Chapter25-1
“力”の意味
狂いなく一打ごとに打ち込まれる、空気を切る鋭い音が鳴っている。
ぶれの無いその鋭利な音は、使いこまれた竹刀から発せられていた。
織葉は母屋に併設された緋桜家の道場で一人、稽古に励んでいた。
いつから使い始めたか分からない愛用の竹刀。持ち手の柄の部分の布は、織葉の手の形に合わせて手汗を吸い込み、黒く汚れている。
織葉は片足を前に踏み出した綺麗な体勢で数百回の素振りを追えると、馴染む竹刀を慣れた手つきで振りながら、壁際に置かれている、剣道防具を括り付けた丸太の前へと移動した。打ちこみ稽古用の練習人形だ。
まるで案山子のような打ち込み人形は織葉よりも大きく、いつも変わらない場所から織葉をじっと見据えている。
織葉は人形に向かい合うと、軽く息を吐き、中段で構えた。ぴんと伸びた竹刀の切っ先が、人形の喉元をまっすぐに刺した。
「やあっ!」
一つ気合を入れると、織葉は一歩床を鳴らして踏み込んだ。
踏込みに合わせドンと床が一度揺れ、織葉が人形へと肉薄する。
距離にすれば数歩も無いその距離を目にも止まらぬ速さで詰めた織葉は、そこで一瞬の制止も無く、一気に人形の面防具に、斜め上から打ち込んだ。
鋭い一撃が防具へ当たり、人形は当てられた方とは逆へ僅かによろめいた。
すかさず織葉は逆面の面防具へ、手首を軽く捻って攻撃を繰り出した。
すぱん、と気持ちのいい音が鳴ったかと思うと、織葉はまた逆面へ一打。
そしてまた逆面へ一打と、交互にテンポを崩すことなく、打ち込み稽古を始めた。
繰り出される竹刀の一撃一撃が、狂うこと無く面防具へ叩き込まれる。織葉の規則正しい動きに合わせ、不規則に額から汗が散った。
(完成された、強さ――)
一撃の重みの均衡がやや崩れ、人形が少しばかりぐらつき出す。
(間違いのない、太刀筋――)
次第に織葉の打ち込みが力任せになって行く。
(二度は負けない、あたしの唯一の特技――)
人形が大きくぶれる。胴着の袖が空を切り、鋭い風切音を立てながら、時間差で織葉の肌に叩き付けられる。
「なのに、どうして!」
構えを乱雑に崩し、力任せに片腕だけで振り抜いた竹刀が、眼前の人形を薙ぎ倒した。
面防具の鉄の部分が道場の床板に激しくぶつかった音で、織葉は我に返った。
気付けばもう剣道の構えではなく、右手を大きく前に突出し、その一方の手だけで力任せに握った竹刀が振り下ろされていた。
手は少し、震えている。
織葉は近くの壁に竹刀を立てかけると、倒れたままの稽古人形を立てて起こした。
見ると、床との衝突で面防具がずれている。
織葉は人形に一歩近づくと、背伸びをしながら向きを整えた。
「……」
自分の問いに、打ち込み稽古の人形は答えてはくれない。
丸太に括り付けられた顔の無い面防具を凝視しながら、織葉は少し、肩を震わせた。
織葉は目尻を胴着ですぐさま擦ると、立てかけたままの竹刀を手に取り、道場から繋がっている物置兼、更衣室へと足を運んだ。
正方形の剣道防具棚が規則正しく並ぶ、薄暗い更衣室。
いつになっても鼻につく、ツンとしたかびの臭いを感じながら、織葉は更衣室の奥へとさらに進んだ。廊下脇には、いくつもの優勝盾やトロフィーと、使い古された竹刀立てがある。
その竹刀立ての、織葉の名前が書かれた枠に持っていた竹刀を立てると、織葉は更衣室の廊下を抜け、一枚の引き戸を引いた。
その先は道場と母屋を繋ぐ渡り廊下に通じている。織葉は見慣れたせん栽には目もくれず、真っ直ぐ進んで母屋へと戻った。
幾つか廊下を曲がり、部屋を横切ると、織葉の自室の前へ着いた。
織葉は閉じられている襖に手を掛けると、ゆっくりと開いた。
久々の自室だった。
いつもは乱雑で足の踏み場もない部屋は舞が片付けてくれたのか、今は見違えるほど整頓されている。
六畳ほどの部屋には、洋服箪笥と勉強机。机の上の棚には、その織葉の実力の証明ともいえる、大きなトロフィーがいくつも飾られている。
そして、勉強机と隣り合うようにして剣道具を一式まとめて置いてある棚が一つ。
その棚には替えの胴着や愛用の防具、竹刀の手入れ用具や、過去の試合で使用した、苗字の刺繍された胴垂れなどが置かれている。
そしてその棚の上、そこには横向きの刀掛けが一つ置かれており、そこに一振り、刀が掛けられている。
織葉は棚の前に吸い込まれるように歩を進めると、刀の鞘を掴み、持ち上げた。
片手に収まるそれは、何よりも手に馴染んだ。
どこを掴んでも織葉の手に順応してくれる。間違いのない織葉の片腕。
「ぼろぼろにしちゃって、ごめん」
その片腕の黒鞘は、ぼろぼろにささくれていた。
織葉は手に収まる煤けた愛刀の鞘を撫でた。
黒漆で仕上げられた艶のあった鞘は、高熱で焼かれて表面の至る所が焼け、剥がれ落ちている。生き生きとした艶は所々にしか残っておらず、焼けた黒いざらつきと焦げが、死んだ様な黒に染め変えていた。
鞘先につけられた鏢と呼ばれる鉄製の飾りも、燻され、べた付いた飴色へ変貌してしまっている。
織葉は柄を握った。手にあれほど馴染んでいた柄紐は焼けて全て無くなっており、鞘紐の下のごつごつとしたエイの皮の感触が、掌を刺激する。
慣れない柄の感触に強い違和感を覚えながらも、織葉は握る力を強め、刀を鞘から引き抜いた。
いつだって心地よく抜刀できた織葉の愛刀は、何かに何度も引っかかるようにしながら、がたがたと鞘から刀身を現した。柄の上にあしらわれた桜の鍔も、飴色に変色し、煤けて真っ黒だ。
「……」
織葉は一言も発することが出来なかった。
あの鮮やかで、いつだって闇に一筋の光を照らした研ぎ抜かれた刀身は、もはやその光を放つことすら出来なかったのだ。
まるで鋸のように、いくつもの山と谷が出来てしまった刀身が、鞘から抜かれただけ広がっていく。
神々しいほどに研磨されていた刀身は見る影もなく、写り込むほどに磨かれた刃は今や、火事場から出てきた鉄の如く真っ黒だ。
そして、刀を半分ほど鞘から抜いた時、唐突にそこで刀は終わった。
刀身がそこで、無くなってしまっていた。
「ごめん、折っちゃった……」
織葉の愛刀は真っ二つに折れ、死んでいた。
真ん中で折れた半分しか残っていない愛刀を手に、織葉はべたりと膝をついた。
目から溢れる涙が畳へと落ち、ゆっくりと吸い込まれていく。
織葉の刀は、規格外の炎の固着術に耐えかね、全身を焼き焦がして、その刀身までも壊してしまっていた。
折れた先の部分は廃塔で紛失。打ち直しや研ぎ直しといった修復の類が不可能なのは素人目にも見て取れる。
愛刀、氷焔は、その役目を終えてしまっていた。
「ごめん、ごめん。あたしが乱暴に使ったばっかりに……」
自責の念が織葉に押し寄せる。
しかしいくら謝り涙しても、刀は何も言わず、答えようとしない。
「うっ、うううっ……」
今の今まで目尻で防いでいた涙が、その壁を乗り越え、大粒の涙をぼとぼとと生み出した。
織葉は必死に口をつぐみ、呻くような声で必死に鳴き声を飲みこんだ。すると、その代わりに嗚咽にも似た苦しい声が、喉と鼻の近くから漏れだし始めた。
いつもどんな時も、この刀は自分の腰に居てくれた。
織葉の意思に決して背かず、従順で、何よりも頼りになる存在だった。いつだって織葉の期待に間違いなく応え、最高の状態を作り上げてくれた。
魔法使いが杖を何よりも大切にするように、剣士もまた、刀や剣を何よりも大切にする。
そこには道具と使用者を越えた、確固たる強い絆が生まれ、その繋がりの強さこそ、何よりの強さであり、何よりも誇るべきものなのだ。
目を瞑ってでも触れば当てられる程使い込んだ、織葉の愛刀。
時には手入れを怠ったり、乱雑に扱ったりもした、誰よりも織葉のことをよく知る刀。
その、勝ちも負けも苦楽も共にした織葉の無骨で美しい愛刀は、焼け焦げたそんな姿になっても、織葉を責めることすらなかった。
「織、葉……?」
その時、誰かが織葉の名を呼んだ。
棚の前で膝を着き、ぼろぼろと涙する織葉に声を掛けたのは、握りしめた愛刀ではなかった。




