Chapter10-9
眼前の時計塔。それは学園のシンボルであり、この学園の校長先生、天凪校長先生の校長室を兼ねている建物だ。
予想は的中だった。程なくして“私”は時計塔の下の扉に到達し、木製の扉を開いていた。上へ上へと続く螺旋階段。私も何度かこの上の校長室に行ったことがあった。
(ここまで近づいたらきっと先生は気付いている。このまま進んでいけば……)
まだ“私”は階段の一番下にいるが、すでにここは校長室の一角。校長先生が侵入に気付いていない筈がない。きっと大丈夫。どれだけ私の力がいつもより強くても、あの先生を越えることは無い。絶対に。
半ば無理やりな気もしたが、そう考えるのが、今の私を一番落ち着かせた。強引ながらも冷静になった私は、“私”が扉を開き、螺旋階段の前まで辿り着いている事に気が付いた。
“私”は階段の上を見上げ、一歩、階段に足を進ませていく。このまま何もなく上がってほしい。そうすれば、校長先生と鉢合わせるかもしれない。一騎打ちでは絶対に校長先生の方が強く、知恵だって深い。私は内心、階段を上る足をせかしていた。
しかし、足を一歩踏み出していた“私”は、それで足を止めてしまい、また何かを探すかのように全神経を視覚と聴覚に回していた。
段差を一つ上げた片足を段に貼りつかせ、一瞬考えたかと思うと、体をくるりと捻り、一段上げただけの片足を踊り場まで戻した。
そのまま塔の入り口の扉に手を掛け、木製の扉を開けた。ドアの向こうから静まり返った広場が見える。
(“私”の探しているのは校長先生では、ない?)
今にも塔を出て他の場所へ行こうとしている。
“私”は外へと足を一歩踏み出した。もう一度“私”は塔を出て日光の下へと戻ろうとした。
しかし、足を一歩日光の下に出した途端、その動きを止めた。何かを嗅ぎつけたかのような感覚。全身神経を尖らせて、“私”はもう一度背後へと向き直った。
視界に戻ってくる塔への入り口。“私”は未だ迷っているような、それでも確信を持っているような感じで足をもう一度塔内へと進めていく。
(一体何を探しているんだろう? ここまでくるとさっぱり……)
一度塔を出たかと思うと、今またこうやって塔へ戻っている。探しているのは人なのか物なのか。それとも目に見えない何かなのか。“私”の思考は全く読めない。
その時だった。塔の一階の踊り場で止まっていた“私”は、音もなく静かに、手に握っている変わり果てた姿の杖を持ち上げた。
やや薄暗いこの塔の中でさえ、杖先の刃は自らを誇示するように反射して見せる。
「まさか、飛ぶ気?」
上へ上へと続く、校長室に訪れるためには決して通らなければならないこの螺旋階段。この階段を昇るのは非常に苦行だ。
しかし、“私”なら足で昇るような真似はしない。足を使わず、疲れず昇っていける。雪山からここまでずっと飛翔してきたことを考えれば、この階段などいとも簡単で、児戯に等しい。
そう確信した私は、もうこの数秒後に訪れるであろう、急激な重力に備えて心の準備をした。
何の前触れも無くいきなり飛ばれるのが一番苦しい。また失神してしまうかもしれない。
いつでも来いと言わんばかりに、動かない四肢や奥歯に力を込める私。私の心構えと準備は万端だったが、その覚悟に反し、“私”は飛ばなかった。
いつまで待っても襲ってこない急激な引力の変化。状況を確認すると、恐る恐る力んでいた足から力を抜いていく。
(飛ぶわけじゃ、ない?)
見ると“私”は、飛翔ではない、何かを行使していた。
目線の先では体の前に杖を突き立て、何やら呪文を唱えている。
聞き慣れない声色が、聞いたことのない言葉の羅列を、私の口からすらすらと生み出していく。何かの魔法を行使しているとしか分からない。何の対象に魔術を使用しているかすら分からない。私は、私自身の魔法を凝視する他、何も出来なかった。
次第に放つ光を強めていく杖のクリスタル。魔法の力が強くなっている証拠。その力の強さは私にも伝わってきた。
額に汗を流させるほどの凄まじい力量。私の出せる魔力量を軽く超えるその力。私の力ではないのに、何故だか私がその力を操っているかのような奇妙な感覚。溢れ出る魔力の渦が私の神経を錯覚させているのかもしれない。
“私”が魔術を使用してどのくらい経ったか分からない頃、突如として異変は現れた。
何の変化もなかった階段の踊り場。その踊り場に面する白い壁。階段とは逆方向、扉から見て左側の白い壁。その何もない壁から、金色に輝く魔法陣が浮かび上がってきていた。
壁の中から姿を現す魔法陣。いつの間にか誰が見ても分かるほどくっきりと浮かび上がっていた。
(この巧妙に隠された魔法陣は一体?)
“私”は杖から力を抜く。それと同時に私が感じていた強い力も引いていく。
“私”は杖を握っていない左手を前へと伸ばし、壁から現れた魔法陣へと触れた。
バチィン!
「っ!? 痛っ!」
突如、私の手に痛みが走った。痺れる様な、焼きつくような痛み。
私が触れている訳ではないのに、私の左手は震え、ビリビリと麻痺に似た痙攣が襲った。
(今のは、雷撃魔法……?)
未だ痙攣する左手には、焼きついたかのように痛みの記憶が残っている。
皮膚を貫き、骨まで震えさせるようなこの痛みは、間違いなく雷撃系魔法のもの。かなり強力だ。攻撃を受けた私の左手の指は、不規則な律動を繰り返し、ピクピクと痙攣を起こしている。
視界に僅か、どこからか昇る煙が見える。私はその煙が“私”の左手から上がっているものだと、見ずとも分かっていた。
見たくはなかったが、“私”の左手の皮膚は焼け、あちこちが爛れている。
爪は茶色く焦げ、甲と手のひらには無数の傷が出来ていた。魔法陣の雷撃魔法が“私”の手を焼き焦がしていた。
しかし“私”は手の傷など気にしない。軽く左手を眺めただけで終わり。もう一度杖を構えた。今度は片手で無く、鎌を持つように両手で構えを取る。
(くっ!)
杖を握った私の左手が悲鳴を上げた。
手のひらに出来た傷に杖の柄が押し当てられ、傷をえぐる痛烈な痛みが私を襲う。指や甲に出来た傷からも血が流れ出ていた。
“私”は手の痛みなど感じない。いや、感じているのかもしれないが、それは他愛のない事なのかもしれない。
両手でしっかりと杖を構えると、上へと振り上げた。またしても塔の中の少ない光で刃が煌めく。
振り上げられた私の杖は、重さのみで私の体の左下へと振り下ろされた。
刃が空を切る感覚。何を切り裂いた覚も無いのに、目の前の金色に輝く魔法陣は私の杖の動きと同じ角度で真っ二つの切れ目が入り、じりじりと漏電しているような音を立てながら、灰が散る様に消滅した。薄い紙を燃した時のような消滅だ。
魔法陣が壁から消え去ると同時に、術が施されていた壁がぼやけていく。視界がぼやけているのではなく、壁自体の存在がぐにゃりと湾曲し、形を変えた。
粘土を弄ったかのように白い壁は変幻自在に形を変え、壁の先に更に続く、魔法で隠されていた隠し道を出現させた。
白い壁に突如として現れた隠された道。
魔法によって巧妙に隠されていたその道は、この階よりも下に続く階段をも作り出した。




