第七話「恋しい記憶」
仄視点
「母様、母様。妖ってなぁに?」
誰かが優しい手つきで頭を撫でる。細く白い指がゆっくり上下するのを感じながら、心のどこかでずっとこのままでと願う。
「むかぁしむかしのことよ」
安心感のある聞き慣れた声が語る遠い昔話は、現世を哀れに思った彼岸の光の話だった。人を恋い、自らを捧げ、彼岸の華を現世に送った少し悲しいお話。
「ねぇ、仄」
「なぁに、母様」
膝枕の上でごろりとなっていた私の顔を覗き込むように、翡翠の瞳が映り込む。
「あなたにはだれも勝つことはできぬでしょう。あなたは誰よりも妖であり、華である。最も天に近く、そして人を知っている。それは光が願った未来に近い形でしょう」
「光は何を願ったの?」
「光は巡る命を、どうしたいと思ったと思う? 仄」
「仄」
回想の中の名にかぶせるよう呼ばれ、過去から意識を戻す。
ぼんやりとした視界の中、小さな赤い実をつけた木がさわさわと揺れた。
「珍しいこともあるものだね。君がこんなところで考え事なんて」
「来てたの、蒼山連」
何気なく隣に立った連はふっと笑い、なぜか腕を伸ばし頭に触れてきた。
「動かないで」
少し手前の左横にくっと何かを押し込められた感覚。じっと見つめてやがて満足したように笑みを浮かべる連はだいぶご機嫌のようだった。
「仄は紅がよく似合う。本当は髪もおろしてる方が好きだけど」
「あなたの好みなんてどうでもいいでしょ」
「そういう素直じゃないところも面白い」
笑う彼に「あなたほどじゃない」と返し、ふと視線を感じて死角になっていた場所に声をかけた。
「誰?」
その瞬間、思わずといったように解放された柔らかな力の気配を感じて、優しい声音を使いその力の持ち主を呼ぶ。恥ずかしげに出てきたその姿に、数日前の人形のような無機質感はない。
彼女の中にどういった変化があったかはわからないが、少なくとも悪い方向ではないようだった。
「どうして二人ともこんなところにいるの?」
三人そろうのは、あの最初の出会い以来だった。
「おばぁたちに呼ばれた帰り道」
「儀式のこと……?」
躊躇うよう口にした彼女の言葉に頷けば、夢はそっと瞼を閉じ思案しているようだった。
どこかで鳥が鳴く。空を羽ばたく薄灰色の混じった翼であちこちを飛び回る姿は、いつしか空の色に消えていった。
「夢、籠の外に出てみたいと思わない?」
僅かに訪れた静寂の間に、愉快そうな声が響く。すっと閉ざされた瞼を開け、じっと彼を見る瞳には困惑の色が浮かんでいた。
それはそうだろう。ずっと本家の奥で育った彼女にとって、外に出ることは禁忌に近いものがある。躊躇うのは当然で、そして今ここでそれを提案する彼の思惑は正直わかりかねた。
「これは夢の意思で選ぶべきことだよ。君は今まで自らを犠牲にして一族の繁栄を願ってきた。一時でも外を知れば、自ずと道は拓けるんじゃないかな」
「でも連。それが私の宿命よ。一族の為に生き、天へ還る。それが妖の生きる道」
「夢はそれで納得できるの? 外を見てみたいとは思わない?」
「…………」
「君が外へ出ている間、仄がいる。仄が外へ出ている間は君がいる。そういう形もありじゃないかなと思うんだ」
飄々と信じられないことを口にする彼を凝視してしまう。夢と顔を見合わせ、お互いに考える。
少し落ちつけてみれば、どこか急いている様子も見受けられる彼。正当な手順を踏み時間がかかるのを避ける為だろうか。
「認めて……くれるかしら」
「前代未聞だわ」
「できないわけじゃない」
「それでも……二人の華長だなんて」
彼が提示したのはそういうことだ。一族に二人とも認めさせるなんて予定にはなかったはず。
ちらりと彼を見れば、笑顔で口元だけを動かす。夢に気付かれぬよう形となった言葉は「あとで」。
「ゆっくり考えて」
彼に頭を撫でられほっと肩の力を抜いた夢は、木の実に視線を移す。
後ろを振り返り赤く熟れた小さな実を一粒放り咀嚼する彼は、いたずらっ子のように私に微笑んだ。