Chapter10-5
どれほどの時間が経ったのか分からない。それは何時間とも感じられるし、ほんの数秒とも感じられる。
体温が元に戻っている。息苦しさも感じない。依然として体は一切動かせないままだが、雪山はすでに越えていると感じ、ゆっくりと目を開いた。
次第に開いていく目、もしかしたら、この目だけは自分で動かせるのかもしれない。
(つっ、まぶしい――)
僅かに開いた瞼の隙間から、眼球に光が届き、突き刺さる。
それは、雪山の時とはまた違った光のように思えた。
「ここは―― 海の、上……?」
光に耐え目を開くとそこは――大海原のど真ん中。
身も凍るような雪山からがらりと変わり、日光が燦々と降り注ぐ青の世界。
暑くも寒くもなく、潮風が流れるように吹き、頭上の太陽が海面に反射して眩しく光る。目に突き刺さったのは海面に反射した日光だった。
「でも、ここはどこ? 一体どこに向かっているの?」
自身の体は動かせないが、着実に“私”はどこかへと進んでいる。
この海の向こうに何があるのか。誰がいるのか。何処に着くのか。大きな三点の疑問は解けそうにない。
時折耳元を駆け抜ける、ごおっと風を切り裂く音。
この海上を飛び始めてどれくらいの時間が経ったのか、どれほどの距離を移動したのか分からないが、かなりの速度でかなりの距離を飛んでいるのは間違いない。
普段の自分にはない、驚異的な浮遊能力。“私”は顔色一つ変えず、速度を全く落とさずに高速浮遊し続けている。
「! 陸だ!」
私の目に、遥か遠くの陸地が映った。だが、まだかなりの距離があり、ぼんやりとして何処なのかはわからない。しかし、着実に陸地との距離は狭まっている。
「あれは、街……?」
遥か遠くに見えている陸地。その陸地に街が存在していると判断できるようになったのは、陸地を見つけてからほんの数分後のことだった。
砂浜に面するように街並みが広がっている。街の向こうには林が広がり、海に面している街と分かった。
次第に建物も見えてくる。あの街は私が知っている場所なのだろうか。それとも全く知らない場所なのだろうか。見当すらつかない。
凄い速度で私は飛んでいる。あっという間に過ぎ去っていく景色を追うので目は疲れ、乾いているような感覚に襲われる。遠くに見える街も、ぼやけて見える。小刻みに揺れていると言った方が正しいのかもしれない。
「……え? 揺れてる?」
景色がゆがむほどの眼精疲労。
しかし、景色が揺れているのは目が疲れているからではなかった。
「地震だ!」
間違いない。私の目が疲れているんじゃない。距離を縮めつつあった眼前の街。その街は今この瞬間、地震が到来している!
まだかなり距離があるのにもかかわらず、この距離からはっきりと確認できる確かな揺れ。大きな建物は激しく揺さぶられながら、必死に崩壊に歯止めを掛けようとしている。
所々では煙も立ち始めた。地震による被害は小さい物ではなかった。
(一体あの街に何が――)
思考回路を稼働させ、何が起きているのか頭の中で整頓しようとしたその時だった。思い切り誰かにお腹を強く押されたような、重く響く重圧が腹部に轟いた。
息が止まりそうになる。
「……な、何、この、感……覚……」
声が出ない。体がねじれているみたい。
息が出来ない。激しい圧力で肺が押しつぶされているみたい。
私は奪われそうになる意識を何とか取り戻し、何が起きているのか自らの目で確認した。
見るとそれは、“私”が、さらに移動速度を上げていたのだ。
信じられないような速度だった。
私の下の海面は抉られたかのように波紋が広がり、水しぶきが鉄砲水のように私の背後に吹き上がる。目の前ではねた水は、弾丸のような速度の私にぶつかり、頬にばちんと音を立ててぶつかった。
「私は動けないのに、どうしてそっちの痛みはこっちに……!」
寒さも感じた。息苦しさも感じた。速さも感じていた。それなら痛みも当然感じた。
目の前ではねた何百ともなる小さな水が、打ち出された鉛玉のようになって私に撃ちつけられる。体は服で覆われているが、顔は無防備だ。冷え切った肌を紐で叩いた時のような痛みが幾度となく走る。当たり所や水の大きさなどが悪いと、顔の肌をえぐり、血を滲ませた。
強い重力が容赦なく襲いくる。水滴は弾丸となって撃ち出される。
でも、顔を逸らすことは出来ない。
私が今どこに向かっているのか。あの街で何が起こっているのか、この目でしっかりと確認しなければ。自分が今極限状況にあると分かっている。でも、その光景だけは見ないといけないと本能が告げていた。
(もう少し……、もう少しであの街の全貌が……!)
距離が近づく。まだ離れているが、街を確認するにはそろそろ十分な距離まで迫る。私は街を見つめる目に集中した。
「見えるのは、街と、林と……、塔?」
目に入る視覚情報。最初に目に飛び込んできたのは三つ。
海沿いの街、その街を囲むように広がる林、そして林の中に聳える塔。
離れていたためはっきりしていなかった街の全様も明らかになってきた。街からあがる煙も鮮明に見えてくる。
私の嗅覚が、かすかに煙の臭いを感じ取った。
距離が縮まっている。私はそう感じ、より一層集中した。
(ま、まさか、あの街って……!)
その集中した私の目に、煉瓦で出来た塔と、白い街並みが飛び込んできたのは、ほんの数秒後のことだった。
動けない体にひどく悪寒が走る。全身の毛が反るように立ち上がり、全身を震えさせる。
間違いない。私をここまで怖がらせ、悲しませるこの光景。目の前の街は――。
「――セピス!」




