Chapter10-11
トーンの低く、相手に危機感を与えるその声。しかし、それでいてどこか幼さを感じさせる不気味な音域。その声こそまさに、“私”の声。紛れも無く、“私”の声帯から出された、私の声だった。
“私”の声はさっきも聞いた。
だが、砂浜でタケくんに危害を加えてしまった際の声は、もっと低く、くぐもった声だった。
それから今までは、まだいくらも経っていない。その間に、これほども声が変わってしまっている。一体自分に何が起きているのか。その原因の欠片すら分からない。
不気味なまでに綺麗な声を放った私は、今までの足取りからは考えられないような軽快なステップを踏んで歩いていく。
その姿はまるでお花畑を駆ける少女だ。クリスタルの神秘的な光が、本当に今、花畑にいるような錯覚を生み出していく。
(しっかり! しっかり気を持たなきゃ!)
私は今、完全に我を忘れていた。それも、自ら忘れていたのではなく、誰かによって忘れさせられていた。
魂の片隅を見つけ出され、その端を摘ままれて引っ張られているようだった。
『あはははははっ! 見つけた! やっと見つけた! 探したんだからぁ!』
「やめて! もうやめて!」
幼い声が歓喜の声を喚き上げる。私はそれを頭に通させないようにするのに必死だった。
両手でふさげればどれだけこの声が半減するのだろうか。
だが、自身がどれだけ聞きたくないと願っても、どんな時でも耳は自立し、嫌でも頭の中に無理やり入ってきた音をねじ込んでくる。今この瞬間ほど自分の耳を恨んだことは無く、これほどまで引き千切りたいと思ったのも、初めてだった。
いつの間にか、“私”は動く足を止めていた。
距離にして、布まで動いた距離はほんの数メートル。だが、私にはその距離は何キロと歩いたような感覚だった。溜まった疲れが汗となって全身の毛孔から吹き出ている。
もう、涙も出そうにない。体から水分が奪われてしまった。口から食道にかけて茶色い砂漠が広がり、肺はものすごい日照りで干からびた池の底のように縦横無尽に亀裂が入ってひび割れ、ざらざらになっている。
もう、動けなかった。
視界が曇る。半端なく度数の合わない老眼鏡を無理矢理掛けさせられているようだ。
両目に映るのは、かすんだ先に見える黒い靄。おそらく、あの布なのだろう。
「こ、ここまで来たのに、見れない、なんて、ね……」
目を細めても広げても、視界が変わることは無かった。眼球の疲労度が限界に達している。世界がモノクロに変わり、視野にひびが入る。これが私の見る最後の景色。死に際の景色なのかもしれない。
(こんな色気のない、景色、が……最後、なんてね……。 本当に、つま、らないよ)
瞼が重い。上まつ毛に重りを結び付けられたかのようだ。太刀打ちできる重さではない。
「――“私”は一体、何を、見つけたの……?」
強制的に閉じ往く世界。
私は最後に見たぼやけた景色を頭に焼き付けながら、“私”にそう問いかけた。帰ってくるはずもない答えを、私ではない、“私”に投げつけた。
『知りたいなら、いつだって教えてあげるよ。私はあなたなんだから。あなたは私なんだから』
「な――」
返ってくることのなかった会話。繋がらなかった私と私。しかし、私は確かに返答した。
モノクロの世界の白い部分が光を放ち、視界を真ん中から彩色していく。鮮やかに、元気よく、私の瞳の上で筆が踊っていく。
(動く! 手が、足が!)
がちがちに固められた関節の固定具が外れていくのが分かる。私の脳からの指令が届く。手の先から、足のつま先まで、自由に動かせる。
脳が司令塔としての機能を取り戻した。全身に新鮮な血を行きわたらせ、全ての器官を掌握する。
何処にも異常はない。魔芯も光り、輝きを放つ。足元には魔法陣が展開し、まるで私の回復を祝っているようだ。
「――戻った。私の、体……」
手が動く。足が動く。首が動く。光を肌で感じ、空気を髪で感じる。手には杖を握る感覚も戻っている。
私にやっと、魂が返ってきた。これさえ戻れば、もう、本当に大丈夫だった。
私は自らの足裏に自力で立っている感覚を感じ取る。地面がやさしく私の体を支えてくれていた。その感覚をしっかりと吟味した後、私はゆっくりと目を開き、鮮やかな世界へ飛び出した。
「お久しぶりですね」
私は自由になった口を使い、目の前の人物へと話しかけた。
「……」
反応は無い。
「お久しぶりですね――」
「天凪校長先生」
『天凪校長先生』
黒い布の正体――。それは天凪校長先生の私服の、黒いマント。先生は床に倒れ込んでいた。
「先生、早く立ち上がって下さい。でないと私――」
「あなたを背中から引き裂きますよ?」
『あなたを背中から引き裂きますよ?』
私は、倒れ込む先生に向かって杖を突きだした。杖先の刃がクリスタルの光を吸い取るように反射し、先生に向かって光の筋を伸ばす。
私は帰ってきた。私はやっと私を取り戻した。相手が願わぬ限り、拳中に収めることの出来ない物を取り返した。
私は、魂を取り返した。黒い光を放つ、魔芯と共に。




