No.6・習志野 恭子の心の果て
多くの人が注目していた、剣道会場の表彰台から人を蹴り落とした小5女子、習志野恭子は、その時すでに全国区の少女だった。
連覇を成しとげた地区大会の表彰式で、舌打ちと恨み言めいたつぶやきをもらす3位の選手を、台上から横蹴りでふき飛ばしている。
ーー 習志野は、潔癖だったのだ。
ふだんの彼女は、トイレ掃除のぞうきんで食卓を拭くぐらい頓着がないのだが、こと剣道に関しては、美感にそぐわぬものは全て抹殺する子供だった。
その大会で蹴られた3位の少女は、そのまま泡をふいて担架に乗り、わけが知れると両名は順位剥奪、2位の選手がくり上がって壇上で縮こまることになる。
「・・・そもそも、剣道の表彰式に、台なんて必要なのか?」
いつのまにか、そんなざわついた声が、会場のあちこちから漂うことになっていた。
オリンピックじゃあるまいし。
剣道の、しかも地区大会なんかで、調子に乗ってるんじゃないよ。
それは時代のせいか、いくぶん酷い言葉もあったようで、スタッフたちは気まずそうに顔を見合わせてゆく。
もともとは、去年までの大会主催企業が、倒産してしまうという問題があったのだ。
まだ変わったばかりの協賛社代表が、心配りのきく社長で、それが結果として台を引きよせる事態を生んでしまう。
『・・・これ、体育倉庫の奥にしまってあったよ。
使えば、選手たちも喜ぶんじゃないかなあ?』
スタッフたちは悲惨な結果の対応に追われ、以前にも同じようなことがあったーーそのために、表彰台は隠されるように倉庫の奥にしまってあったーーことが知れると、恥と怒号があたりを飛んだ。
「・・・私は、べつに・・・。態度のわるい人を、武道的に注意しただけだし」
習志野は、その真実を知ることもなく、ふてくされていた。
わずかな人間だけが憶えていたが、彼女の行動には、二人の謎の師が、見え隠れしていたという。
・・・神童少女が通っている道場の主と、その孫 ーー それは、神妙ともいえる剣筋を教える者たちだった。
とくに孫は、天才中学生として、高校剣道界にまで名を轟かせたほどである。
ーー しかし、彼は部活にも入らず、道場でしか竹刀をふるわなかったため、習志野はずっと疑問を持ち続けていたのだ。
「あの・・・。部活はやらないんですか?
その方が、公式試合にも出やすいと思うんですけど・・・」
いつもは剣でしか応えてくれない少年だったが、彼女はある日、思いきって尋ねてしまっていた。 しずかに二人だけが掃除をしている、練習前の美しい時間に思えたから。
「ああ・・・」
そのときの少年は、小学生である習志野より、むしろ年の離れた大人に近い横顔を見せている。
「ーー 君とは、奇妙なことで重なってしまうね。
・・・小学校時代、ぼくは表彰台から人を蹴り落としたんだよ」
はじめて彼は、真実を語っていた。
私も!と習志野はうれしく同意するのだが、それはいけないことだね、と穏やかに諭されてしまう。
そんなワケで、彼女らは公式戦にも出場せず、師匠や警察の特練員を相手に剣を交えるのだが、少年の晴れ舞台を、習志野はどうしても見たかった。
「たまにだけど、現役の一流の選手でも、冷や汗混じりで防いでるときがある」
いつかの寂しげな顔とは違う剣気に、少女は胸を熱くしており、内面に烈火をかかえた天才に対する、痛切な共鳴もあった。
「・・・私の秘めた想いは、おそらく叶うことはない」
習志野は、そう理解していたのだ。
ーー 彼との出会いは、ただの孤独の巡り合わせであり、もし男女として同じ位置に立てば、二人は反発する同極でしかない。
幼い身体でも直感した巨星のすれ違いは、お互いの軌道を少しずつ狂わせていくものだった。
・・・悲しみにゆれる日々を生き、とても女性としては敵わない恋人が少年にできたころ、彼女は道場から体育大に籍を移してゆく。
ーー 剣だけが、自分を支えてくれるものになった。
目の前の敵を倒すことだけが、己が立っている理由になる。
前人未到の日本選手権4連覇(優勝回数は5回)、世界選手権3連覇を成しとげ、本当に彼女を抱きすくめられる、虚弱だが心の美しい男が現れたのは、引退した翌年だった。