Chapter30-3
塔の最上部に充満する、血と肉の香り。
雹は一度深呼吸をし、大気の香りを一気に肺に流し込んだ。
「はああっ! はあああっ! ああああっ!」
見ると少し離れたところで、半身を踏みつぶされた芋虫のような何かが蠢いている。
香道を楽しんでいたかのような雹はやれやれと息を抜き、自分の楽しみを邪魔した芋虫を凝視した。
蠢くそれはなんとか腕の力だけで進もうとし、少し離れた場所に落ちている刀を拾おうとしているように見える。
ずりずりと動くそれは、動いた後に轍を残すかのように、血の道を作っていく。
「まだそんな力があったか。河川敷の時といい、往生際の悪さだけは特筆に値するな」
雹は苛立ちを隠すことなく歩み寄り、そのまま更に織葉の背中を髪ごと踏みつけた
「いっ! いぎぃぃっ!」
痛みに悶え、織葉の半身はがたがたと痙攣した。
「痛いだろう。両足が無いんだもんな。私には経験がないが」
雹は、織葉の断面をつま先でこついた。
「うあああああああ! いっ、いだぐないいっ!」
織葉は大泣きしながら、必死に痛みに耐えようとする。
しかし、人間が耐えられる苦しみの限界まで来ているということは、もう痛いほど理解していた。
「そうか、ならお前が痛いと言うまで、蹴り続けてやる。お前が認めるまでだ」
「いやだっ! いやだぁあああああああ!」
織葉は必死に両手で地面を掴み、這い動こうとした。
だが、雹の片足がまたしても圧し掛かり、それを阻んだ。
「さぁ、まずは右足から蹴るぞ」
雹は爆発四散して抉れた織葉の足の断面を嬉しそうに見ると、身体に乗せていない足を後ろへ振った。
「いやぁああああああああああああ!」
痛みと苦しみで頭が支配され、幾つもの神経が悲鳴を上げる。織葉はがたがたと震えながら酷く泣いた。
「織葉ちゃん。大丈夫だよ。痛く、ないから」
蹴りあげようとした雹を止めたのは、腹部に槍を貫通させたまま立ち上がっていた一人の女生徒の姿だった。
「なっ!? お前、一体、なんで!?」
血まみれになりながらも、しっかりと立つその姿に雹が驚きの声を上げ、すぐさまローブから中杖を取りだして構えた。
ゆいは両手で刺さったままの槍を掴むと、一本ずつ、体から抜き取り床へと放り投げ、代わりに転がったままの愛杖、シオンを拾い上げた。
「雹様!」
ゆいの異様さに気がついたのか、レイザルが脇から現れ、ゆいへ肉薄する。
レイザルは発動の遅い魔法攻撃をやめ、懐から片刃の湾曲したナイフを取り出した。
物理攻撃の俊敏性は随一だ。レイザルはゆいの喉を掻き切ろうと、逆手に構えたナイフをゆいに振り抜こうとした。
「ごめん、なさい……」
ゆいは一瞬、目を伏せた。
その瞬間を、見たくなかった。
ゆいの眼前にまで迫っていたレイザルは、突如としてその姿を消した。
魔力消滅も、流血もない。最初からその場にいなかったかのように、この場から消えた。
「なっ、何が――」
「ゆ、ゆい……?」
今まで散々自分たちを苦しめてきたレイザルの消滅より、織葉は俯いたままのゆいに声をかけた。
「おりはちゃん、待たせてごめんね。もう、大丈夫だよ」
ゆいは伏せた顔を上げると、地面に倒れ込む織葉を見て、優しく微笑んだ。
「えっ……? あっ、あれ――」
その瞬間、織葉の脚部から痛みが消えた。
今までの苦痛が嘘であったかのように、そんな感覚が無かったかのように、自身を蝕んでいた痛覚が消えた。
「そんな、なんで?」
「まさか、お前、何故だ!」
織葉の足は完全に元通りに戻っていた。
四散した筈の膝より下が至極当然のようにそこにあり、太ももに開いていた槍の貫通痕も消えている。
服に付着していた血液もきれいさっぱり無くなっている。
まるで、今までのことが本当に嘘だったかのようだ。
「貴様どうして! どうしてこの魔法を⁉」
雹は数メートルゆいと距離を瞬時に取ると、中杖を構え、ゆいへ怒号を飛ばした。
ゆいへ向いている杖先が、小刻みに震えている。
ゆいは両手に杖を構えると、雹へと体を向けた。
「魔法……? ゆい、あたしたちは一体?」
すぐ横に落ちていた刀を拾い上げ、織葉も立ち上がる。
織葉は真っ白な刀身の太刀を構えながら、ゆいに問うた。
「さっきの攻撃はね、全部幻覚。まぼろしだよ」
雹から視線を外し、織葉へと向ける。
「でも、私たちが使う幻惑魔法とは違う。頭じゃなく、魔芯に介入する幻惑魔術――」
分かりやすく説明をすると、再び雹へと向き直る。正解でしょう? と言わんばかりの強い視線を向けた。
「ぐっ……! やはり、お前は!」
雹は杖を振り抜いた。杖先の黒いクリスタルが一瞬紫に光り、ゆいに向けて魔弾を撃ち出した。
「ゆいっ!」
織葉は腕を引き、太刀で振り払おうとした。
だが、それは寸分間に合わず、魔弾はゆいの胸の中心へ撃ちこまれていく。
しかし、魔弾はゆいに命中しなかった。
体に直撃する寸前、透明な壁に跳ね返されるように、魔弾は飛び散った。
「ぐあっ!?」
幾つもの欠片にばらけた魔弾が雹へと跳弾し、脇腹を文字通り蜂の巣にした。
弾丸が容易くローブと皮膚、そして肉を抉り、その三つがぐちゃぐちゃと傷口で混じり合う。
体の一部を撃ち抜かれた雹はその場でがくりと膝をついた。
「霧島、貴様っ!」
脇腹をおさえ、雹が苦しそうに言葉を放つ。致命傷となっているようだ。
抑えた手の隙間から、止めどなく血が溢れていく。
「そんな、なんで……?」
真横で起こったことが信じられない。
織葉はゆいに驚愕の目を向けたが、ゆいはそれに反応しなかった。
「氷室さん。あなたは、ここに居るべきじゃない」
ゆいは膝をついたまま動かない雹へと歩み寄っていく。
脇腹を抑えたままの雹は動かず、ただ、痛みに苦しんでいる。
「――でも、もう大丈夫です。あなたを、元の世界へと戻します」
ゆいは雹へ、杖を振りおろした。
撫でるような動きに合わせ、雹が花弁のように散らばり、そして、風に流された。
消えゆくまでのほんの一瞬、雹は、泣いていたように見えた。
小さな光の欠片となり、宙を舞い、そして雹は、吹雪く灰色の空へと消えていった。




