Chapter14-6
先程まではゆいの頭上を確かに上昇していた。空洞状の木も、はるか下の地面も見えていた。だが、今は何も見えない。辺りは、“黒”だ。
「一体、何、なの?」
いきなりの変化に、クリスタルとの共鳴を止める。視線は一気にゆいへとズームするように戻り、目を開けると、自分の視点に返ってきていた。ゆいはこの共鳴で分かったことをすぐさま頭の中で整理した。
(上がれない。壁。“黒”。見えない……)
箇条で思い浮かぶ単語の羅列。一体今のはなんだったのか。
ゆいは自分が感じた事柄から、なんだったのかを推測する。
「――何かを守って、いる……?」
頭を上げた。頭上へ視線を向けたが、先程から変わりはない。木の遥か上。そこから先程と同じように光が降り注いでいた。
「……まさか」
ゆいの脳裏にある憶測が立った。まさか、まさかここが――。
掌に魔力を送り、長杖を呼び出す。杖先のクリスタルは魔力を吸い込み、いつもより強く光って見せる。
(この場所なら。この力なら、いけるかもしれない)
「シオン、お願いね」
ゆいは天へ向かって両手で杖を構え、一度深呼吸をして、今までになく、大きく口を開いた。
「凍てつけ大地、吹き荒れろ吹雪! 氷・地・蓮・舞。我が眼前に冷たき矢となり現れ敵を撃て!」
魔術を構成する、幾多の難解な単語。その組み合わせは魔術の数だけあり、魔術の数は無限に近く存在しているという。
口からすらすらと流れ出る呪文の羅列。流暢に発音しなければ、魔法はそれに答えてくれない。はっきりとした声量で、杖にも、魔芯にも届かせねばならない。
その詠唱に応じ、杖の蒼いクリスタルが光を放ち、足元には青白い光を放つ魔法陣がいくつも形成されていく。
展開した最初の魔方陣の外側に一つ、また一つと幾何学図形が重なり、三、四重の巨大な魔方陣をゆいの足もとに展開させた。
強力な呪文の証だ。互い違いにゆっくりと回転する魔法陣からは冷たい寒気が溢れ、白い気体となり魔法陣から溢れた。
「いくよ、シオン! ―ハル・ヴァ― グレイシア・ヘイルストーム!」
ゆいの詠唱に合わせ、クリスタルがフラッシュのように強く光って見せた次の瞬間、まばゆいほどの青い光が波動の様に生み出され、杖先から天空に向けて勢いよく撃ち出された。
溢れる氷の魔力。ゆいの踏ん張る後ろ足がずり下がりそうになる。
天に撃ち出された青い光。木々の空間を両断するかのように一直線に撃ち出され、凄まじい速度で空へと抜けて行く。
その波動が、突如空中で何かにぶつかる様にしてその動きを止めた。水を壁にぶつけたときのように、ゆいの氷魔力が四散する。
(やっぱり! やっぱり空に何かある!)
見えない壁だ。見えない壁が空へと続く道を阻んでいる。
「いっけぇぇええ!」
予想通りだった。ゆいは杖を握る手に更に力を込め、流し込む魔力の出力を上げた。
力を増した波動の反動は凄まじく、しっかり立って構えていても、少しずつ、後ろへと下がって行ってしまう。
ゆいの足は地面の土や苔を少しずつ押し出し、足跡が後ろ向きに少しずつ伸びていく。
撃ち出された青い魔力の波動は一回り二回り大きくなり、天の壁に向かって撃ち出される。その勢いは凄まじく、魔力がぶつかり、その力が流れ出た先の木の幹がうっすらと凍りつくほどだ。
ぱきり。
撃ち貫く力が強いか、壁の強度が勝るか。どちらが押し勝ってもいい状況。その状況に勝利の女神が振り向いたのは、ゆいの放った力だった。
ゆいの全力、氷結系での強位に値する攻撃魔法、―ハル・ヴァ― グレイシア・ヘイルストーム。対象を極寒の氷の波動で襲い、凍りつかせるその魔法が、何もなかった木の幹の空中に、一つのひびをいれた。
まるで、綺麗に磨きこまれたガラス板がそこにあったかのようだ。空中に出来た不自然なひびは、ゆいを不安にさせた。
空中に走るひび割れに恐怖を感じる。自分たちの見えているものが全てではない。もっと訳の分からないものがこの世には存在する――そう思うと杖を握る手が弱まりそうになる。
空間の裂傷。ひびは次第に大きく波紋を広げていき、本物のガラスさながら、透明の破片をパラパラと地面へ向かって落としている。
空洞にはめ込まれた円形の巨大な一枚ガラス。その全体にひびが行きわたったのを確認したゆいは、魔力込める手の力を次第に抜いた。
その動作に合わせ、杖先から放つ光も小さくなっていく。
ぱらりぱらりと天から降り注ぐ、透明な欠片。ガラスと違うところと言えば、ひらひらと降り注ぐところと、落下しながら砂のように消失していくところだろうか。
光の破片を彷彿とさせるその欠片は、次第にその量と速度を増していく。崩落は、時間の問題だ。
バリィン。
さながらガラスが打ち破られる音が一つ鳴った。
その音と同時に、今までよりはるかに大きな破片がはがれ、地上に向かって落下を始めた。
耳障りな音とは裏腹に、その破片は巨大な羽根の様に空気の抵抗を受けながら、ひらひらと浮遊しなが徐々に落下をしてくる。
「やっぱり、ここが――」
降り注ぐ光の粒も、巨大な羽根も、ゆいの目には映っていなかった。目に映るは、その巨大な欠片が外れた先――壁の向こう。
黒。視線の先を表現するのに、その以上の言葉はなかった。
光あふれるこの木の空洞。太陽のような光が溢れていた場所とは正反対に、壁の先は“黒”だった。何もなく、何も見えない。ただそこには、黒があった。
大きな欠片が外れたことが引き金となり、崩壊の速度を速めていく。
バリンバリンと次々に欠片が外れ始め、天は欠片の抜けた部分から黒に染まっていく。空洞内のあの明るい光は、欠片が一枚はがれていく毎に反比例し、明るさを奪っていく。
「これは……浸食だ」
次第に暗くなる空洞内。それは、単に暗くなっていくのではなかった。
壁の先の“黒”が、流れ、溢れるように、下へ下へと流れ込んできているのだ。
粘り気のある水の様に、幹に纏わりつきながら迫り、流れ込んでくる。
もう、目の先数メートルは闇の世界。こうしている間にも黒の浸食は進み、空洞内はここまで来た幹の迷路と同じように、真っ暗になってしまった。
「シオン、明かりを灯して」
焦っても仕方がない。
ゆいはこの場が完全に黒に包まれる間際、魔術を行使し、迷路の時と同じく、杖先に明かりを灯しておいた。
「あれ? シオン……?」
その光は弱々しかった。
寿命を迎え、力を失う寸前の豆電球のように、ゆらゆらと弱く揺れる、僅かな光。杖先から両手を広げたほどしか灯せていない。
同様に、手首に巻かれているブレスレットも、辛うじて指先までが見えるほどの光しか放っていなかった。
(力が弱まっているんじゃない。これは……私の力が抑えられてる……!)
何が起きているか全く不明だが、この状況はまずい。
今、背後を取られれば、間違いなく後手に回ってしまう。一番避けたいことだ。ゆいは加える力を増そうとした。もう少し、せめて自分の姿が全てともせる位の光が欲しかった。
その時だった。
……ボッ。
ガスが小さく爆発するような音。その微かな音が、闇の中のゆいの耳に届いた。
悪寒を走らせ、静寂を破る小さな音。
ゆいは思わず生唾を飲み込んだ。ごくりと鳴る喉の音が、やけに大きく頭に響く。
その音の出所を探そうと、首だけを動かした。むやみに大きく動いてはいけない。暗い幹の迷宮で学んだ教訓が生きている。
……ボッ。
まただ。またどこかで同じ音がする。ゆいは素早く顔だけ動かしながらも、辺りに気を配る。
その瞳に、小さな炎が目に入った。
(やっぱり、火の灯る音……)
……ボッ。
目で捉えた炎を必死に見つめる。その間にも、あちこちで火の灯る音がする。
火をつけているのは誰だ。その本人は、ゆいが此処にいると知っているのか。ゆいは杖先の光を消し、暗闇の中で杖を構えた。いつでも魔術を行使できるよう、構えを作る。
……ボッ。
また一つ炎が灯る。ゆいの視線は最初の炎から変わっていないが、視界の中にはもう二つほど炎が増えていた。
汗が額から滲み、目尻のすぐ横を伝い、頬、顎へと流れ落ちる。ゆいは聴神経を研ぎ澄まし、炎が灯る以外の音を探していた。
……ボッ。
(この音以外には何もない)
……ボッ。
(あの炎は、間違いなく魔力によって生み出されたもの)
……ボッ。
(魔力によって生み出されたなら、ここに魔力を行使する何かがいる筈)
……ボッ。
(こっちの魔力は抑えられている――)
……ボッ。
「誰か、ここにいるんですか?」
…………。
ボッ……。
ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。ボッ。
「な、何⁉」
いきなりだった。ゆいが闇の中に問いかけ、一拍空いた直後、今まで同じテンポで灯っていた炎のリズムが崩れ、凄まじい勢いで炎が灯されていく。
あっという間に増える炎。小さな炎は数によって明るさを増していき、空洞内は先程とは違う、炎特有の橙色の光で満たされた。
「これは――」
辺りに先程とは違った光を取り戻した木の空洞。黒に包まれ、静止した場所からは動いていない。場所はそのままだ。だが――
「ここが、さっきと同じ場所……?」
空洞内は、先程とは似ても似つかなかない。
先程までは、降り注ぐ自然光がまぶしい緑の空洞だった。空洞内にまた別の木々が育ち、僅かながら風を感じるその洞窟は、母親の体内のような暖かさ、優しさが確かにあった。
だが、今は違った。降り注ぐ自然光は全て消失し、木の幹には無数の炎が灯されている。魔力によって生み出されたそれは、たいまつの様に燃えているわけではなく、炎だけが宙に浮かんでいた。
空洞内の別の木々も、先程の様には見えず、まるで、この地獄のような場所から、壁を伝って這い出ようとしているかのように見える。暖かさ、優しさは一切感じ取れず、感じるのは冷気ではない冷たさと、無数の炎から放出される炎の暖かさ。そして、迷路に入る前に感じた、あの圧迫感。
この空気、この景観。幾多の炎が揺れるこの場所は、まるで祭壇だ。
「この場所が、やっぱり――!」
「そう、ここが、劫火煌月が眠る場所、魔法使いの祭壇だ」
その答え合わせは、突如背後から掛けられた、誰かの言葉で行われた。
血の気が引く。この声をゆいは知っている。
答えに辿り着いた驚きを一瞬にして心から消え去り、その心を恐怖の色に一瞬で染めるこの声。いつも自信に満ち、声に笑みが混じる低めのその声は、恐怖と同時に怒りの感情を呼び起こし、更には嫌いで嫌いでたまらない鎖の音と、薄暗い場所で拘束された光景までフラッシュバックさせた。
「あなたは――」
後ろを向いてはいけない。
そう分かっていながらも心を圧迫する恐れと怒りがそれを許さない。
ゆいは声がした背後へと、杖を構えながらゆっくりと向き直った。
「氷室……!」
ゆいの向き直った先、そこには迷路の出口すぐの所に立つ、氷室雹の姿があった。
ゆらゆらと揺れる炎が、雹の顔を怪しく照らし出していた。




