはそう言った。
孤児院で育ったカイトにしてみれば、ヤロくらいの年(カイトよりも三つ下)で、親の話を黙って聞いているというのは、それだけでも十分すぎるほどの躾がされているように見える。
だからこそ、業務の話の場に連れてきてもいいと、敢えてカイトから提案したのだ。
そんなカイトに、ヤーナは嬉しそうな表情になって頭を下げた。
「ありがとうございます。……普通であれば、子連れで業務の話などと眉をしかめたりするのですが……」
「そこは、ほら。私も子供の一人だからということで、お願いします」
都合よく自分がまだ子供の年齢であることを持ち出したカイトに、ヤーナはもう一度クスリと笑って頷くのであった。
カイトがわざわざ場所を移して話をしようと提案したのは、貧困地域にいる場合、どこにどんな目や耳があるか分からないからである。
それでなくとも、防音どころか防寒さえ怪しい建物が立ち並んでいる地域である。
それに加えて、普段から怪しい人物が多く行きかっているところなので、そこで重要な話などできるはずもない。
ヤーナもそのことは分かっているのか、カイトの提案に特に渋ることはなかった。
カイトにとっての安全対策がしっかりしている場所といえば、セプテン号の中しかない。
ヤーナとヤロは、巨大帆船に乗るのは初めてのことなので、興味深げに辺りを見回していた。
特にヤロにとっては非常に刺激的な体験になっているのか、終始はしゃぎっぱなしだった。
といっても、カイトとヤーナが真面目な顔で話をしだしたときには、きちんと黙ったまま座って話を聞こうとしていた。
そんなヤロに気付いたカイトは、メルテにお願いをして二人で船内を見て回るように言った。
そして、メルテとヤロを見送ったカイトとヤーナは、改めて真剣な顔で商会についての話を進めるのであった。