Chapter18-7
干ばつしたかのように、張りを失ったタケの魔芯は、ほんの僅かに捻った蛇口の如く、ほんの数滴しか魔力を生み出そうとしなかった。
貯蓄分も殆どなく、底を着く寸前の枯れ行く溜め池のようだ。
これは、病的な魔芯だ。魔芯の衰えが何かによって、非常に早くなっている。ゆいは青ざめた。
タケはゆいが理解してくれたのを見ると、優しい笑みを浮かべ、顔の距離を離した。
「今ある力はただの技術に過ぎない。だから、オレは強くない。そのせいで親友や仲間を失ってしまうことになるかと思うと、恐怖で足がすくんでしまうんだ」
「そんな……で、でも! これはタケくんのせいじゃない! タケくんが全力で戦えなくても、誰も怒ったりしない、そうでしょ!」
ゆいは思わず立ち上がった。全身から湯気が立つのが分かる。
自分の視線の下、風呂の中で優しく微笑むタケに対し、ゆいはどうすればいいか分からなくなっていた。
タケの所為ではない。誰もそれを責める人はいない。そんなこと、ゆいにも分かっていた。けれども、自分がその立場だったらと考えると、同じようにどうしようもない自分を卑下するだろうと思った。
ゆいは勢い余って立ち上がった自分を制し、ゆっくりとその場に浸かった。白い濁り湯が波立った。
「でも、どうしてそんなことに―― っ!」
ゆいは自分の口から無意識に流れ出たその言葉を止められなかった。
気付いた時には流れ出て、口より下に流水の如く流れ出てしまっていた。
はっと両手で口を押さえ、目を真ん丸に見開いている。その眼には自分に対する驚きと、その言葉を発してしまったタケへの謝罪が溢れていた。
「気にしないでくれ。こんなものを見せられたら誰だってそう思うさ。ゆいのその反応は正しいものだよ」
タケは驚き口元を押さえたままのゆいに優しく微笑んで見せた。
見間違いの筈なのに、ゆいにはタケの瞳が黒くくすんで見えていた。
ふるふると頭を振り、無理や思考回路をリセットする。星色の髪から水滴が水玉となり吹き飛んだ。
「弦使いには、“互違の色眸”っていうスキルがあるんだが、知ってるか?」
「オルタ……? ううん。聞いたことないよ」
「弦使いの高等技術だ。一時的に両目に魔力を送り込んで、飛躍的に視力や命中率を上げる技術。織葉の固着術に近いものかな」
互違の色眸とは、固着術と同じ原理のテクニックで、術者が魔力を自らに取り込むことで、命中率、視力、動体視力などの本来の能力を大きく底上げするスキルのことだ。
使用時に目の色が魔力によって互い違いに色の違う眸に変化するため、互違の色眸と表記される。
また、あらゆるものを透過したり、相手や対象との距離を正確に把握出来るなどの特殊効果もあり、発動中の命中率は更に大きく高まるので、弦使いの奥の手とも言われている技術だ。
「三年ほど前かな。オレと久はちょっとした紛争に巻き込まれてな。久を守るために、互違の色眸を、限界時間を越えて使用し続けたんだ」
結果がこれさ。と、タケは鼻のつけ根をくいくいと押した。眼鏡を示している。
ゆいは、掛ける言葉が見つけられないようだが、タケは続けた。
「もう、オレの視力と魔力は枯れかけている。今のオレはただの技術の塊なんだよ。だから、次に命の危険がある程の戦闘があるとしたら、オレは――」
(――もう、何も守れないかもしれない。)
「タケくん! もうそれ以上言わないで!」
タケの口から離れようとしたその一文は、ゆいの精一杯の声で掻き消された。
一際、風呂の湯が大きく波立った。
ぶつかり合う波のように、風呂の中で小さな水柱がいくつも生成され、だぷんだぷんと、湯面に叩き付けられていく。
湯の動きで少し多くの湯気が舞う白い温かな世界の中、ゆいは、タケを優しく抱きしめていた。
「タケくんだけが、何もかも背負わなくたっていい……。技術だって立派な力。魔芯が無くたって、強くなくたって、タケくんはタケくんだよ……」
ゆいは抱きついたまま、タケにだけ聞こえるような小さな声を、耳元で零した。
タケは何も言わなかった。
全て分かっていた。それであっても自分は自分なのだと。
だが、この旅は、タケのその固い心を大きく揺さぶり、決意を崩した。
分かっていても、襲い来る恐怖。知っていても、対処法の無い不安。
そして、予想を遥かに超える行動をとる、見え隠れする謎の影。
何もかも不明であるが、力を失いつつある今の自分では、到底敵わない相手。そんな相手を前にし、自分は仲間を、そして、親友を――守れるのだろうか。
タケの心にいくつも空いた小さな穴は、連鎖し広がりゆく和紙の破れのように、次第に広がり心に巣食い、一文となってタケを苦しめ始めた。
「力のないお前に、友を守れるのか? 友を救えるのか?」
その問いは、幾度となく旅中のタケの脳裏、心をよぎり、足を止めさせ、指を震えさせ、判断力を奪った。そして、自信や覚悟をも崩しに掛かった。
今までタケが冷静に判断し、戦えていたのは、それはタケの今までの経験と、積み重ねられた技術があったからだった。ただの慣れだ。
だが、とうとうタケの“慣れ”を完全に崩す物が現れた。
氷室雹だ。
(オレは、怖かった)
その圧倒的な存在は、来駕タケという存在を壊した。
まともなタケであれば、そんな考え、すぐに捨ててしまったであろう。
だが、タケは強くなければならないと考えた。自分を見失い、冷静さを失っても、強くならなければならなかった。
友を、仲間を守る力をつけなければ。そうでもしなければ、恐怖が身を襲った。あの一文が、全身を縛り上げた。
しかし、限界があった。魔力減衰という大きなハンディキャップ。強くならねばならないと言う焦りと、それ以上先には進ませないという、絶対的な壁。
崩れる訳ない壁に向かって全力でぶつかり、後ろから来る恐怖から逃げようとしていた。
(そんな必要は、無かったんだな)
なんであれ、自分は自分だ。タケはそんなこと、魔力の弱かった幼少期の頃から理解していた。どんな姿になっても、強さも弱さも関係ない。自分は自分なのだと。
だが、知らず知らずのうちにタケは自分というものを見失い、こうでなければならない。こうしなければならないと考えていた。
必ずしもその考えは間違いではないにしても、時悪くも雹が現れ、タケの思考を思わぬ方向に加速させた。
結果、自身で恐怖と壁を作りだし、自ら作った迷路に、わざわざ入ってしまっていた。これが、正しい道なのだ。と。
「ゆい、ありがとう」
こんなところに出口があったなんて。
自分の求める究極の疑問に対する至極簡単な答えを、持っている人がいた。
「ゆいのおかげで考え直せたよ。何も焦る必要なんてなかったんだな」
タケはひしと抱きしめてくれいているゆいに、優しく言った。ゆいは胸元でこくりと頷いた。
「私はタケくんと出会ってまだまだ短いけれど、今のタケくんから変わってほしくないな。私もだけど、きっと久くんもみんなも、そう思ってる気がするよ」
こんなこと、他人から聞くまでもないのにな。タケは心底そう感じた。
同時に、心を支配していた曇りは晴れていった。
湯に溶かされ解け行く紙紐のように、心と頭を縛り付けていた鎖は、その締りを緩め、湯へと溶け出た。
「ゆい、ありがとうな。ゆいがオレの目を覚ませてくれたよ」
「ううん、話しにくいことなのに色々聞いてごめんね。でも、話してくれてありがとう。私でよければ何の力にでもなるから。それに、魔法のことなら任せて」
ゆいはタケの笑顔に合わせ、こちらも言わんばかりに笑顔を向けた。
赤く火照った頬に、しっとりと貼り付く、星のような銀色の髪の毛。
ゆいの笑顔はいつも、誰にでも等しく、優しい。
「ありがとう。これからもよろしくな」
「こちらこそだよ。よろしくね」
二人は暫く顔を合わせあったのち、全く異なる形の手をお互い差出し、ゆっくりと握手を交わした。
ゆいの手は、タケのそれより遥かに繊細だった。




