(34)貧困層が住む地域
クローバー神父から情報を仕入れたカイトは、適当に子供たちに挨拶を返しつつ、孤児院を後にした。
次いでカイトが向かったのは、クローバー神父から聞いた情報にあったとある一家が暮らしている場所だ。
どう善政をしていたとしても貧富の差というのは必ずできるもので、その場所は貧しい者たちが暮らしているところだ。
ただ、セイルポートが豊かであることと、代々の公爵がしっかりとした行政サービスをしてきたことで、その場所はスラムと呼ばれるような雰囲気にはなっていない。
それでもやはり貧しさが前面に出ていて、建物などは誰が見てもぼろいと言えるような見た目になっていたりする。
貧困層が住んでいる地域は、カイトにとっても歩きなれた場所である。
中にはまだカイトのことを覚えていてくれる者もいて、簡単に挨拶をしながら進んでいた。
そんなカイトの様子を不思議そうな様子で見ているのが、一緒に着いて来ていたメルテだ。
「――そんなに不思議?」
「はい……あっ、いえ、私の知っているカイト様とは、また違った一面があるのだなと思うと……」
「いや、別に言い訳はしなくてもいいよ。実際にそうだろうし」
メルテの知っているカイトは、大人を相手にバリバリ交渉を行う知的な少年である。
それが、悪くいってしまえば言動があまりよろしくない貧困層の者たちと気軽な調子でやり取りをしているのが、メルテにとっては不思議なのだ。
そして、カイト自身にもその自覚があるので、メルテのことを責めたりはしない。
カイトがそんな二面性のようなものを持っているのは、明らかに海人として生きてきた時の記憶があるせいだろう。
ただ、すでにその記憶は馴染んでいて、ある意味で二面性をもって行動すること自体が、カイトにとっては自然なことなのである。
ちなみに、メルテがカイトと一緒に歩いていることに対して、何かしらの行動をしてくる者はいない。
そもそも今いる地域は、様々な理由でそこに落ちた者たちが住んでいる場所になる。
そのため、人獣が歩き回ることもあり、深く詮索することもタブーとなっているのだ。
そんな調子で歩いていたカイトとメルテは、とある一軒家の前で止まった。
もっとも、この地域では大抵が集合住宅になっているので、一軒家が建っていること自体珍しかったりする。
それは逆にいえば、この家に住んでいる家主が、ここに来る以前はそれなりの稼ぎなり蓄えがあったということを意味している。
「――ここがそうですか?」
「だね。まあ、この辺りに住んでいる人たちは、頻繁に住所が変わったりするから絶対にいるとは限らないけれどね」
住所が頻繁に変わる理由は色々あるが、主なものは税逃れのためだったりするので、敢えてここで口にしたりはしない。
税の払いを渋って、貧困層に落ちて身元不明になるのがいいのか、奴隷に落ちてしまうのがいいのかは、判断が微妙なところだ。
北大陸では、身元不明であるということが、それほどまでに生きにくい世界なのだ。
ちなみに、税が払えなくて借金奴隷になった場合は、その借金分さえ返せば元の平民の戻れるので、完全に身元不明になるよりも平民という身分は取り戻しやすい。
カイトたちが今いる貧困層にいるということは、奴隷になることを選ばずに、身元不明という闇に生きることを選択した――とは限らずに、単純に生きて行くのに安上がりで済むからという理由もある。
そういった理由もあり得るので、こうした場所で過去のことを聞くのはタブーとなっているのだ。
「さて、いればいいけれどな……」
カイトは、そう呟いてから家のドアをノックした。
「はーい。……誰?」
そう言いながらドアを開けて姿を見せたのは、カイトよりも少し年下のように見える少年だった。
着ている服そのものは、貧困層らしくつぎはぎだれけの物だったが、その立ち振る舞いはずっと貧困層で過ごしてきた子供には見えない。
むしろ、それなりの教育を(両親から?)受けてきたと考えた方が自然だと思えるようなものだった。
カイトもメルテもすぐにそのことに気付いたが、それを口にすることはせずに、別のことを聞くことにした。
「こんにちは、初めまして。俺はカイトというんだけれど、お母さんはいるかな?」
「今は、いない……けれど、すぐに戻って来る、はず」
大人がいないと思われると何をされるのか分からないと考えたのか、少年はすぐにそう付け加えて言ってきた。
この辺りの地域に住む子供であれば、当たり前のように出来る対応であるが、目の前にいる少年の場合は若干不慣れなところがあるように見える。
またそのことが、クローバー神父からきいた情報が正しいものであることを示していた。
すぐに戻って来るという少年の言葉を信じることにして、カイトはメルテと一緒に少し辺りをぶらつくことにした。
といっても、この辺りの地域には屋台などは存在していないので、本当に周辺を歩き回るだけだ。
そして、小一時間ほど辺りを歩き回ったカイトとメルテは、再び先ほど訪れた家を訪ねて同じようにドアをノックした。
「――――はい。どちらさまで……ああ、あなたたちが息子が言っていた方でしょうか?」
ドアを開けながらそう尋ねて来たのは、二十代後半から三十代前半ほどの女性だった。
その顔立ちを見れば、先程あった少年と血のつながりがあることがすぐにわかった。
警戒をしながらも探りを入れて来るような女性の視線に、カイトは気にすることなく頷いた。
「ええ、一時間ほど前のことでしたら恐らくそうです。改めて来させていただきました」
「そう、ですか」
その女性は、見た目少年でありながらどこまでも丁寧な口調のカイトを、どう評価していいのか分からないという表情をしていた。
スラムや貧困層が住む地域では、見た目ただの子供が実は暗殺者として教育を受けているなんてことがあり得るので、簡単に油断はできない。
それでも、少なくとも今のやり取りだけでも、カイトやメルテが自分たちの命を取りに来たわけではないということくらいは分かる。
全く警戒を解こうとしない女性に内心で合格点を出しつつ、カイトはさらに続けて言った。
「実はあなたたちのことは、孤児院の院長から話を聞きました」
「孤児院の院長……クローバー神父ですか?」
「ええ。私はあそこの孤児院の養い子ですよ」
敢えて孤児とは別の言い方で言ったカイトを見て、女性は少し驚いた様子で両目を見開いた。
身なりや言動からカイトが孤児であるとは考えていなかったのだ。
別にカイトは孤児であることを隠しているわけではないが、孤児であるという名札を付けて歩いているわけではないので、女性が気付かなかったのも無理はないだろう。
カイトが孤児だと聞いて――というよりも、クローバー神父の下で育ったと聞いて少しは安心したのか、女性は先ほどまでの警戒を幾分か和らげながら聞いてきた。
「それで、あの孤児院の者がどういった用でしょうか。息子を入れることはお断りしたはずですが?」
「ああ、いえ。その話とは全く別です。クローバー神父も心配はしていましたが、無理に入れるつもりはないようです」
「そうですか……では、何故?」
子供を孤児院に入れるように勧めに来たわけではないと分かった女性は、益々意味が分からないと言わんばかりに首を傾げる。
「実は、私はこれから新しい商会を作ろうと考えています。あなたに、その商会の管理をしていただけないかと考えて来たのです」
カイトがそう言うと、女性は驚きで両目を大きく見開くのであった。