Chapter27-6
「全ての腕が影だと思ったか? そんなに驚くことでもないだろう」
「氷室、お前っ!」
睨み付ける織葉の視線の先、そこに浮く一人の男。男の手に握られた中杖が紫にぼんやりと光っている。
まるで蓮の上の釈迦のように、上に伸びる幾多の腕の間に雹は浮かんでいた。
宙に浮く雹は織葉を見て一つ笑みをこぼすと、杖を振り上げた。
それに合わせるかのように、一本の腕が持ち上がる。
「ぐぅっ⁉」
「久くん!」
持ち上がった腕は久を掴んでいた腕だった。
久は全身に腕を巻きつけられ、その自在な腕は首にまで及んでいる。腕は両端から引き絞られる紐のように、久の体の上でゆっくりと回転し、その体の絞りを強めた。
「ぐあああああっ! かっはっっ⁉」
久の体が織葉の眼前でよじれた。
黒い腕の隙間からはみ出たままの久の逞しい腕はあらぬ方向に曲がり、体全体が反っている。
「やめろ! 久くんが! 久くんが死んじゃう!」
「当たり前だ。殺すつもりでいるのだからな」
雹は一つ杖を振った。
またしてもそれに合わせ腕が動き、掴んだままの黒い腕を織葉のすぐ右の地面に叩き付けた。
雨でどろどろになった土が四散し、宙に浮いてその時を止める。
久は頭から叩き付けられた。
全身に響き渡る逃がしようの無い衝撃が全身に響き、体を内部から壊した。
至る箇所の骨が折れて体内を転がり、臓器に突き刺さって行く。無事であった他の内臓も凄まじい衝撃を受け、幾つかが弾けた。
打ち付けられた反動で浮き上がった久の口からは、その痛みと苦しみを代弁するかのように、鮮血が凄まじい勢いで吹き上がった。
「あぁっ……!」
噴水の様な勢いの血液は、言葉にならない音を発した織葉の顔、右半分にべったりと纏わりついた。
鼻孔に入り込む、鉄の匂い。
その臭いが脳へと伝わった瞬間、織葉の口が意識せずに、開いた。
「やめろぉおおおおおおお!」
力任せに振り抜かれていく浅実。
織葉はすぐ横に転がっている久に纏わりつく腕目がけ、ありったけの力を込めた。
キィィン。
甲高い音と僅かな火花を残し、浅実の刀身は、半分が折れた。
切っ先を含む折れた刀身は、ゆっくりとその身を回転させて地面へと落ちていき、ほんの一部分が地についた瞬間、浮いたままの雨や土と同じように、その時を静止した。
急に短くなった刀には織葉の力任せの一撃は重すぎた。
織葉はバランスを崩し、顔面から地面へぶつかった。雨水をたっぷりと含んだ泥が全身を一瞬で覆う。
織葉はなんとか手を着いた。
折れた浅実を握ったままの右手は転倒の弾みを殺せず腕の内側へと捻り、手首に鋭い痛みを走らせた。可動域を越えて曲がる関節の痛みに耐えかね、手から浅実が離れた。
親指を除く四本の指が激しく地面と擦れあい、織葉の小さな指は真っ赤に染まる。爪には細かな砂利が幾つも噛んだ。 指の痛みと、爪の間に異物が挟まって爪が浮いたような、気持ちの悪い感覚が一度に手神経に襲い来る。
それでも織葉はどろどろの地面へと両手の十本の指を突き立て、滑る身体を犬のように両手足で制動させると、久の体へと抱きついた。
依然として、久の体はきつく締められている。
「離せ! 離せぇえ! 久くんが折れるっ! 折れるから!」
久に巻き付く鉄の様な固さの腕に真っ黒な爪を食い込ませ、なんとか引きはがそうとした。
だが、雨水を含んだ土のように、爪は食い込んでいかない。
「諦めも時には大事と、教わってないんだな!」
その言葉が言い終わったのか最中だったのか。織葉は顔面に飛んできた一本の腕の直撃を貰った。
激しく頬が打たれ、久を掴んでいた織葉は後ろへと吹き飛ばされた。頭から吹き飛ばされるように宙を浮かび、数メートル背後で受け身も取れずに転がった。
目が舞う。
頬に着いた地面の感触で天地は分かるが、何処が前で何処が後ろか、目は顔の前にしか着いていない筈なのに、どこを向いているのか分からない。片鼻に飛び散った土の塊が入り込んでいるのは分かった。
定まらない焦点の中、織葉の目は、久の手から離れ行く青い薙刀を捉えた。
一本ずつ開いて行く久の利き手の指。
朝を迎え広がりゆく花びらのように、久の指は開き、中指が開き始めた頃、手の中の薙刀が傾き、引力へと従い始めた。
薬指が開き、薙刀が手から離れる。
僅かに小指に引っかかりながら。
久の手を、握らねば。
織葉は焦点の合わない世界で一心に手を伸ばした。
(ほんの数メートル先、たった数メートル先に、自分が一番手を取らなければならない人がいると言うのに――!)
織葉の手は空を掴んだ。
久の手を握れなかったと、手の感触が明確に伝えてくれた。
目から、熱い水が流れた。
頬に着いた土で茶色く濁るそれは、土で汚れた頬をぎざぎざと伝わっていく。
宙を掴み、落ちていく織葉の手が、地面にあった何かに触れた。
ざらりとしているが、土とはまた違う感触。
これは――浅実だ。
折れた刀が、主の元へと戻っていた。
知らぬうちに、織葉はそれを握った。
短い付き合いの浅実は、こんな状況であっても手に馴染み、織葉にその身を握らせた。
より一層、柄を握った。
より一層、気を強く持った。
そして、より一層――人を想った。
(お願いだ、抜けてくれ! あたしの心の刀っ!)
滑る足で大地を蹴った。
歪む両目で前を見据えた。
血塗れの痛む手で柄を握った。
「抜けろぉおおおおおおおおおおお!」
心の底から、刀を抜いた。
桃色の残影を持つ真っ白な刀身が、その場を切り抜けた。空間を切り裂き、世界に音を戻した。
織葉は飛び上がると、全身を使い、久を抱きしめた。
自分と久を隔てる黒い腕が、氷のように解けていく。
そして二人は地面を転がり、まるで穴に落ちるかのように魔法陣に吸い込まれていった。
武郭に、いつも通りの雨が降っている。
地面から、屋根から、木々から。
雨粒の叩き付けられる音が鳴り響いていた。




