例えばこんな繰り言の亜種
悪夢は嗤う。
「信仰。信仰、ねぇ。結構。それはそれで人らしい精神活動だとは思うが、それしかない世界の、如何に狭いコトか!」
司祭は問う。
「……お前は、どうしてそうまでして神を怨む? 僕には分からない。お前は教会を破壊していくのに、人は殺さない。どうして」
悪夢は笑う。
「神を怨む? バカを言いなさんな! キミともあろう者が、どうも熱烈に過ぎる勘違いを起こしているらしいねぇ、ルートヴィヒ司祭? アタシは至極単純に、神を……唯一無二にして絶対無比の存在を嫌っているだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
劇的な仕草で悪夢は両腕を拡げた。例え夜闇の中でさえも溶け込み切れない黒は、しかして燃える建物を背後にしている事もあり、とてもその仕草は、司祭の目によく見えた。
「……神を、嫌う?」
「おっと、キミには無い概念だったね。神は嫌いさ。待て、ヤツの名を出すな。気紛れに嫌いなワケでも話してやるから、ヤツの名は出すな。良いな」
嫌そうな口調――しかし、炎のせいかもしれないが、その顔は愉悦に満ちていた――で悪夢は司祭を牽制する。それに呑まれそうになりながらも、司祭はすんでの所で堪える。
悪夢に呑まれてはならない。教会が長年敵視している悪夢に、呑まれては。自らに言い聞かせながらも、しかし司祭は悪夢を見た。
「奴は嫌いさ。では一つ問おう。キミにとって人間は完璧かね?」
「……いいえ」
「では、ヤツの被創造物であるキミら人間は不完全であると」
悪夢が何を言おうとしているのか。何となくそれが分かり、神父は反論をせざるを得なかった。
悪夢に呑まれてはダメだ。
「我々人間が不完全だから、だから神が存在しないと、そう言いたいのか!?」
「正しく。では何故私がそう言いたいのか簡単に説明して差し上げよう」
しかし熱風を受けてなお、平然とした様子の悪夢は、司祭の声など気にせずに語り出す。その声に耳を傾けてはならない。……しかして、悪夢の声は厭でも耳に入る。
「仮に我々人間が完璧に作られていた場合から論じよう」
悪夢の声は、まるで風のような。飄々と掴み所が無く、目には見えないが確かに存在しており、存在を無視しきれない。
「完璧に作られていたのならば、我々人間は神と言う幻想に縋る必要性は全く存在しない。よって、仮にヤツに創造させられた存在だとしても、我々は神と言う存在を知覚する必要性が無い。つまり神という単語さえ存在しない。言葉が無ければ記号が発生しない。記号が無ければ、真の意味で存在しない」
淀み無く、いっそ喜劇的に口上を並べる姿は、決して大きい訳ではない。寧ろ、小さい。子供のような大きさでしかない。それなのに、舞台上の一流役者のように視線を一身にかき集める。
「そして? 我々が不完全存在である現状について言及しようか? 不完全である。大いに結構。私は好きだ。だが、完全な奴がどうして不完全に我々を創り上げた? 完全に我々を創り上げたら、それはクローンで。それでは自分の存在意義が薄れるから? ああ、大方その通りだろう。だが、完全に創り上げた方が、管理がしやすいではないか! 後に救済せずとも済むではないか。どうして悩みや争いを創り上げた? 必要のないモノを生み出して、それすらも救済のためと嘯くのか!? 最初から満ち足りている楽園を創り上げていれば良かったのに!」
「げ、原初の男女が原罪を犯したから……!」
司祭がようやく言葉を出した。
それを悪夢は嘲笑う。
「知恵の実を食べられて、そうして追放するくらいならば、そんなものは最初から用意しておかなければ良かったのだよ」
子供に言い聞かせるような言葉で、悪夢は言う。その理論は何処かに明確な穴がある様に感じられたが……悪夢に魅せられた司祭にはそれを指摘する事は叶わなかった。
「つまりは、ヤツは自分の存在の為に他を苦しめる事に何の感想も抱かない極悪非道の存在なのさ。現に悪魔より使いの方が人間を殺している。苦しんで、何になるよ。苦しいだけではないか。それ以上でも、それ以下でもない。苦しいだけだ。なぁ、ルートヴィヒ。そろそろ認め給えよ。……盲目的に神を信仰し、褒め称えている事に飽き飽きしていた、とさぁ」
悪夢の囁きが司祭の頭の裏で、グワンと反響する。真っ直ぐ立っていられない気がした。悪夢に呑まれてはダメだ。
ここまできて、ここ最近の教会の上位の立場の人間が、次々と神を否定しては破門の憂き目に遭っている、その真の理由に気付いた。
だが、手遅れに近い。
司祭は足元が揺らぐ感覚を間違いなく得ている。……生まれてから、今まで信じていたモノが壊れる感覚は、その味は。
「ルートヴィヒ。認めてしまえよ。神に縋っても、祈っても、何をしても報われない日々に嫌気が差していたと。腐敗しきった教会のシステムに呆れていたと。神は現世利益ではないと知っていながらも、それでも神が居ないと思ってしまいそうな権力闘争を見て、飽き飽きしていたと。……認めてしまえ」
その声の甘さに、弱い人間でしかないルートヴィヒが逆らえる訳がなかった。
「僕、は……」
「――良い子だ、ルートヴィヒ。私の所までおいで。大丈夫だ。私はキミを陥れない。必ず、何者からも守り通してみせよう」
そこで竹内は飛び起きた。
「わぁぁぁあ!」
「キミ、うるせぇぞ」
本に目を落した天宮が、叫びながら飛び起きた竹内を嗜める。
風のように存在を無視できない声……夢の中で見た、変な光景の中でも、しっかりと竹内の耳の中に入ってきたその声。それに安堵さえも覚えながら、竹内は天宮の顔を見た。
「竹内君。一応生物学的には女である私の顔を、そうして不躾に見るのは大分如何なものかと思うがね。罰としてロシアンティー用のジャムを買って来て貰うぞ? おいこら」
「うわ、すいません。その……女神みたいだな、と」
そう、ついうっかり竹内が本音を出してしまえば、天宮は言葉では表しきれない程に不可解そうな顔をして、そうしてバカを見たと言いたそうな表情をした。その表情の変遷は幾度か目にしたことがある。この後、グズグズと細かいことを言われる前兆である。
「寝惚けるのも人間らしいとは思うし、むしろ面白いが、何を言うのだね」
呆れたように天宮は話し始める。
「あのなぁ。私は精々悪夢が良い所で、そんなけったいなモノに成れるかよ……大体私が神だったら、もう少し完全な世界を生み出しているし、キミみたいに涎が出ているのに気付きもしない愛らしい間抜けを創り出せるかよ……」
「ほ、褒めるか貶すかのどっちかにしろよ!? うわ、本当に涎垂らしているし!」
スーツの袖で拭おうとする竹内に黒い無地のハンドタオルを投げて渡す天宮は、更に言った。
「今治だ。……ヤツは自分の存在の為に他を苦しめる事に何の感想も抱かない極悪非道の存在なのさ。なぁ、竹内君。私はそんな奴に見えるのかね?」
どこかで聞いた事のある言い回しに、竹内が違和感を覚えた瞬間だ。天宮は竹内の膝の上に乗り上げ、極々近い至近距離で竹内をからかった。
「知恵の実を食べられて、そうして追放するくらいならば、そんなものは最初から用意しておかなければ良かったのだよ。そんな非効率的な奴と一緒にしてほしくないね」
竹内の眼前でそうニヒルに笑う天宮。子供のような外見をしておきながら、しかしそうしたイタズラが非常に似合う。
一気に緊張が高まる竹内にしな垂れかかり、天宮は続けた。
「なぁ、竹内君。私は私だよ。神なんて……唯一無二、絶対無比のヤツなんか、何処がどう間違っても嫌だよ。私を、見てほしいな?」
「あ、あんたはあんた以外のあんたでもないでしょうに……」
吐息交じりの懇願に、竹内はようやくそれだけを言い返すことができた。
天宮はそれに対して、よく出来ましたと竹内の頭を撫でた。その時点で、天宮が夢の中の台詞を知っていた違和感は、竹内にとってどうでも良くなる。
そんな竹内に聞こえないよう、天宮はコッソリと呟いた。
「――良い子だ、竹内君。私の所までおいで。大丈夫だ。私は平凡だからとキミを陥れない。必ず、何者からも守り通して見せよう」
……悪夢に呑まれてはダメだ。
そう、悪夢に魅せられている竹内は心得ていたし、悪夢に魘される<悪夢>は了解していた。
<悪夢>でしかないのだから、やはり信仰されるのはちょっと違いますよね、と。
次の話はちょっと悩んでいまして、青年と<悪夢>のお話にするか……うぅん、と。
あ、悩みに悩んだ末にしばらく「私小説」の枠内に入れることにしました。私小説、うん。なにか違う。まぁ、選択肢として、ですから仕方なしに