Chapter18-6
「――いいですか。もう、絶対に無理しないでください」
額の上に銀色の円盤のようなものを乗せた、白い服装の男性が話しかけてくる。
その男性の隣には、同じ服装の人がもう一人。
『先生、次に使用すると、私の目は、やはり……』
視界が歪み、白み掛かっているのは、矯正器具を外しているからだろうか。
「えぇ、状態は自身が感じているより深刻です。次に同じように負荷を掛ければ、失明は免れないでしょう。もしくは魔芯の消失。最悪の場合、両方です」
『そう、ですか。そうですよね』
きっぱりと、医師はそう告げた。
横の女性が近づき、何やら銀色のお盆のようなものを、こちらに差し出している。
何かがそのお盆の上に乗っている。
『ありがとうございます』
途端、視界が晴れた。歪みも、霞みも無い。その綺麗でクリアな世界が、恐怖を与えた。
(もう、守れないのか)
回転する椅子から立ち上がり、後ろの扉から退室する。
いくらかユミルを払い、その場所を後にした。
出た先は、嫌と言うほど見慣れた村の街並み、青い空、白い雲、光り輝く太陽。
『――もう、守りきれないのか』
涙が出るのはきつい日差しの所為だ。違いない。容赦なく照りつける、空の上のあいつが悪いんだ。
だから前を向いた。手の甲で涙を弾き飛ばし、前へと向き直った。
目の前の街路樹がぶれている。
『よせよ……』
前に、歩き出した
民家の前に立つ二人の人間が、寸分狂わない同じ動きをしている。
『やめろって……』
次第に早足になっていく。
小川に掛けられた橋が、真ん中から、ぐにゃりと曲がっている。
『頼む……』
走りながら、空を仰いだ。何人にも犯されない、絶対的な存在、空。
その空は、青紫色に染まっていた。
『頼むよ……』
家まで駆け抜けた。何処も見ず、何にも気を取られず。ただただ、走る。
「おーい! 大丈夫だったか⁉」
家の目前、そこで、聞き慣れ過ぎた声に呼び止められた。
頭で考えるより先に、視線がそちらに向いた。
『う、うっ……』
「タケ? どうした? 大丈夫……か?」
『うわぁああああああ!』
目の前で親友の顔が、丸められた紙屑のようにぐちゃぐちゃに歪み、目と口は、無くなっていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「はぁっ!」
タケは、目を覚ました。全身から吹き出た脂汗は、浴衣を肌に貼り付かせている。額も汗だくだ。
(――夢、だな)
タケは布団の上に座ると、枕元から眼鏡を探り当て、鼻の上に乗せた。
息を整えながら、乱れた浴衣を直そうとするが、手が小刻みに震え、上手く浴衣の裾を引っ張ることが出来ない。
(落ち着け……)
タケの思いに反し、手の震えは大きくなっていく。動悸も早くなり、再び脂汗が体から染み出る。
「……だめだ」
タケはゆっくりとその場を立った。足は、ふらつかなかった。
夜風は無くなり、窓枠から下がる簾はぴしりと引っ張られたように揺れ動かない。
タケは足音を立てずに窓とは反対方向、玄関の方へと静かに進むと、襖をゆっくり開き、部屋から外へと出た。
廊下は、ひんやりとしていた。
壁に等間隔につけられた光を放つクリスタルが、オレンジ色に廊下を照らしている。タケはその中をゆっくりと進み、階段の踊り場の方まで歩いてきた。次第に手の緊張は解れ、浴衣の着くずれは直すことが出来た。
階段付近には誰もいない。何もない。向こう側には進んで来たのと同じ、客室前の廊下。そして、左手には露天風呂への入り口。赤い暖簾が掛かっている。
タケはそこに吸い寄せられるかのように、暖簾を手で捲ると、廊下の先へ進んだ。
◇ ◇ ◇ ◇
丸く囲まれた岩の隙間から、動きに合わせお湯が溢れて流れ出た。
ざばざばと溢れるお湯の色は乳白色で、しっとりとした湯触り。お湯の温度はやや低めで、長く浸かっていられそうだ。
その白いの湯の中に、目立つ金色。タケは一番大きな岩に力なくもたれ掛り、湯気が消えていく空をぼんやりと見つめていた。
「本当に、何も見えないな」
タケの目に映るは、漆黒の空。そこには星も雲もない。
視界にはただ広がる闇と、視界の端に僅かに映る、風呂を隔てる竹製の壁。それだけであった。
「えっと……タケ、くん?」
空を見上げるタケに、後ろから声が飛んできた。タケは首を動かし、声の主をさぐる
「ん? ゆいか?」
タケの視線の数メートル先、そこにはぼんやりとした人影、肌色の塊と、銀色の髪――
「「えっ? ええっ⁉」」
全く同じ反応だった。お互い、どうして自然に声を掛けてしまったのか。
何故だか二人は、今置かれている状況を全く気にしていなかった。
「いや、あの。えっと」
「わ、わた、わたし上がるね!」
ゆいは咄嗟にタオルを体の前に回し、タケから体を隠した。
「い、いや、オレが上がるよ」
「ううん! じゃあ、そのお湯に浸かれば見えないから? わた、私も入るよ!」
ゆいはさささっと身をこなすと、タケに正面を向けたまま、風呂の中へちゃぷんと入ってきた。
タケは咄嗟に背を向け、ゆいから視線を逸らした。
「じゃ、じゃあ、オレは上がるよ」
タケはゆいに背を向けたまま、風呂の縁に置いたままの手ぬぐいへ手を伸ばした。
しかし、中々見つからず、掴めない。
「あの、あのさタケくん……?」
「ん? どうした?」
タケからゆいは見えない。
「あの、こんなとこだけど、ちょっとお話ししない? ゆっくりタケくんとお話ししたいなって前から思ってたんだけど……」
ゆいは何故かそんなことを口走っていた。恥ずかしさと焦りが、なんだか自分をおかしくさせてしまっている。
「あ、あぁ。構わないよ。そっち、向いても大丈夫か?」
「えっと……うん、平気だよ」
タケは手ぬぐいを探す手を湯の中に戻すと、すぐ横にいるゆいの方を向いた。
ゆいは首から下がすっぽりと乳白色のお湯で隠れていた。
「タケくんはどうしてこんな時間にここへ? 部屋を出るとき、全く気が付かなかったよ」
「目が覚めてしまってな。気分転換に部屋を出たんだが、露天風呂に気付いてさ。寝汗もかいてたからちょうど良かったよ。ゆいはどうして?」
タケは今までの経緯を自分でも振り返ると、ゆいにも問い返した。
「私もそんな感じかな。目が覚めてなんだかそわそわしちゃって。気持ちを落ち着かせに来たんだ」
ゆいも似たような状況だった。
ふと何故だか目が覚めてしまい、再度寝つこうとしてもうまくいかず、そわそわして落ち着かなくなってしまったそうだ。
「こうやってタケくんとお話しするの初めてかな。前からお話ししたいって思ってたんだ」
「オーディションの控室で少しだけ話したか。まぁでも、あの時はばたついてたしな」
こう話すとかなり前のことのようだが、これはほんの数日前。タケとゆいは、出会ってまだ一週間も経っていないのだ。
「あの時、私タケくんって怖い人なんじゃないかなって思ってたの」
ゆいが、ごめんと言った表情をタケに向けた。
「初対面の人にはよく言われるよ。目つきのせいだろうな」
昔からこんなのさ。と、軽い溜息。
「オレはゆいに初めて会った時、すごいのんびり屋さんだと思ったよ。ぼーっとしてるって言ってもいいかな」
「む。私そんなにぼーっとしてないよ」
ゆいがぷくりと頬をふくらまし、鼻下まで湯に浸かって見せる。
「あぁ。すぐに変わったよ。のんびり屋なんじゃなくて、真面目なんだってな。ゆいは何事にも頑張るタイプなんじゃないか?」
「う、うん……まぁ、そうかも」
ぷくぷくと泡を立てる。タケから視線を逸らした。
「で、でも私、どうしても水泳だけが上手くなれないんだ」
ゆいは話題を逸らすかのように、がばっと顔を上げ、タケへ向き直った。
「あぁ。気付いてる」
笑みを見せゆいに優しい笑みを向ける。
打って変わり、予想とは全く違う受け答えをされ、言葉が出なくなるゆい。どこで知られたのか思い出そうとし、
「……あ」
ゆいはもう一度顔の半分まで湯に隠れることになってしまった。
耳が熱いのは逆上せているせいではないだろう。
「でも、ゆいはさ」
一人暑くなるゆいに、タケがもう一つ声をかけた。遠くを見ている。
「ゆいは勇気あるよ。確固たる芯が一本通ってる。劫火煌月のときもそうだが、狂いのない信念がそこにある」
振り向いたタケの前髪から、雫が一滴、風呂に落ちた。
タケの目は今までにないくらい、優しい。
「そ、そんな……タケくんたちの方がよっぽど強いし、勇敢だよ。私なんかただの学生なんだし」
「職業は関係ないさ。オレはゆいの中に、確かな勇気と芯を感じているよ」
そして――タケはゆいに問いかけた。
「ゆいは……ゆいは今の状況をどう感じてるんだ?」
どこかでした発問。あのときは、夜風が吹いていた。
今は、暖かな湯気がやんわりと揺れ昇っている。
「それは、今の状況のこと? それとも、最近起きた全てをまとめたこと?」
「いや、ゆい自身の今の状況だな。どう思うって聞いた方が分かりやすいか」
タケはゆいの問いかけに答え、自分の一番欲しい答えの形を告げた。
「私は、不安がいっぱいで……怖いよ。どうして私たちなんだろうって。非力だし、巻き込まれる心当たりだってない。どうしてこんなことになってるのか、怖くて辛くて、それでいて悲しい、かな」
ゆいは俯いた。
眼下には乳白色の湯がゆっくりと小さく波打ち、ゆいの体を包んでくれている。
だが、心にぽっかりと空いた、不安や怖れという部分には、その癒しの湯が全く流れ込んでこない。
「戦いだって慣れてないし、したくもない……。こういう野宿続きの日々も慣れてないし……。でも、私、負けたくないんだ。タケくんみたいに強くも勇敢でもないけど、みんなを守りたい。だから――」
「ゆいも強いな。見違えたよ」
タケがゆいの発言を聞き、やや驚きの表情を見せた。
初めて会った時とはまるで別人だ。ゆいはタケの見立て通り、狂いのない芯を一本持っていた。
「そんな……久くんやタケくんほどじゃないよ」
「ゆい、オレはな――」
ゆいの謙遜気味の言葉を、タケが強引に遮った。
タケらしからぬその行動に、ゆいは何か違和感を覚え、俯けたままの顔をタケへと向けた。
タケの表情は、目元が極端に下がっていた。
優しい、という表情を越え、悲しみが先に強く立っている。
「オレは強くなんかないんだ。もう怖くてたまらない。ふと我に返れば、足が震えて歩けなくなる――」
「そ、そんなの、私だって!」
「――ゆい」
また、遮った。
タケ自身、失礼なことだと、分かっていた。
「オレの力はもう、殆ど残ってないんだ」
「……えっ?」
そう言うとタケは、ゆいの方へぐいと近づいた。
ゆいがびくっと固まる。
タケはゆいとの顔の距離を目と鼻の先まで近づけると、その鋭い目でゆいの両目を注視した。
肌と肌が貼り付きそうなその距離。鼻を伝う湯の一滴までしっかりと見えてしまうその距離で、ゆいは戸惑いながらもタケの真剣な眼差しを見返した。
青い、弦使いの鋭い瞳。そしてゆいは、その奥からある物を見出した。
「……た、タケくん、もしかして、魔力、が?」
ゆいは見てしまった。
タケの目の奥。瞳の深い深い部分にある、彼の“魔芯”を。
タケの魔芯は、枯れかけていた。




