Chapter4-9
――ずぶっ。
時が止まったような気がした。
鋭利な刃が皮膚や肉を裂く不快な音が響き、男の顔面から、胸の辺りまでを血まみれにした。
真っ赤に染まる男、そして織葉。辺り一面、鉄分の臭いが瞬時に充満する。
しかし、男は何の造作も無く動いた。男は斬り裂かれてなど無かった。
男は返り血を浴びたにすぎなかった。
「な、んで……?」
織葉は蒼白な表情で自分の胸部を見た。何かが体を突き破っている、いや、貫通している。それを伝って血が吹き出ている。
織葉の目の先、胸部には、背後から何者が放った矢が貫通して突き刺さっていた。
胸の中心部からは、深紅の血が鼓動に合わせ、緩急をつけながら噴き出している。右腕の怪我と比べ物にならない出血量。その血が、男を血まみれにしていた。
「お、織葉ちゃん! 織葉ちゃん!」
ゆいも事態に気づき、杖を放り出して織葉に駆け寄ろうとしたが、未だに足はふらつき、思うように走れない。加えて、先の戦闘で河原の地形ががたがたに変化し、足元がおぼつかない。それでも、ゆいは何としてでも織葉に駆け寄らないと行けない思い、必死で立ち上がろうとした。
その時、ゆいは視界の右端から凄い速度で何かが飛んできていることに気がついた。それは、二本目の矢だった。
迫る矢は空気の抵抗を受けず、音も無くまっすぐ一直線に飛び抜けていく。その矢は、ゆいへ全く興味を待たず、通り過ぎた。
矢の狙いは明らかに織葉だった。
しかし、織葉は未だに状況が理解できていないのと、迫りくる死の恐怖で体が固まっており、到底接近する矢の存在に気がつかない。
「織葉ちゃん! 後ろ!」
ゆいは織葉に矢の接近を大声で知らせる。このままでは織葉が危ない。ゆいは利き手を見たが、そこに愛杖の姿は無い。投げだしてしまっていた。杖があれば、魔法で矢を止めることなど容易いことだった。
ゆいの大声ではっと我に返る織葉。すぐに意味を理解し、そのまま右腕を後ろに振り返した。
今はまだ貫かれた痛みは麻痺し、辛うじて動くことが出来る。今の状態でも矢の一本や二本なら切り払えると思った。
しかし――
大量に出血し、満身創痍の織葉の距離感は、正確な距離を見誤った。
切り払いは間に合わず、矢は右腕に直撃した。矢は腕を貫いて反対側の皮膚から飛び出ると、更に血を吹き出させた。
ぷつん。と、腕の中で何かが切れた。織葉の利き腕は、刺さった矢の矢じりでぐちゃぐちゃに壊され、手の力を緩ませてしまう。
誰かに引っ張られていくかのように、外側へ開く五本の指。切り払った勢いのまま太刀は手を離れ、織葉から離れた場所の地面に突き刺さった。
「ちくしょおおおおお!」
織葉は叫び、左手で腕に突き刺さった矢を引き抜いた。
右腕に耐えがたい激痛が走り、織葉の腕から矢がずぶりと肉に引っかかりながら抜ける。
地面に生える草を引き抜き、最後に広がった根がずぶずぶと引き抜かれるように、引き抜かれる矢に纏わりつく様にして、鮮血が飛び散った。
「うっ……?」
その時、織葉は宙に体が舞うような感覚に苛まれた。
(血が、足りな――)
瞬時に増した出血による貧血――いや、そんな可愛い言葉で済まされるものでは無い。
(これ、あたし――)
やばいやつ、かも――
織葉は立っておられず、がっくんと膝を折って地面に倒れ込んだ。
「うあっ! うああああああああっ!」
そして、ここまで持ってくれていた織葉の麻痺が、ここで切れた。
織葉は胸部に火傷に似た激痛を感じ、その場でうめいた。満足に動かせない手で、爪を食い込ませるように胸を掴んだ。
「ぁああぁぁっ……! や、あた、あたし……!!」
織葉は号泣しながらも、必死に痛みを逃そうとした。だがそれは、一少女が耐えられる苦痛では無い。
全身が大きく痙攣し、体からは異常なまでに汗が吹き出る。肩を大きく揺らして呼吸するが、いくら吸っても肺に、体に酸素が行き届かない。
「織葉ちゃん! 織葉ちゃん!」
「待て、霧島ゆい」
なんとしてでも織葉の傍まで辿り着きたいと、その一心で動いていたゆいに、鋭利な一言が突き刺さった。
必死なゆいを制止させたその言葉は、先ほどまで倒れていたローブ男から発せられたものだった。気づけば男は倒れこむ織葉の後ろに立っており、織葉の体を足で踏みつけている。
「それ以上近づくとこいつの命は無い物と思え。助けたければ私と共に来い」
いつしか、織葉が最初に圧倒した、剣使いの男も復活している。
そして、音も無く織葉を貫く矢を放った、もう一人の人物。同じローブと、口元だけが見える覆面を身に着けた弓使いの男が、ゆいの後ろから歩み寄って来ていた。
ゆいは体が震えた。織葉の命を奪おうとした人たち。それも三人も。危険人物であるのは先の戦闘で明らか。そんな人たちに着いて行くことなど、考えただけで足がすくんだ。
恐怖で腹部の内臓が捻じれるように痛む。
だが、目の前の親友を、命を賭けて守ってくれた親友を、自分の勝手で死なすことだけは出来ない。織
葉の力尽きた瞳を見て、ゆいは決意した。
「ぅ……ぐ……」
そのゆいの瞳に、織葉の瞳がぶつかった。
痛みと苦しみに必死で耐えるその表情が、何かを伝えようとしている。
「織葉ちゃん! 喋らないで!」
ゆいは必死に織葉の口の動きを止めようとした。織葉の口内出血はさらに広がっており、ほんの少し口を開いただけでも、ごぼっと溢れ出るように流血した。
「ぐっ……ダメだ……。ゆい、逃げろ……!」
織葉は吐血しながら必死に言葉を紡ぎ出し、途切れ途切れの単語をゆいに伝えた。
織葉は最後の力でゆいに「逃げて」と頼んだ。
「五月蠅いな。少し黙れ」
織葉のその言葉が気に入らなかったのか、ローブの男は横たわる織葉の横腹を一度蹴り込み、織葉の背中に未だ突き刺さっていた一本の矢を、勢いよく引き抜いた。
「ぐぇはっ⁉ ああっ、――ぁぁああああぁぐっっっ!」
織葉は何の前触れも無く、背中から突き刺さった矢を抜かれ、その突然の痛みに叫び声を上げた。
全身を電気が駆け抜けるような激痛が襲い、酷い痙攣を引き起こした。神経までも、痛みで侵食されおかしくなってしまっている。
引き抜かれたことにより更に出血が早まる。織葉の下はみるみる内に血の池に変貌し、まだ少し白色が残っていた制服を完全に赤に染め上げた。
「やめてっ! もうやめて! 行きます! 行きますから!! 織葉ちゃんに手を出さないで!!」
ゆいは痛めつけられる親友の姿に耐え切れなくなり、声を荒げた。
こんな何も出来ない自分のために痛めつけられていることが耐えられない。そして何より、目の前で起こっていることに対して何も出来ない自分が情けなくて許せなかった。
「ゆ……い……」
織葉にもゆいの声がしっかりと伝わっていた。
(――ばか、逃げろよ……)
朦朧とする意識の中、織葉はゆいを守れなかった自分を責めた。
必ず守りきると決めた自分が不甲斐ない。何とか体を動かそうとしたが、一向に動こうとしない。その気配すら感じ取れなかった。まるで、自分が糸が切れた操り人形になってしまったかのようだ。
「ようやくその気になってくれましたか」
男はあからさまに腕を広げ、ゆいをこちらに歩かせようとする。ゆいもその行動が自分の挑発するものだと理解していたが、今は怒っている場合ではない。一刻も早く織葉からこの人たちを離れさせなければと、その一心だった。
「でもその代わりに、織葉ちゃんにはこれ以上酷いことをしないって約束してください。でないと、私は行きません!」
ゆいもただ男たちについていくつもりは無い。せめて、織葉にだけでもこれ以上被害が及ばないようにしたかった。ゆいは歩く足を止め、男の返答を待った。
「いいだろう。約束しよう」
男はゆいの条件を飲み、織葉から数歩後ろへ下がった。
この距離であれば、もう織葉が殴られることも蹴られることも無い。
ゆいは再び足を進め、男へ近づいた。
「それでは行こう、霧島ゆいよ」
「……はい」
翻し背中を向ける男に、ゆいは黙って続いた。だが、最後に一つ、ゆいは振り返った。
ゴンッ。
が、ゆいの意識はそこで強制的に切られ、それは叶わなかった。
弓使いの男が振り返ろうとしたゆいの動きに気付き、固く握りしめた拳で後頭部を殴ったのだ。
ゆいは糸が切れたかのように膝を着くと、そのままばったりと何も言わず地面に倒れ込み、動かなくなった。
茶色い地面に広がる、ゆいの銀髪。
そのゆいを、弓使いの男が担ぎ上げた。
「ゆ、い……⁉」
「なーんだ。逃げるのかと思って殴っちまった。へへっ、ごりって俺の手がめり込んだぜ?」
おー痛い痛いと、弓使いの男は両手をわざとらしくひらひらと振って見せると、その手をゆいの太腿にかけた。
男は撫でるように太腿を触りながら、ゆいを強引に担ぎなおした。ゆいは男の方の上で一度振り上げられると、どすんと肩骨を腹部にめりこませ、両手両足をぶらりと垂れ下げた。
「やめ、ろお゛っ……! ――ゆ、ゆいに、触るなあ゛っ!」
口から溢れる出る血など気にならない。織葉は男の言葉と、物言わないゆいをおもちゃのように持ち上げる男が許せなかった。しかし、怒れば怒るほど出血が増し、織葉の意識は更に朦朧として行く。
「それではな、若き剣士よ。中々の太刀筋だったと、褒めてやろう」
三人のローブ男たちは、一度織葉へ向き直り、いやらしい笑みをこぼした。
そして、男たちは転移魔法を行使し、音も無く、最初からここにはいなかったかのように、この場から去った。
◇ ◇ ◇ ◇
川原に静寂が戻ってきた。
その静寂の中で、織葉は痛みと苦痛と怒りで悶えていた。体の状態が危機を迎えている。このまま意識を失えば、間違いなく死へ落ちてしまう。
「誰かに、誰かに知らせ、ないと………」
織葉は必死に手を伸ばし、這ってでも動こうとした。しかし、もはや力は残っておらず、自分の体を引っ張っていく程の力など、何処にもなかった。
「ダメ……だ……。この傷じゃ、動けない……」
体をほんの少し動かしただけで血が吹き出る。その度に激痛が走り、織葉の意識を奪おうとする。
「あ……あぁ……、体が………寒……ぃ…………」
織葉に突如として寒気が襲い、眠気に似た何かがどっと押し寄せた。
これが、死期なのだと織葉は知った。何人にも抗えない、死とは、こういうものなのだと。
もはや織葉はそれに抵抗する力もなく、手招きする死神に意識を明け渡した。




