Chapter19-5
その岩肌についた傷は、ジョゼのナイフの跡だった。
ジョゼはハチを空中で捕まえた後、ナイフを岩肌に突き立てたのだ。
何とか止まれたものの、ジョゼは今、久たちの更に下。やや離れた場所の岩壁に、なんとか貼り付いていた。
落下死は免れたが、ジョゼは傷だらけだった。
ナイフを持つ右腕、顔、胸、腹。腹ばいになるように岩肌に体を擦りつけながら落下を止めたジョゼは、全身生傷だらけだ。
服は上下とも激しく破れ、頬や額、膝は岩で激しく裂傷を負い、血が流れ出ている。
「ハチ! ハチ! しっかりしなさいよ! あんた、最強なんじゃないの⁉ ねぇ! ハチ!」
その壁に向き合うような体勢で、ジョゼは顔すら満足な方向を向くことが出来ない。
そして、その必死の叫び声に、ハチはぴくりとも反応しない。
ハチはジョゼに手首を強引に掴まれたまま、意識を失いだらんと脱力している。
肩からの服は弾丸によって破け、流れ出る赤く黒い血液は腕を伝い、下に垂れて濁流に飲み込まれていく。
垂れ落ちる度に水流がごうごうと流れ、まるでハチを食おうとせんばかりの轟音を立てている。
(どうすれば、どうすればいいんだ……!)
どちらの手も緩めることが出来ない。ジョゼを助けに行くことも出来ない。
落ちれば即死。何も、何も打つ手がない。
久は自分の行動を憎んだ。
もっと早く機転を利かせていれば。もっと早く逃げる方向を変えていれば。もっと自分が強ければ――
「久くん! もう少しだけ、耐えられる⁉」
嘆く久に、下から力強い声が飛んできた。
それは、濁流の音にも負けない。芯の通った強い声。
「ゆ、ゆい! どうした!」
滑り落ちていきそうになるタケの腕を掴み直しながら、久は下に目一杯叫んだ。
「ここなら、転移魔法、使えるかもしれない!」
「な⁉ ほ、本当か!」
ゆいの口から、この状況を打破する手段が告げられた。
転移魔法。
ユーリスで学んだ、上級魔術だ。
「ここ、かなりの魔力がある! 出来るかもしれない! だけど、一つだけ条件があるの!」
久は全く感じ取れなかったが、ここは先程の森より強い魔力が充満していた。
その充分な魔力の力を借り、ゆいは転移魔法を試みると言いだしたのだ。
「今はもうそれしかない! ゆい、何が必要なんだ!」
絶体絶命の縁に立たされたチーム久。久はこの状況ではいずれ全員落ちてしまうと確信し、ゆいの転移魔法に全てを賭けた。
「私の魔法はまだ未完成で、転移させる人たち全員と繋がってなくちゃいけない! だからなんとかして、ジョゼさんとハチさんを掴んで!」
ゆいの転移魔法は他の力を必要とするだけでなく、転移させる人間全員と繋がってなくてはならなかった。
このまま転移したら、ジョゼとハチを置いていくことになってしまう。
「……分かった! なんとかして二人を掴む方法を考える! ゆいは直ぐに魔術が行使できる段階まで準備してくれ!」
「うん!」
ゆいは空いている片手に魔力を込め、その掌に杖を呼び出した。
濁流の音は集中力をかき乱すが、ゆいは冷静になり、小紅に教えて貰った通り、頭の中に転移魔法の魔法陣の形をイメージし始めた。
「タケ、織葉、聞いてくれ」
「転移魔法、だな……?」
「あ、あぁ。その通りだ」
うめくように低い声が、タケの口から漏れた。
タケは会話できないない程の激痛に見舞われながらも、織葉を繋ぐ手の力を緩めてはいなかった。
「それで、なんとしてもジョゼたちのとこに飛ばなきゃならない。体を振って、勢いをつけて飛び出し、ジョゼを掴む。
その瞬間にゆいに魔法を発動してもらうんだ」
「なるほどな。ゆいに、賭けてみようぜ」
タケの額には、ひどく脂汗が滲んでいた。
「タケ……これから更に痛むだろうが、もう少しだけ耐えてくれ!」
「ははっ。お前の、頼みじゃな……断れないよ」
「……すまない。 織葉、そういう手順だ。ジョゼに大声で伝えてくれ!」
「わ、わかった!」
織葉は目一杯の声でジョゼに向かって叫んだ。
ジョゼは何の反応も出来ない。その声ももう流れの音に掻き消されて何も聞こえないが、ジョゼの動かない背中は、確かに、了解。と答えていた。
「久くん、準備、出来たよ」
杖のクリスタルに目一杯の光を溜め、ゆいは久に完了を告げた。
不安定な状態での転移魔法は、ゆいに極限の疲労を与えていた。
「分かった! ゆい、今から体を揺らしてジョゼの所へ飛ぶ。俺がジョゼを掴んだ瞬間、転移してくれ!」
「りょ、了解っ……!」
「よし……いくぞぉおっ!」
久は幹を握る手に一層の力を込めた。
それは幹を握り潰すが如く、樹皮に爪く食い込ませるほどの力だ。
「んんっ! ぐぉおおっ!」
久が足を振り子のように降り、僅かな前後の揺れを生み出した。
その揺れは長い鎖を垂らしたかのように四人の遠心力を加えて、次第に大きな揺れになって行く。
「うううっ! ぐうっっ!」
タケの悲痛な声が漏れる。歯を食いしばり痛みをこらえているが、その痛みは尋常なものでは無いだろう。もはや。気力だけで耐えている。
「それっ、もうっ、一振りっ!」
ぐん。幹を掴む腕に重さが加わる。
揺れが大きい織葉とゆいは、必死にその体を繋ぎ合い、振り落とされないようがっしりと掴み合っている。
「次の振りで、飛ぶぞぉ!」
久が叫んだ。
掴む腕の筋肉がぱんぱんに膨れ、更に血管が浮かび上がった。
前に揺れた久たち四人の動きはブランコのように後ろ振りへと変わる。
そして、この振りが次、前に振り切った時、その時で、すべてが決まる。
四人の振り子は後ろへと振り切り、その揺れの速度を0にした直後、ゆっくりと加速して前振りに変わった。
四人は幹と直角になり、そして――
「せいっ……らああああああっ!」
四人は、ぷつりと切れた糸のように、宙に体を放り出した。
四人が、舞う。
必死に作った揺れは四人を少しずづ前へ前へと動かしながら、落下速度を増した。
久は命を繋いでくれた先程までの木を掴んだ時と同じく、手を突き出せるだけ前へと突き出し、今度は 数メートルを切った先にある、ジョゼの腕を、掴みにかかった。
「ジョゼぇぇぇぇぇっ!」
どこから出たのか分からない、絶叫。
久は落ち行く中、傷だらけになったその大きな手で、壁に突き立てたナイフを握るジョゼの手を、掴んだ。
「ゆい! 今だぁああああっ!」
六人が繋がったその一列は、久の断末魔のような叫び声を残し、濁流の中へ落ちて行った。
視界が真っ白になる。
光り輝く泡が目の前一杯に広がり、光が乱反射している。
もみくちゃにされながら流されるように、体が方向感覚を失っている。しっかりと全員と繋がっているのか、それさえ、分からない。
(息が出来る…… 冷たく、ない?)
ここは、水中ではなかった。
体に叩き付けられるこの圧力と、この眩い光。
「こ、ここは――」
久が目を開くと、そこは、一面に広がる白い柔らかな平原。
そこに降り注ぐ、眩い日光。
(雲の、平原――?)
久の目に映る、一瞬の風景。
どこまでもどこまでも続く、白くやわらかな世界。
雲の切れ目一つない世界が、久の脳裏に焼き付こうとした刹那――その世界がひずみ、ノイズが入るかのように世界が反転した瞬間、久の体から意識がすっと離れた。




