Chapter10-2
街は何時間も前に夕闇に消え、ベランダからの景色は殆どなく、辺り一面黒に近い景色が広がっている。
見下ろす先の街も殆どの明かりが消え、街は静かに眠りについている。
微かに聞こえる波の音とともに、僅かな潮の香りがベランダにまで届いた。
「おはよう……じゃないか。こんばんは」
ベランダの欄干から覗き込むようにして街を見下ろす私に、誰かが声を掛けた。その声に、全身が一度ぶるっと震えたのが分かった。
「せ、先生……!」
夜の月明かりに照らされる三角帽子のシルエット。自らが光り輝く杖。私のすぐ隣にはもっとも尊敬し、目標にしたい人、天凪校長先生が立っていた。
「こ、校長先生! 私……私……!」
「さてと、立ち話もなんだし、とりあえず座ろうよ」
何から話していいのか分からない。頭が困惑する。焦る心に回らない舌。半分パニック状態の私に、校長先生どこからともなくは二脚の椅子を差し出してくれた。
にっこりと笑って椅子を差し出すその校長先生の姿は、なんだか私の気持ちを楽にしてくれた。
「あ、ありがとうございます……」
差し出された椅子を受け取り、腰掛ける。校長先生は私の隣に椅子を置き、夜の景色を眺めている。
立っていた時は気付かなかったが、とても綺麗な月が出ていた。
光り輝く月は、なんだか心を洗ってくれている様な気さえする。
「校長先生。私はどうやってここへ? 記憶がかなり前から途切れているんです」
率直なことを言い、聞こう。自分の持っていることを全て話し、自分の知らないことを全て教えてもらおう。
「ゆい、あなたは事実を受け入れる覚悟がある?」
「えっ?」
私はここに来るまでの記憶が無い。思い出したくないが、誘拐され、塔に連れていかれたあたりからの記憶が無い。
ある程度の覚悟はしていたつもりだけれど、真剣な表情で校長先生に言われてしまうと恐怖が押し寄せてくる。失った記憶を取り戻すことがこんなに怖いこととは知らなかった。
「……」
校長先生は私の顔を見ているわけでもなく、さっきと同じように月を眺めながら私の返答を待っている。
本当は答えなど決まっていた。
「はい」と、ただ一言言うだけだった。でも、私はその二文字を言う勇気が出せない。
たった二文字、その二文字を口から出すのに、思っているよりも何十倍、何百倍の勇気が必要だった。
(私も、勇気が欲しい。どんな時にでも立ち向かえる、織葉ちゃんのような勇気……)
脳裏をよぎる鮮明な過去の記憶。
限りなく近い過去の記憶。河川敷で私を全力で守ってくれた織葉ちゃん。
激しい動きと共に揺れ動く長い髪。自らを捨て、私のために刀を振るう姿――
織葉ちゃんは全力だった。私を守るために。傷を負っても、血を流してまでも勇気を出し、守ってくれた。
でも、私は何もできなかった。織葉ちゃんを守れなかった。ずっと織葉ちゃんの後ろに立っていただけ。腰を抜かして怯えていただけ。本当に何もできなかった。
血を流して倒れた織葉ちゃんを見ても、何もできなかった。何もしなかった。ただただ慌てふためいていた。
(私はもう、織葉ちゃんの悲しむ姿を見たくない。傷ついて倒れる姿を見たくない。そのための勇気を……!)
「校長先生。私、受け止めます。ここに来るまでの真実を、全て」
これが今の私が出せる全力の勇気。全てを受け止めて、織葉ちゃんにもう一度会いたい。会って、謝りたい。織葉ちゃんはきっと頭を上げてって言うだろうけど、私は織葉ちゃんに謝りたい。
全力の勇気で。
「あなたの勇気、受け止めました。真実は――これから聞きなさい」
「私の杖……ですか?」
校長先生は何処からともなく私の杖、リューリカ・シオンを取り出し、渡してくれた。馴染みのある杖が何を知っているのだろう?
「それじゃあ私は先に寝るわ。ゆいも出来るだけ早く休むようにね」
校長先生は私に杖を渡すと、椅子から立ち上がって部屋の中へと消えていった。私はしばらく校長先生の姿を目で追ってしまっていた。
「シオンが、覚えてくれているんだね……」
魔導師と杖は一心同体。私の失った記憶をシオンが覚えていてくれている。
もう引き下がらない。どんな過去があったとしても、踏みとどまらず進んでいく。織葉ちゃんのためにも、自分のためにも。
「シオン、私に何があったのか教えて……」
杖をしっかりと握り、杖と波長を合わせる。自分の神経を自らの魔芯に集中させ、手を伝い、杖へと流し込ませた。
私という意識、霧島ゆいという意識が杖の柄の部分を上へ昇り、頂点のクリスタルへ向かっていく。
何が来ても恐れない。
そのために振り絞った勇気。私は神経を集中させて、一気にクリスタルの中へと飛び込んだ。




