Chapter28-5
タケが目覚めた時、既にいつもの起床時間、午前六時を過ぎていると確信した。
長年の習慣で体に擦り込まれた時間の感覚が、タケにいつもよりも長く寝たと間違いなく伝えていた。
身を起こしたタケは枕元に置いてある愛用の丸眼鏡を手にし、いつものように鼻の上に掛けた。突如として視界のぼやけが消えてなくなり、クリアな世界がタケへと届く。
冷たい部屋を見回すと、部屋に灯していた小さな炎は消えてなくなっていた。
しかし、壁の微かな隙間からは日光が光線の様に伸びて部屋へと届いており、室内は洞窟の入り口のようにぼんやりと明るい。
ここへ到着した時は夜であったため分からなかったが、塔は思っている以上に風化していた。
石壁の隙間には思っている以上に小さな隙間が出来ており、多数の光の帯が部屋へと差し込んでいる。通りで隙間風が差し込む訳であった。
久と織葉は別室であるため分からないが、他の三人はまだ眠っていた。
タケは自分のすぐ横で小さく蹲って寝息を立てるゆいに自分が被っていた毛布を掛けると、起こさないように物音を殺して立ち上がり、外へと続く立てつけの悪い木製の扉を開いた。
ぎぎぎと、風化した蝶番が軋み、ゆっくりと戸が開く。
戸の下に雪が積もっているのか、僅かな抵抗があるが、タケの腕力で開けられない程ではなかった。
急に開け放って部屋内に冷気が入り込むのは悪いと思い、タケは自分一人分がぎりぎり通れるだけの僅かな開きを作ると、目を殆どと閉じて屋内へと足を踏み出した。
◇ ◇ ◇ ◇
先程までとは明らかに違う、地を踏みしめる感触。
自分を支え、押し返すような石床とは異なり、雪原の大地はタケのブーツを数センチ潜り込ませた。
ぎゅっぎゅっと、あまり聞き慣れない足音を感じたタケは、静かに後ろ手で戸を閉めると、雪原特有の強い日光を目に受けないように、閉じていた目をゆっくりと開いた。
辺りは、白銀の世界であった。
岩や枯れ木一本存在しない、無垢の世界。
タケの目に映るは、どこまでも続く、何人にも犯されない白色を持つ険しい山脈と、その頭上にどこまでも広がる、雲一つない青い空。
空はいつも見る空色よりも、もっともっと深い濃い青をしていた。
タケは首を上げて日を望んだ。太陽の位置はまだ低い。正確な時間は分からないが、太陽の高さから見るに今は午前七時頃であろう。
タケは今一度上着のポケットから懐中時計を取り出してみたが、やはり時は止まったままだった。外傷一つない懐中時計は、どこか歯車がずれてしまったのか、秒針を一秒として動かす気配が無い。
時計の針は、八時十一分で止まっている。
この時間はおそらく、武郭より転移され、タケがエルマシリアへと落ちた時間であろう。
武郭に転移門が現れたのが午後八時ちょうどだったとすれば、あの魔法陣からの腕に絡み付かれて飛ばされるまで、十分程であったと、タケは記憶の糸を手繰り寄せた。
だが次の瞬間、タケの手繰り寄せていた手の動きが止まった。
背後で木材が軋む音が鳴ったのだ。
誰かが戸を開けたらしい。タケは振り返ったが、扉を開けた主の声の方が、タケが振り返るよりも早かった。
「金髪の美少女がいると思ってドキっとしちまったぜ」
振り返ると、そこにはわざとらしい笑みを浮かべたハチが立っていた。
ハチはまだ結われていないタケの金色の長髪を見て、冗談をめかした。
この冗談は、ハチが髪を括る前のタケに相対した際に必ず言う、お決まりのジョークである。
「今日はずいぶんと早いじゃないか」
タケは軽く肩越しに振り返ってハチの顔を見ると、正面へと顔を戻した。そしてタケは上着のポケットから黒い紐を取り出すと、慣れた手つきで後頭部で髪を括った。
「早いも何も、時計が潰れて何時か分からんぜ。あー、七時過ぎってとこか」
ハチもタケと同じように太陽の高さで大まかな時間を調べ、確かに早起きし過ぎた。と、白い吐息を吐きながら笑う。
「うぅさむっ! 夜中じゃ全くだったが、ほんと、一面面白くないくらいに真っ白だな」
ハチは両腕を組むようにして擦りながら、タケの横へと並んだ。首を亀のように引っ込めて、体温を逃がすまいと腕を擦りつけている。
口からは白い吐息が細く吹き出ては止まりを繰り返していた。
「ハチはエルマシリアに来たことはあるのか?」
最後に髪を引いてゴムを根元へとしっかりと寄せると、タケは両手をポケットの中へと突っ込んだ。
括った髪が背中の後ろで数回揺れ、冷気を帯びた風が毛先を撫でた。
「いんや、初めて。こんなとこ、よっぽど高額の依頼でもなきゃ絶対来ねえ」
“よっぽど”の部分を誇張して言うハチが、一層腕を擦って摩擦熱を起こす。
ハチは寒いのが苦手だ。引っ込んだ首は鼻の下まで上着に埋まっている。
「依頼、か」
タケは一つ呟くと、背後に聳える、天を穿つほどの巨塔へと体を向け、天を仰いだ。
四武神の塔。この塔の存在自体は別段マイナーではない。どちらかと言うと、知名度は高い方である。
何せこの場所は、この大陸を悪魔族より取り返した、偉大なる四人の武神が初めて降り立った地。ここが存在しなければこの大陸は今このような形で存在していないのかもしれないのだ。
ゆいと織葉はまだのようであるが、タケたち四人は各自、この塔の存在を各職業の養成校にて、座学で学んでいた。
パートナーチームの職に就くには、ある程度のユーミリアスの歴史の知識が必要とされる。その歴史を語る中で、この地、エルマシリアの四武神の塔は外せない場所に違いないのだ。
しかし、天を見上げたタケとハチは、共に言葉を失っていた。
それは塔に何か異変があるからではなかった。
上から物が落下してくるからでもなく、廃れた以外には何の変哲もない、ただただ普通の塔であった。
その、想像以上の大きさを除いては。
白銀の地に深く突き刺さる、この大陸奪還の地。
その塔は、あのライグラスで登った西の廃塔より、倍以上の高さがあった。
塔の直径も大きい。ライグラスの廃塔は直径二十メートル程の円形で、何もない階層と階段だけが設置されていたが、この塔はその倍だ。半径が二十メートルはある。
思い返せば、室内に幾つか部屋があった。それだけを設けられる大きさを誇っている。
どのように建造し、何故今まで倒壊せずに残っているのか。雪原に立つ石造りの塔は、極めて強い異質さを放っている。
毎日吹き荒れる吹雪も、何故か塔にはほとんど貼りついておらず、手に乗せた石灰を吹きかけた程度の積雪だ。
まるでこの地の脅威を跳ね返しているかのように天へと背を伸ばす武神の塔は、まるで生きているかのように見えた。
「奴らはやはり、屋上だろうか」
天高く聳える塔を見ながら、眼鏡の奥の鋭い両眼が、遥か高い場所に位置する塔のてっぺんを見据えた。
「だろうな。バカとなんとかは高いとこが好きなんだろ、確か」
顔半分を服に埋めたまま、ハチも器用に天を仰ぐ。
「確信が持てた。ハチの言うことだ、奴らは最上階で間違いない」
「ふふん。頼ってくれていいぜ。何せ俺は緑千寺八朔様だからな」
いい気になったのか、ハチは首を伸ばして胸を張った。
ふんと漏らした鼻息が、両方の鼻穴からふしゅっと吹き出る。
「ああそうだな。嬉々としてストラグのマンションの最上階を選んだ男の言うことだ。十分信頼に足りる」
タケの発言で一瞬ぴたりと固まるハチ。
ハチの頭でタケの真意を読み取るには少々時間が掛かったようだが、遅ればせながら理解したハチは、再び首を服につっこみながら、むっとした視線をタケに送りつけた。




