Chapter29-1
沈黙者たち
塔は、ただただ静かであった。
隙間風が強く差し込むこともなく、風鳴りもない。
数十年と誰も入塔されなかった武神の塔は、空気中の細かな塵が全て床に落ち切り、空気も微かな隙間だけでは入れ替わることなく、何十、何百年前の空気が時を止めてその場に存在していた。
頬に風を感じることはない。
目に微かな光を、鼻に僅かな匂いを感じることもない。
ここは本当に時が止まっている。
いつから止まっているのだろう。
塔が出来た時から?
最後の入塔者が訪れた時から?
その疑問を誰が答えてくれる訳でもない。
全ての謎、全ての疑問はこの停止した空間に余すことなく囚われ、決してその答えが戻ってくることはない。
誰もが知っているその塔を、本当は誰も知らない。
豪雪の極限地帯にただ一人聳えているということだけ知らされ、多くの人が尋ねることもない。
その塔が崩れていても存在していなくても、皆はその塔の存在を知り、在るものとしている。
ユーミリアスの全ての人の記憶の中に、武神の塔は立っていた。
「……随分と悠長な奴らですね」
古ぼけた椅子に深く腰掛け、手元の水晶玉を覗く雹を見て、レイザルが痺れを切らして口を開いた。
「人間とは意外な生き物でな。極限状況に陥れば陥るほど、冷静になるものだ」
「生命活動に支障をきたさないためですか?」
何もせず水晶玉を見るだけの雹に、レイザルは少し苛ついている。
「それも正解ではあるがな。正しくは頭が心を縛るんだ。耐えきれない痛みを感じると気絶して脳へのダメージを遮断するのと同じく、恐怖を振り切ると頭が今の自分は冷静であると、自分自身に嘘の衣をかぶせるのだ」
「……仮初め、ですか」
「仮初めだな」
ちんたらと行動する久たちに腹が立つのか、ひたすら待ちの姿勢を取る雹に嫌気が指したのかは分からないが、レイザルは今まで見せたことのない苛立ちを見せた。
雹の横から頭も下げずに後ろへ下がると、部屋端の壁に取り付けられた木扉を荒っぽく開き、何処へと消えた。
雹は一人になると、鼻からふんと空気を抜く。
「全く、我慢の出来ない奴はだめだ」
興が冷めてしまったのか、雹は強く水晶玉を叩いた。
わずかな突起一つない完全な球体は雹の一撃を受け止め、代わりに微かな冷たさを手のひらに返した。
その衝撃でゆらゆらと揺れる球の中の煙の中、久たち六人はどこまでも続く螺旋階段を上っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
塔を登る六人は、延々と続く階段とその水量に驚きを隠せなかった。
六人は以前、ライグラスの廃塔に登っている。
あれはまさに、塔であった。
しかし、ここはあの時とはまるで違う。これは言わば、縦に延々と延びる廊下のようだ。
一階を後にして階段を上りはじめた直後、六人は一階の天井にあたる階層に到着したのだが、そこで六人を待ち受けていたのは、塔の壁に這うようにどこまでも伸びる螺旋階段と、塔の中央部をはるか高い個所からだくだくと流れ落ちてくる滝の様な水流であった。
一階の天井部に当たる個所は円筒噴水の様な形状をしており、螺旋階段までは伸び石の様なものが設置されていた。
その床の中心部で巨大な水の奔流は受け止められ、その水が偏りなく流れていく。
塔の中に、水が流れている。
当然ながらそれは驚くべきことであったが、何よりも全員を驚かせたのは、水の流れる音や落下し床に叩きつけられる音が、全くしないことであった。
間違いなく水は存在し、流れている。触ると確かに濡れるし、冷たさも感じる。
ゆいによれば水自体には何の魔力もなく、目の前にあるものは間違いなく水であった。
音のない映像を延々と見ているような違和感を覚えながらも、六人は飛び石を越えて螺旋階段へとたどり着くと、一段一段と登り始めた。
二階、と言って良いのか、あの円筒噴水の箇所から何分経ったかは分からないが、未だに次の階層に辿りつく気配がない。 直径四十メートルほどの塔の内部は、壁に這うようにどこまでも階段が続いている。
上を覗こうにも流れて落ちている水流が邪魔で、上を覗くことが出来ない。
知らぬ間に転移を繰り返され、同じ個所を延々と歩かされているのかもしれないという不安が全員によぎったとき、小さな踊り場があるのが見えた。
ここまでずっと一定だった段差のリズムが崩れ、人が二人ほど並んで立てるほどの大きな段差がある。
六人の足は知らぬ間に速くなり、軽快なリズムを刻んで階段を駆け上る。
踊り場のある個所は、そこに気付いた場所から二十段ほど先にあった。
「なんだろう、ここ」
冷たい石壁に触れながら、織葉が首をぐるりと回す。織葉の小さな右手が、微かに汚れた壁に手形を付けた。
特に何の変哲のない場所が特におかしく思える。今まで規則的に狂いのない段差が続いていただけに、このたった一段の踊り場は非常に妙だった。
前後を今一度確認したが、ここから見える範囲では同じような踊り場は他に見つけられない。
「ゆい、何か感じる?」
壁から手を離すと、織葉は後ろに立っているゆいに訊ねた。
「……ううん。この場所から特に何も感じないよ」
少しだけ神経を集中させ、ゆいが答える。
ゆいもこの突如現れた踊り場に違和感を覚えたが、魔力の痕跡などはどこにも見当たらなかった。
「奇妙だが、特に何かがあるわけじゃなさそうだ。とりあえず、先に進もう」
久が五人に出発を促す。
全員が軽く頷き、階段へと足を掛けた。また一歩一歩と段差を上がっていく。
人が建てたとは思えない構造の塔。構造の欠陥や設計ミスで、大きさの違う踊り場を挟んだとは考えにくい。
やはり何か意味があったのではないかと、タケが頭を悩ませ始めた時だった。
「あ! まただ!」
見つけたタイミングは全員ほぼ同じだったが、織葉が一番に声を上げた。
全員の見つめる先には、またしても同じ形、同じ幅の踊り場があった。
「やっぱり、何か意味があるものなのか?」
タケが口にしたが、やはり、どこをどう見てもただの踊り場。階段と全く同じ材質でできた、段の幅が四倍ほどあるただの段差にしか見えない。
ゆいは杖から台本ノートを取り出して確認をしたが、そこにも異変はない。
「とにかく進もう。奇妙な感覚はみんなあるだろうが、それを気にしていても仕方がない」
今度はタケが五人を諭す。
六人の歩幅は勿論ばらばらだ。だが、全員の考えは今、全員一致していた。
そして、その予感は的中する。
「まただわ」
踊り場は、これで三か所目となった。
ただの階段であれば、ただの塔や建物であれば、階段を上がっている最中の踊り場の回数など数えることは無い。
いや、気にもしない。
だが、ここは違う。
どこまでも続く階段に、音のしない水の奔流。
全てがおかしいこの空間では、階段の最中に存在する「踊り場」というごく普通の存在が、極めて異端に見えてしまう。
ーーそして踊り場は、また現れた。
少し上がると、また現れた。
「これで、六か所目だよね」
さらに上がってもう一つの踊り場に辿りついた所で、ゆいが指折り数えながら言った。
「なぁ、怪しいとは思うけどさ、きっとそういう造りなんだよ。踊り場ごとの間隔がバラバラだったりしたら何か臭うけど、来たとこそうでもないし、上に上がるにつれて階段のデザインが変わってきてるだけじゃないか?」
僅かなお互いの隙間をひょいひょいと足軽に縫って、ハチが全員の先頭に躍り出る。
階段を後ろ向きで器用に登りながら、全員に身振り手振りでそう話した。
誰も反論はなかった。というよりも、全く分からなかった。
意図的な造りなのかそうでないのか。何か意味があるのか、ないのか。さっぱり分からない。
普通ならざあざあと音を立て流れる筈の水流も黙り込むこの塔内で、誰も口を開こうとしない。皆一様にハチの発言に小さく何度も頷き、またしても歩を進めた。
そしてまた、踊り場に辿りつく。最初の踊り場から数えて、七か所目。
「ふぅ、登り始めてどれくらい経ったんだろうな。窓も時計もないとなると、本当に掴みようがない」
小休止にしよう。と、久が数段上の階段に腰を下ろす。
両手を腰の横につけ、首を真上に向けて軽く振った。一つ、ため息が出る。
塔の壁を沿って伸びる螺旋階段。
見上げると数メートル先に天井ではなく、上の階段の裏側が見えている。
一体どこまで上がらせるんだと軽く舌打ちをし、久は目線をすぐ隣の石壁を伝わらせながら下へと戻した。
「?」
今の視界には、座り込む自分の下半身と、下の段差で休憩を取る五人。
いや、そうではない。そこに異変はない。
久はゆっくりと、壁に伝わらせ下ろした視線を、同じルートを通って戻した。
「これって――」
おもむろに久は立ち上がり、何の装飾もない冷たい石壁に向き合った。
自分の腕の高さよりも、少し下にあるこの汚れ。
いや違う。これは汚れではない。むしろ汚れをふき取った跡だ。
上から下に二十センチほど伸びる、五本の線――
「織葉! これ、お前の手形じゃないか⁉」
久の驚きを隠せない大声に、皆が驚いて狭い踊り場に近づく。
名を呼ばれた織葉は久の横へと立ち、その拭き取られた跡に自身の手を合わせた。
「ま、間違いない。あたしの手だ……」




