No.9・古河 都子は、二度御輿にのる
保険委員である古河都子は、間違った道に入り込もうとしていた。
女子が、その人生で一番やってはいけない行為は、ダメな男に惚れてしまうことだ。
それは人を嘲笑する以上に、自分の将来に見えない影を落とすことにつながってしまう。
・・・どこかで分かっていたはずなのに、あの担任の術中にはまってしまうとは・・・。
いたずらなその事件は、三ヶ月前に発生したのだった。
ーー クラスメイトに馬鹿にされまくる先生を、少女はなぜか嫌いになれなかった。
いつもヘラヘラと笑い、学級会がもめて意見をまとめるために立ち上がると、外に放り出されてしまうような担任である。
しかし、その反面、どこか芯のある男だというのを理解していたし、無茶な児童のために裏でいろいろ動いているのを見たことがあった。
これはある日、廊下で荷物をはこぶ手伝いをしたときのこと。
「・・・古河は、優しいんだな」
理科室に入った担任は、そう言って不器用そうに微笑み、彼女の頭を小さく撫でた。
まだ新任といえる歳だったが、彼の頭には枯れかけたような白髪が一本だけ見えている。
もしかして、自分たちは彼を途方もなく傷つけていたのだろうか。
古河は、触れられた所から縮むように「イエ」と返事をしていた。
いそいで廊下に飛び出し、教室に向かう足で、かすかに頬を赤らめてしまっている。
「べつにあんな男、どうだっていいんだ」
彼女は早歩きしながら、そう言い捨てていた。
これは何かの反動だ。そう、担任の思わぬキズと、懐の深さを知って、動揺してしまったのだ。
・・・そういえば、教師という仕事は、聖職者と呼ばれることもあったんだっけ。
なんとなしに思い出してしまったその夜は、いつも伝記を読んで尊敬しているナイチンゲールのことは忘れてしまっていた。
昼に見た担任の笑みと、近くで見れば予想外に太い手を思い出しながら、触れられた部分に熱を感じたまま眠ってしまったのだ。
「えー・・・この場合は、混声二部合唱だな。
お前たちが選んだ自由曲は、四部合唱になる。男女ともさらに二つに分かれるから、とても難しいものなんだぞ?」
翌日、すべての授業がすんで、終わりの会でのことだった。
音楽の教師から『手におえません』と注意があり、担任はしずしずと黒板に文字を書いていた。
「なんですか先生!私たちには、そんなもの無理だって言いたいんですか!?」
一人の食ってかかる少女に、男は手をかかげてみせる。
「だってさあ友野・・・オマエはいいんだよ。厳しい練習ビシバシやるの好きだから・・・」
「だあっ!」
机をバンバン、と叩いてみんなへの音を消そうとした友野に、委員長が声をかける。
「待って、美景ちゃん。あなたが自衛隊幹部レンジャーに憧れてるのは知ってるけど、くちびるに歌は、なかなか乗らないのよ?」
「好きな本のアピールはやめて!」
またいつものような騒ぎが始まっていたが、最前列に座っている古河は、まるで動くこともなく担任を見つめていた。
(・・・まさか、こんな冴えない男に、優しさを感じるようになるなんて・・・)
もともと、自分が思い焦がれていたのは、政府関係者とすら真っ向からやり合い、"陸軍省"と比べられまでした、"Little war office《小陸軍省》"を自宅にしていた看護の雄だ。
こんな意見もろくに通せない男で、己の瞳孔がゆるんでしまうなど、あってはならないはずである。
「よし。じゃあもう一度話し合おう。 ーーえ?俺が仕切るなって?」
少女は、盛大に机につっぷしながら、恋をはき出したのだった。
・・・想いというものは、いったいどこからわき上がってくるのだろうか。
昨日までは、あんな人に熱量を感じることなど、全くなかったはずなのに・・・。
(ああ。きっとこれは事故なのよ。
そう、自分の不注意の積み重ねがもたらした、学びみたいなものかもしれない)
なにかにつけ、難しく考えるタイプの古河は、その不思議な気持ちをそのまま受け入れることができなかった。
だから、ただ悶々と毎日を、ずれた心で過ごすことになっているのである。
「えー。 今日は、テストを返していくからなー」
そんな言葉を聞いて、なぜか胸がムズムズとしてしまう日々であった。
「・・・分数のわり算、みんなけっこう間違ってるぞー。
今回は古河がトップだった・・・よく頑張ったな」
そんな言葉が聞きたくて、勉強したんじゃない。
彼女は、いつものように答案用紙を受けとり、無言で席にもどっていくのだった。
つんとすました横顔は、窓際の席にあるので、他のクラスの体育が見えている。
(みんな、子供っぽくはしゃいじゃって ーー)
上級生たちのそんな様子を見ながら、彼女はまたぼんやりとしてしまうのだった。
ーー私はずっと、崇高な人間に憧れてきた。
先見に優れ、人にやさしく、後世に益を残す。 そんな未来を自分も手に入れたかったのだが、どうやら担任は、その中の何かを持っているのだろうか。
だから、心が惹かれてしまうのかもしれない。
少女は認めるしかなかった。 クリミアの天使が、美しい花ではなく、苦悩する者のために共に戦う者こそ天使である、と語った言葉を。
それを受け入れてからは、古河はある程度なら、素直に行動するようになった。
二次性徴を迎える年頃なので、変に思い込んでしまい、意味のない接近をくり返したり、新聞でわいせつロリコン教師を見るたび、ため息をつくこともある。
「ちゃんと、自分を考えた方がいいぞ」と必死に説教されたのは、もう別れもすぐそこに迫った時期だった。
・・・桜の舞い散る卒業式で、とっくにそんな地味男だと分かっていたのに、想いはどこからかこぼれ出てしまっていた。
彼はしかし、告白に背を向けることはせずに、願われたまま、一度だけ強い力でハグしてくれたのである。
「けっして、勘違いで好きになったんじゃありません」
淡い恋は終わりをつげ、頬に触れようとすると首をふった相手を置いて、古河はどこかへ消えていった。
担任はさびしそうに目を細めたが、少女は自分の真実の心を、しっかりと受け入れていたのだった。
・・・その後、十数年の月日が経ち、枯れ気味の熱血教師として活躍していた彼は、まだ独り身で弁当を食べていた。
それはある中学で、給食すらない田舎の毎日のなか、舞い降りた天使の話である。
年甲斐もない恋に赤面することになった彼は、後に語っている。
「・・・ずっとパートナーに縁がない人生ってことで、あきらめていましたよ。
でも恥ずかしいことに、生徒たちにはヴィジョンを持て、とか言っちゃってるんですよね・・・。だからせめて、僕も恋愛ならこういう女性に似合う相手でいたいって努力はしてたんで、よかったのかもしれません。彼女には、鼻で笑われましたけど」
同じ中学校に赴任してきた、その若くして熟れた校医は、驚くばかりの男の腕をとって、背中に回させたのだった。
そして初めて呼び出した保健室でのキスは、時間と経験を超えて、男を黙らせるものになっていたのである。
古河都子は一度も変わることはなかったが、聖職者である担任にとっては、二度目の出会いが初めての現実だった。