Chapter6-5
杖の引き抜かれると同時に、ゆいが悲痛な声を漏らした。
先ほどまでは内側から得体の知れないものが貫くような痛みだったが、今度はその逆。今まで自分の体の中にあったものが無理やり引き剥がされる痛みが走った。本当に内臓が体から抜かれていく。そんな痛みと感覚。
それを見た雹は非常に喜び、笑う。ズルズルとゆいの体から杖を引き抜き、それに合わせたように叫び狂うゆいの姿が溜まらなく興奮させた。
ゆいのペンダントに突き刺された杖が、もう少しで全て抜けてしまうところまで雹は引き抜いていた。
雹は一度引き抜く手を休め、目の前で涙を流し、苦しむゆいに視線をやる。ゆいはもう叫ぶ力すら残っておらず、体を大きく痙攣させながらぐったりと垂れていた。両腕には縛られた鎖が食い込み、一筋の血が流れ出ている。
雹はゆいが完全に衰弱しきっているのを確認すると、突き刺さった杖を勢い良く、ゆいのペンダントから引き抜いた。
ズポッ
ゆいの体に刺さっていたわけではないのに、杖を引き抜いた瞬間、耳障りな音が鳴った。
杖が引き抜かれた瞬間、体内で落雷が起きたかのような激痛が走り、ゆいの体を大きく揺らした。もはや、声も出ない。
ゆいは小刻みに肩を震わし、両目から涙を流した。
頭痛や胸の痛みはまだ残っているが、体からは痛みの発生がようやく消え、ゆいはやっと痛みから解放されたと涙を流した。
(でももう、持たないよ……私の体、壊れちゃうよ……)
ゆいは未だ激しく痛む重い頭を上げ、目の前で笑みを零しながらこちらを見ているであろう雹へ視線を移した。もう睨む力すらなく、必死の思いで視線を向ける。
視線を移した先、そこにはやはり気味悪く楽しそうに笑う雹とレイザルが立っていた。
ゆいは死ぬまでこの人たちの言動、行動、そして性格の汚さを忘れないと、痛む胸に強く誓った。
許すものか、こんな奴ら。
ゆいの中で今までに無いほどの怒りが膨れ上がった。自分では押さえ切れそうに無い、怒り。憤怒。
自分でも分からないくらいの怒りだ。今までにこんな感情を持ったことは無い。自分の中から怒りと言うものがマグマのように溢れ出てきている。
抑えられない。抑えようとしない。
ゆいは何とかして落ち着こうとした。痛みには委ねる決心をした。が、怒りには委ねてはいけない。こちらだけには委ねてはいけない。ゆいは必死に平常を取り戻そうとした。だが――
――おかしい。
明らかな違和感を覚えた。いや、違和感などと言う甘いものではない。突き刺すような痛みが頭の中を駆け巡る。
ゆいは今、明らかに自分の意思を持っている。痛い、という痛覚もあれば、「怒りを抑えなければ」と思う感情も存在している。つまり、「霧島ゆい」と言う自己は存在しているはずなのに、自分で自分を制御しようと思うと、酷い頭痛が駆け巡る。自分の頭に雷が吸い寄せられているかのような、激烈な痛みと衝撃が脳を痛め、揺らしてくる。
ゆいは自分の脳内、体内で何が起きているのかさっぱり理解できずにいた。自分の体なのに全く反応しない。何も教えてくれない。
自分の中で何が起きているのか判断するのに、たっぷり数秒の時間を要した。辿りついた答えは最悪。認めたくないが体がそうさせてはくれない。
ゆいは、自分で自分の感情が制御できなくなっていた。
自身の全ての考え、感情、感覚。全て怒りに結びつき、あらゆるものが憎らしく見える。
――――こんな汚い世界滅んでしまえ。
脳裏に全てを解決させる手段が思いつく。自分の怒りを押さえ込むにはこれしかない。私欲のために皆滅んでしまえ。こんな世界なんて消えてしまえ。
『いいか、ゆい。どんなことがあっても怒りに身を委ねちゃダメだ。どんなに力が欲しくても。どんなに酷いことされても。分かったか? 約束だよ?』
一瞬、ゆいの脳裏にある日の会話が駆け抜ける速さで流れた。
憤怒の怖さ。それはとある人がゆいに教えてくれた。何があっても怒りに身を任せてはいけないと、
怒りは経験。敗北し、負けた自分に対して怒る。こういった怒りは自分のためになる怒りだと教えてくれた。自分を成長させるための怒りだと教えてくれた。
しかし、怒りから学ぶのと、怒りに任すのでは意味が全く変わってしまう。
その人は教えてくれた。怒りを武器にしては絶対にいけないと。怒りだけには心を許すなと。
二人で交わした、固い固い、親友同士の約束。
「……織葉ちゃん、うるさいよ」
その固い約束は、もう存在しなかった。
「織葉ちゃんが強ければ、私、こんな目に合わされなかったんだよ。全部織葉ちゃんの――織葉ちゃんのせいじゃない」
いつしかゆいの口は、そう口走っていた。
織葉に対する怒りを。親友に対する怒りを。怒りの矛先が間違っていると微塵も感じずに。自分の弱さは棚に上げ、織葉だけを責めた。
「守るって約束したもんね? 織葉ちゃん?」
「あれ? 織葉ちゃんは逃げたの? そう、逃げたんだ。怖くなって死んだふりをしていたんだ」
ゆいは何故か笑っていた。嘲笑っていた。自分の親友を。ゆいは織葉の最期を確かにこの目で見ていた筈だ。自分の打てる手を全て使って戦ってくれる織葉を。
脳裏に、そんな綺麗な織葉はもう存在しなかった。
――『まぁ、今度からは気をつけろよ』
黒い手に掴まれていくように、悪に染まりつつあった心。その心の闇の霧を断ち切るように、ある人の言葉が駆け抜けた。
誰だったのかは、思い出せない。
その一言でゆいの心から闇が一瞬で消え去り、我に返った。
(はあっ! わたしはっ⁉ 私……一体何を考えているの……?)
はっと我に返ったゆいは、頭を振り、脳内をリセットしようとする。
自分の中に明らかな闇が生まれたことは明確だった。その闇の怒りの矛先が自分の親友に向いていたことも理解していた。そんな奴に私の体は渡さない。大切な人は傷つけさせない。
――どくっ。
固い決意をし直そうとし、その直後。ゆいの心臓が一度、大きく鼓動した。外にも響き渡っているのではないかと思うくらいの大きな鼓動。心臓が胸を突き破って飛び出したのかとも思った。
いきなりの鼓動に驚き、呼吸を乱すゆいはその時、自分の目に異変を感じた。
(なに……? 目が……熱い⁉)
眼球を脳内から強く照らされているかのような、かっとした熱が両目に溜まる。人体で構成できない高熱であるには違いない。まるで目を内側から炙られている様だ。
目を閉じても決してその熱さが逃げることはない。だが、目を閉じずにはいられなかった。
ゆいの目から一筋の液体が流れる。ゆいは頬を伝って床に落ちるそれを見た。
(そっか、涙な訳……無いよね……)
ゆいの蒼く、綺麗な目から流れ出ていたのは涙ではなく、血だった。それも鮮血ではなく、錆びた鉄を吸った水のような、どす黒く汚れた赤黒い血液。この黒さは間違いなく闇の魔力の影響だ。
「この目はもう、私のものじゃないんだ」




