死を待つ者は
もし核兵器が爆発して、何もかもが蒸発してしまったとしても、やはり僕は生きているのだろう。なぜなら僕は不死だから。僕は皆と一緒に安らかに眠ることはできない。死にたくなるほどの永遠を、一人で生きていかなければならない。
いや、それは生きていると言えるのだろうか。死なないのであるから生きているのだが、生きているというにはあまりにも無意味である。
「大丈夫。核兵器が落ちたら君だって死ぬさ」
「そうだといいけれど」
魔女が言った。魔女は僕がイメージするような醜く年老いた魔女ではなく、若く美しい魔女だった。白い肌とその真っ赤な唇が、彼女が魔女であることを示していた。
「なんなら、私が殺してあげようか?」
「はは。そう言って何人もの人間……存在が僕を殺し損ねてきた。これは呪いなんだ。神が人間に与えた最後の呪い」
「神か」
魔女は黙った。彼女はゆっくりと、まるで目の前の空気を掬うように手を伸ばした。手のひらで何かが光ったような気がした。
「その呪いはもう解けそうにないね。呪った当の本人が、もう死んでしまっているんだから」
「まったく、馬鹿馬鹿しい話だよ」
「本当に」
彼女は笑った。さっぱりとした笑顔だった。
「それで魔女さん。君はいつハルに戻るんだい?」
「私はハルで、ハルは私よ。戻るという言葉はふさわしくない」
「でも、君はレイなんだろう?」
「名前になんて何の意味もないわ。それはただあなたたちが世界を分けるために使っている記号。私は記号に縛られない」
良くわからないことを言う魔女だった。
「私はレイ、そしてハル。あなたに恋をしたのはハル、あなたを殺そうとしたのもハル。けれど、あなたを殺せるのはレイ」
「やってみなよ」
「今は無理だわ。時期が来たら、私があなたを救ってあげる」
魔女は立ち上がり、扉の方へ歩いてゆく。
「休み時間はもうおわるよ。あんまりのろのろしてると授業に遅れちゃうんだから」
「はいはい」
けれど僕は立ち上がらない。授業を受けるには今日はあまりに快晴だったからだ。
「僕はもうちょっとだけここにいることにするよ。何か発見が、まぁないだろうけどね」
「留年しても知らないからね」
そう言うとハルは屋上から出ていった。いつの間にかレイは消えていた。
ハルが魔女なのか魔女でないのか、はっきり言って僕にはどうでもいいことだった。どのような過程を経たところで、結果が変わることはないからだ。神は死んでしまったし、レイは僕を殺せない。きっと僕の知らないところで僕が想像もつかないようなことが進行しているのだろう。だが、それだけのことだ。この世界は退屈と呼ぶにはものが多すぎたし、楽園というには人が死に過ぎた。
授業に出ることをやめた僕は何もすることがなくなったので図書室へ向かった。図書室はいい。誰も僕に話しかけてこないからだ。
しかし残念ながらそこには先客がいた。
「やっぱりここに来たか」
「授業はいいのかい?」
「お前にだけは言われたくねえな。てか、俺のクラスは自習だよ」
ヤマトは近くの机に腰掛けた。彼のそういうところはあまり好きではなかったが、それ以外のところはそれなりに気に入っていたので、僕も近くにあった椅子に腰かけた。
「まさかハルが魔女だったなんてな。知ってしまった以上、俺たちも動かないといけない。てか、知ってたんだったら教えてくれよ」
「別に。僕は君たちとは関係ないからね。というより、どちらかというと僕は君たちとは敵対関係にあるはずだ」
「お前にはもう誰も何もしねえよ。お偉いさん方も諦めてる」
「僕としてはやりに来てくれて構わないのだけれどね。まぁいいや。どうでもいいけど、魔女と君たちは何が違うんだい? 僕には違いがわからないよ」
ヤマトは僕の発言に心底呆れたようで、深くため息をついた。
「魔女と魔術師は全く違う。確かに魔法を使うという点では同じだが、俺たちと奴らでは信仰する神が違うんだ。それゆえ、すべてが根本的に異なっている」
「けれど、神は死んだ。四百年くらい前にね」
「それは……現時点では調査中だ」
彼は自慢の茶髪をかきあげた。
「いずれにせよ、ハルは俺たちの監視対象になった。お前はあまり余計なことはしないでくれよ。それと……」
やはりきた。ヤマトは別にハルの話をしに来たわけではなかった。大した霊力も魔力も持たない魔女など、彼らにとっては些細な存在に過ぎないのだ。けれど彼は、わざわざ図書室に結界を張ってまで僕を待っていた。つまり、彼らが動くだけの何かが、僕の知らないうちに進行しているのだ。
「十日前の月曜日から、なんか、この学校、おかしくないか?」
「おかしい? 何が?」
「それはわからない。ただ、何かがおかしい。それを感じているのは俺たちの中でも俺だけだが、確かに何かが変なんだ。何か、知らないか?」
「君たちが知らないことを僕が知っているとは思えないけど、月曜日と言えば……」
「ああ。あの事件が起こった日だ」
簡単に言うと、この学校の生徒がこの学校の生徒を殺害した。しかも校内で。
詳しいことは知らないが、高校生が高校生を学校で殺してしまうというのはなかなかショッキングな出来事ではあるので、大きなニュースになると思われた。
が、結果としてこの事件がニュースで大きく取り上げられることはなかった。
「あの事件自体も何らかの力、つまり魔力とかそっちの超常的な力が働いていたと考えて間違いない。そして、あの日を境に何かが決定的に変わってしまった。俺たちはあの事件について調査中だ。あの事件の真相がわかれば、俺が感じているこの違和感の正体も掴めるかもしれない、一方でこの違和感の原因を理解しないことにはその事件の真相には決してたどり着けない……そんな気がするんだ」
逮捕された生徒と、殺された生徒、正確に言うとその死体は、その日のうちに姿を消した。そして面白いことに、誰も、その二人が誰だったのか思い出せないのだ。記録からも消えていた。最終的にはこの事件への関心も、人々の心の中から消えてしまった。
「まったく、君たちには頭が下がるよ」
「これが俺たちの仕事だ」
「仕事だからってよくやるよ。まぁ、僕にわかることは残念ながらあまりない。ただ一つ言えることはこの件にハルは関わっていないということだ。ハルにはこんなにも広範囲にわたる魔法を行使できるほどの力はない」
「それはそうだ」
「ああ、それからもう一つ。僕がこの件に関して率先して動くこともない。大して興味もないし、僕に危険が及ぶとも思えない。もっとも、何かわずらわしいことになった場合、何らかの手段を取ることはある」
僕はそう言うと立ち上がった。
「君たちのやりたいようにやればいい」
一人の女子生徒が男子生徒を殺そうとしている。僕はその現場を、どこか心温まる気持ちで見ていた。ああ、それじゃあだめだ。生きているものは簡単に死ぬけれど、殺意に対しては鋭敏なのだ。女子生徒がでたらめに振り回したナイフを、男子生徒は余裕を持って避けた。
「さみしいものですね。愛していたからこそ殺したい、そのような因果関係の存在を推定してしまうほどに彼女はさみしかったのでしょう。こんなにも秋の空気は澄んでいるというのに」
僕は目を覚ました。世界史の授業中だった。教師がまるで僕に対して説教をしているような錯覚を覚えた。
「吉田、なぜ歴史の勉強をするかわかるか?」
「過去の失敗から学び、未来に活かすため?」
「それもある。だがな、もっとも大事なところはそこじゃない。誰かわかるものいるか?」
教室は静かだった。愚かな答えを言えるような空気ではなかった。
「人間の愚かさを知るためです」
その透き通った声は、よく知った声だった。ハルか、あるいはレイなのか。彼女は静かに続けた。
「けれど、それは未来に活かすためではない。ただただ単純に我々の愚かさを知ること。私たちは知らなければならない。そして私たちは絶望する。私が人間であることに。私たちは単純に絶望するためだけに、歴史を学ぶ」
教室がすこしざわつき始めた。ハルの答えは僕には良くわからなかったが、それは他の生徒も同じらしかった。けれど、教師は違ったようだ。彼は口の片側だけをひきつらせると
「悪くない」
と言った。
過去について考えてみよう。僕は四百年ほど前に生まれ、今まで生き続けている。四百年、人間であった頃の僕からすると途方もない年月だが、人間であることを失った今の僕にとっては、ほんの些細な時の流れに過ぎない。
四百年、いろいろなことがあった。けれど、どれも大したことではなかったのだ。もはや神のいない世界で、意味のあるものなどないのだから。
放課後、僕は天文部の部室にいた。普段はもう少し部員がいるのだが、今日は僕とハルしかいなかった。ハルは缶コーヒーを飲みつつ、何やら本を読んでいた。
「今日のあれ」
「今日のあれ?」
「歴史を学ぶ意味とか、人間の愚かさとか、いったい何の話だい?」
僕は彼女に尋ねた。
「別に、聞かれたから答えただけだよ」
「君は普段からあんなことを考えているの?」
ハルは顎に人差し指を軽く当てて、すこしだけ考えるようなそぶりをしてから
「眠れない夜は考えることで時間を潰すことにしているから、そのときにたまたま考えたことがふっと頭に浮かんだのかしら」
と言った。
「戦争は起こると思うかい?」
「どうだろう。もう起こらないんじゃないかな」
「どうして?」
「だって、何の意味もないから。どうせみんな死んでしまうし、死んだら生き返ってしまうし、生き返ったところで世界は混沌としているし、世界が混沌としているところで私たちは生きていかなければならない。つまり戦争なんてやるのは時間の無駄だけど、その無駄にする時間すら無意味なものであるってこと」
そう言うと彼女は急に笑い出した。大きく品のない笑い方だ。おそらく、今彼女はハルではなくなり、レイになったのだ。
「人間の愚かさについては、何百年も生きているあなたの方が知っているんじゃないかしら?」
「いや、僕は何も知らない。そもそも人間が愚かだとも思っていないさ。知能的には優れているし、感情的には仕方がない。彼らは生きているんだから」
レイは読んでいた本を閉じた。
「殺された生徒と、殺した生徒に心当たりがある」
「奇遇だね。僕もだよ」
ヤマトが感じていた違和感。おそらくそれは、すべての生徒と教師から、意識なるものが奪われたことにあるのだろう。もちろん、僕とハルは除き。それはつまり、ヤマトもまた意識を奪われているということだ。
彼らは動いているだけで、何も感じてはいない。そんな状態で彼らは生きている。
「彼らに意識を返してあげなよ」
僕はレイに言った。
「なぜ?」
「理由はない」
「もし返したら、君は私に何をしてくれる?」
「できることで、僕の気が向くことならば」
「じゃあ、文化祭を一緒に回ろう」
「了解した」
「じゃあ私は、皆の意識を皆に返します」
一瞬だけ彼女の左手が光ったような気がした。気がしただけで、錯覚だったかもしれない。ただ、その瞬間から明らかに学校の空気が変わるのを感じた。
「ねぇ、レイ。本当に君が殺したかったのは、一体誰なの?」
「大変だ」
僕が自宅のベッドの上でくつろいでいると、ヤマトから突然電話があった。
「赤いものが動き出した。奴らはこのあたりの若い人間を、全員殺そうとしている。奴らは強い。俺たちじゃあどうすることもできない。力を貸してくれ」
「若い人間ね」
「ああ」
「僕は若くもないし、人間でもない。つまりここにいれば安全だ」
「お願いだ! 協力してくれ! お前しかいないんだよ」
僕はすこしだけ考える。と言っても、損得の計算をしているわけではない。助けてやりたい気持ちと、助けたくない気持ちの、どちらが強いのか測っているだけだ。
「わかったよ」
「本当か?」
「ああ、でも別に僕が出ていく必要もないと思うけれど」
僕は学校に向かった。深夜の空気は想像よりもずっと冷たい。赤いものとは何なのだろう。ヤマトは僕が彼らの世界についてよくわかっているという前提で話をする。だが、彼には申し訳ないが僕は彼らの世界について深く知っているわけではない。むしろ知らないと言った方がよいかもしれない。彼らが古の術を使うということは知っている。ただそれだけだった。
「よう」
僕が校門に到着すると、一人の男が立っていた。秋が深まるこの季節、しかも真夜中だと言うのに半袖半ズボンの不審な男。
「どちら様ですか?」
「俺だよ俺。全く、今の学生は先生の顔も覚えていないのか」
「ああ、世界史の……」
名前は忘れたが、世界史の教師だった。私服だとわからないものだ。
「まぁいい。校内は酷いありさまだ。赤いものと組織が争っていたんだが、ハルが来て全てが終わってしまった」
世界史の教師は語りだした。彼もこちら側の人間のようだった。
「全く、大した魔女ではないと思っていたが、とんでもない誤解だった。赤いものも組織も壊滅だ。おまけにこの学校の関係者も皆、な。見てみるか?」
「ええ。しかしハルは呪いを解いたはずでは?」
「意識を奪う呪いか? ああ、それは解かれていた。が、奴は新たな魔術を使用した。全てが命を落とすというシンプルなものだ。シンプル故防ぐのは簡単、なはずなのだが、どういうわけだか全員死んでしまった。生徒たちはまだしも、赤いものや組織の連中まで。一体どうなっているんだか……」
僕たちは門をくぐり、校舎に入った。見なれた靴箱だったが、やはりこの状況で見るとすこし歪だった。
僕たちはとりあえず教室に向かった。僕が普段授業を受けているそれである。教師も何も言わずに僕についてきた。
「なるほど……本当に死んでいるんですか?」
「ああ、確認してみろ」
「いえ、そこまでしたいわけじゃないです」
クラスメイトが全員、正確に言うと僕とハルを除いた全員が席についていた。皆が黒板を見ている。黒板には何も書かれていなかったが、彼らはそこに書かれた何かを真剣に読んでいるような、そんな表情をしていた。その中にはヤマトもいた。彼のそんな顔を僕は初めて見た。
「何らかの儀式でしょうか?」
「さあな」
「というより、先生は一体何者なんですか?」
「ああ、そういや言ってなかったな」
世界史の教師は組織(おそらくヤマトが所属しているところだ)と協力関係にある組織(教師はクラスと言っている)の一員らしい。魔術師の世界もいろいろある、ということだろう。文脈から判断すると、赤いものもその系統の組織なのだろう。
「で、俺は組織と協力して赤いものを壊滅しようとしていた。が、ハルが現れて赤いもの組織のみならず、一般人まで皆殺しにした、というわけだ」
理解できそうで、まったく理解できない。そもそも赤いものはなぜ若い人間を殺そうとしたのだろうか。ハルは何のためにこんなことをやったのか。そして、この男はなぜ生きているのか。
「俺は魔法じゃ死ねないんだよ。だから生きている」
「なるほど。今のが一番わかりやすい説明でした。いままで先生が僕にしてくれた説明の中で」
「世界史の授業よりもか?」
どうでもいいことを聞いてくる教師だ。残念なことに僕はこの教師の授業をほとんど覚えていない。なぜだか知らないがたいてい眠っていたからである。
「なぜ歴史を学ぶのか」
僕は試しに今日この男が言っていたことを口にした。彼はにやりと笑って答えた。
「大学受験で必要だからに決まってんだろ」
「……とりあえずハルを探しましょう。それから、この人たちはもう生き返らないんですか?」
「んー。微妙なところだ。体に損傷はないし、もしかしたら生き返るかもしれない。とりあえず安静にしておくのが一番だろう」
僕たちは二手に分かれることにした。僕は死なないし、教師も魔法では死なない。つまり二人ともこの状況でも危険はないのだ。
「何かあったらこの番号に連絡してくれ」
世界史の教師はそういうと、廊下の奥へと歩いていった。
楽しいことを考える。そして、とても辛くなる。現状をいやでも認識してしまうということが一つ、こんなにもダラダラと生きてきて楽しいことがごくわずかだったと気付いてしまうことが一つ。レイは自分なら僕を殺せると言った。できる事ならそうして欲しい。
気が付くと窓から日が射しこんでいた。周囲も騒がしい。みると生徒たちが楽しそうに喋ったり、廊下を走ったりしていた。僕は時計を見る。昼の十二時を少し過ぎたところだった。考えるべきことはたくさんあったが、面倒だったのでやめた。結局皆死んでいなかったのだ。それはとてもよいことのように思えた。
「よう、遅いぞ」
ヤマトが僕の方へ小走りで向かってくる。
「赤いものの襲撃はまだだろうが、油断はできない」
「ああ。時にヤマト。今君は心を持っているか?」
「何言ってるんだ?」
怪訝な顔で僕を見るヤマト。彼の髪色が黒に変わっていた。否、昔から黒だっただろうか? 僕の記憶に残る鮮やかな茶色の髪をした男は、彼ではなかったか?
「とにかく、赤いものが来たら今の俺たちじゃ無理だ。リーダーが帰ってこないことにはどうすることもできない。だから、是非力を貸して欲しい」
「了解した」
「ありがとよ!」
一体今日はいつなのだろうか。時間が巻き戻ったのか、あるいは、さっきまで見ていた世界が幻想だったと言うのか……。
僕には判断がつかなかった。
「どこまでが現実で、どこからが幻想かなんて考えることに何の意味もないさ」
僕の横に見知らぬ女が立っていた。真っ赤な髪の女で、黒いマントを羽織っている。
「もしかして、あなたが赤いもの?」
女の目つきが急に鋭くなる。
「それは蔑称だ。私たちはレッドヘッドだ。それよりお前、何で私たちのことを知っている? まさか、お前も組織の一員か?」
「別に、僕は彼らとは何の関係もありませんよ。傍観者を気取りたいところなのですがね。そんなことよりあなたたちの目的は何なのですか?」
「……それを私が言うと思うか?」
左頬が熱いと思ったら、視界が急に切り替わった。ぼんやりと天井を眺める。どうやら僕は殴られたようだ。鼻の穴から液体が流れ出るのを感じる。僕はゆっくりと立ち上がった。
「ほう、この攻撃で首が飛ばないか。お前、何者だ?」
「さっきから言ってるでしょう。何者でもないですよ。僕は単なる傍観者、いや観測者だ。事象を安定させたいんです。どうかあなた方の目的を教えてください」
「教えるわけ、ないだろうが!」
女が振った杖の先から光線が放たれ、それが僕に直撃した。何の魔法かはわからないが、僕は再び床に転がることになった。
「話しのわからない人だなぁ。別に僕はあなたの邪魔をするわけじゃない、そう言ってるじゃないか……」
「おいおい……嘘だろ」
僕は再び立ち上がり、女と向き合う。女はひどく驚いているようだった。
「なぜ生きている? なぜ今の攻撃で生きているんだ!」
「いや、僕死にませんし」
気づくと鼻血も止まっていた。頬の痛みもない。
「僕は観測者だ。基本的にあなたたちの戦いに参加はしないし、本当のことを言うと興味もない。ただ、事象は安定させる必要がある。だからあなた方の目的が知りたいんだ。言わないというのなら力づくでも聞き出そう」
「お、お前にできるとでも?」
「方法は無数に存在する。できればあなたを殺したくはない」
女はもしかしたら僕を怖れているのかもしれない。すこしだけ震えているように見えた。
「まぁ、そこまでにしといてやれよ」
後ろから声がしたので振り返ると、世界史の教師が立っていた。
「しかもここは学校の中だ。皆ビビって逃げてったじゃねぇか」
確かにここには僕と女と教師以外誰もいないようだった。僕はこちら側の世界に巻き込まれていたのだ。
「そこの女、諦めろ。そいつはお前じゃどうすることもできねぇよ」
女は僕を一瞥すると、駆け出した。僕たちはその後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
「で、どうする。変な術式が発動してしまって、俺たちはどこかに転移されちまったようだが」
「いえ、僕はこの感覚を知っています。これは転移ではなく幻術です。僕たちは夢を見ているだけだ」
「まさか……」
「おきましょう。おそらく、もう朝だ」
僕と世界史の教師を残して、学校の生徒と教師は全員死んでいた。凍死であった。美しい死体が教室に並んでいた。
不思議なことにハルの存在は歴史から消されていた。世界史の教師も彼女のことは覚えていなかった。
それがレイの意志なのか、あるいは偶然の産物なのか僕には判断できなかったが、世界はこうもあっさりと一人の人間の存在を忘れてしまうのかと改めて感じた。何百年生きた僕にとっては今さらなことではあるけれど、実に多くの人間が生まれては忘れられていく過程を思い、僕は久しぶりに時が流れに触れたような気がした。
「組織も、赤いものも皆死んだ。学校も消えた。俺の二つの職場が同時に消えてしまった」
「どうするんですか?」
「まぁ、就活だろう」
「大変ですね」
「そうでもないさ」
僕は世界史の教師と別れ、目的の場所へ向かう。事件はいつも図書室で始まり、図書室で終わるからだ。
「この世界も物語の一つで、この図書室にある本の一冊にその物語が書かれているとしても、私はその物語を最後まで読むことはできない。なぜなら、私は全てを読みとおすだけの年月を生きることができないから。その点君はいい。君はいつまでも生きることができる」
「長く生きればいいというものでもないさ。長い年月をかけて、本は朽ちるだろう? 結局僕も読むことはできない」
なるほど、と彼女はつぶやくと本を閉じた。やはりそこにはレイがいた。
「全ては幻想なのだろうか?」
「どうだか。君は核爆弾の光を見たのだろう?」
僕の記憶の中には、数多くの光景があった。一瞬の光。屋上から飛び降りた女子高生。母親の不倫。孤独な病室。
変だな、と僕は思った。悲しいことばかりが思い出されてくる。僕は一体誰なのか、今となっては意味のないことである。僕は彼であり、彼女であった。もちろん本当の僕は違う。僕は不死であり、生命の連鎖から弾き出された存在なのだ。この光景はレイが僕に見せているものである。彼女は幻術を使う。彼女が作るイメージの海に、僕はただ一人佇んでいる。そこには何もなく、数多の人間の記憶が僕に流れ込んでくる。楽しいこと、辛いこと、嬉しいこと、悲しいこと、さまざまな出来事に彩られた彼らの人生は、なぜだか悲しみだけが残った。これが死ぬということなのかもしれない。
「もう起きた方がいい」
「朝かい?」
僕は彼女に尋ねた。
「朝ではない。かといって、昼でもないし夜でもない。ここは時間を超越した空間、正確には時間を超越した空間を見せる幻想の中」
「なるほど」
「あなたには私の記憶を見る義務と、それを受け止める権利がある」
たった一つの記憶だった。そこにいるのは、僕だろうか? 僕は何かを言っているが、それを聴き取ることはできない。
「あなたはずっと死を望んでいた。だから私はあなたを殺そうとした」
「なるほど」
「あなたは死ななかった。世界が私たちを消した。けれど、あなたはやはり生きていて、消えたのは私一人だった。より孤独なのは、あなた? 私?」
「孤独を比べることに意味はないよ。僕たちはどうしようもなく孤独だ。そしてそれは、原理的に比較不可能であるという性質を核に成り立っている」
「わからないよ……あなたの言っていることは、いつもよくわからないよ」
レイは、いや、ハルは泣いていた。この時間の概念が忘れ去られた空間の中でただ、彼女の涙だけが流れていた。
「俺だ。ヤマトだ。ああ、向こうで元気にやっているよ。そもそも俺たちにとって、死とは終わりではない。言ってしまえば状態の変化に過ぎないんだ。だから問題ない。お前ともこうやって会話できてるわけだしな。ああ、向こうは向こうで問題が山積みだ。やはり神は死んだんだ。四百年ほど前に死んだらしい。そこまではわかってる、だがそれからが全くわからない。なぁ、お前は何かしらないか?」
神は僕が殺したのだ。もちろん殺そうとして殺したわけじゃないし、僕にはそんな力はない。偶然、僕が殺してしまったのだ。僕の行為により神が死んでしまった、という方が正確かもしれない。
だから僕は不死になった。そして、それから四百年近く経つ。
世界史の教師は別の学校で教鞭をとることになった。面白いことに、今度は日本史を教えるらしい。個人的には世界史の方が好きだが仕方ない、とぼやいていた。
レイは行方不明のままだ。それはつまりハルも行方不明であるということだ。レイはハルであり、ハルはレイであるのだから当然のことである。彼女がどこにいるのかは誰も知らない。彼女がいたということを知っているのは僕だけだったし、僕は彼女の行方を知らないのだ。
ヤマトは元気にやっているらしい。彼の凍死体はもうすでに火葬されている。
僕はレイの帰りを待っていた。彼女は僕を殺せると言っていた。あの幻想がその試みであったかどうかはわからないが、もしそうであったとしても僕は一度の失敗で彼女を見限るほど幼くはない。いつか彼女が僕を殺してくれることを信じている。
もう少しで秋が終わろうとしていた。紅葉した葉が空を横切った。
僕は再び歩き出した。どうしようもなく彼女に会いたくなったのだ。もしかしたら、まだ図書室にいるのではないだろうか。
ふと空を見上げる。秋の高い空が一瞬だけ輝いた、そんな気がしたのだ。