第五話「抗えぬ理」
夢視点
日のある時間よりも幾分か過ごしやすい宵。
紺碧の空に浮かぶは盆に近い月。数日前は円形だったそれも僅かに欠け、その姿を自分に重ねた。
華長になることを、それしか道の無かった頃。そしてそれを当然と受け入れて疑いもしなかったほんの幾日か前の頃。
華長は世襲がほとんどだから、どんなに多くの煌めく華が集められようとかなう者はいなくて。いつも他の華を引き連れて歩くことにとくに何も感じていなかった。
常に周囲から「最高の華」としての期待を受け、お作法や立ち居振る舞いも言葉遣いだって教えられたことを守ってきた。
それが閉ざされた世界のおかしな部分であると、華長候補に選ばれた頃に出会った少年は言った。
「何がおかしいの? 連」
「飼いならされた小鳥のようだからさ」
彼のその言動の意味はわからなかったけれど、それから連はいつも側で“外の世界”の話をしてくれるようになった。
時折お土産を抱えてきては二人で並んで座って、庭園を眺めながら談笑する。そんなささやかな時間が、慰めとなる。
いつ頃からだろうか、自分が疲れていると気付いたのは。
きっと出会った頃から疲れた顔をしていたのを、彼が気付いて気を配ってくれたのだと気付いたのはこの頃で。
そんな彼が連れてきた強い眼差しをした紅の似合う仄。事情があって別邸にいたという姉は背筋を伸ばし凛としていて、自分を貫くしなやかな女性。
『慎ましやかで大人しく、皆の手本となるような華となれ』と言われてきた自分がどれほど世間知らずだったのかとまざまざと見せつけられるその姿。
周囲の言葉が正だと信じ、我を失くしていた私を仄は掬いあげてくださった。世に流されること無きよう華長となる以外の道を示してくださった。
自分の為に仄を使うようで恐縮したら、それさえ笑って「気にしないで」と仰る方を本当は姉様と呼びたい衝動を幾度抑えただろう。
けれど、それは許されないことだった。
華長候補はもう自分だけだったのを、連が説得して二人にしてもらった。
華長のいない空白の期間はできるだけ短くしたい本家や御三家にとって、それは歓迎できることではなかったから。
華長がいないということは、妖の長がいないこと。つまり妖一族の力が最も弱くなる時期となる。
「夢」
自分を呼ぶ愛しい声の主に笑みを向ける。低すぎない心地良い彼の言葉が聞きたくて隣を勧めたら、首を振ってそのまま立ち尽くしていた。軒下にいる私からだと、連に直接降り注ぐ月光が眩しく見えてなぜか遠い存在に思えた。
「君の隣はもう僕のものじゃない」
その言葉の意味を理解して、本当は喜ばなければいけないのに胸がツキンと痛んだ。
「連。世界が広いなら、華長にならない私はどこへ向かえばいいの?」
満ち満ちてた時はない不安と焦燥をぶつけるように彼と相対する。
「仄が信じられない?」
「そういうことではないの。もし仄が華長となるときは、迷惑かけたくないだけ」
シンとした空間に彼の笑い声が伝わる。抑えるような小さなものだけれど、二人だけの場所ではその対象は自分だとわかるので、立ち上がり連の側で彼の服の裾を引っ張った。
「君が人のようだからつい」
「私が人?」
「そう。君は知らないだろうけど、人は喜怒哀楽を簡単に態度に出すものなんだ。前までの君には見られなかった変化だよ。ほら、そうやって裾を引っ張っるのだって今まで君がしたことはなかっただろう? 怒ってるんだ、僕に笑われるのが嫌で」
いつもの優しい顔でそう説明してくれる連。そっと抱き寄せられてその胸に顔を埋める。
「ねぇ、連。私、華長になるという役目を自分からとったら何もなくなるんじゃないかと思っていたの。最初は役目から解放されることを望んでいたのに。でもわかったわ。私は欠けていくんじゃなくて、まだ何も満たされてはいなかったのね」
月は徐々に欠けていくけれど、きっと自分はまだ空っぽだったのだ。何もないから道標のない未来を見ることができなかった。
「そうしたら連。私は変われるかしら」
「もちろん」
「ねぇ、連。だったら妖はこのままでいいの?」
「……どういうこと?」
「他の妖たちは喜怒哀楽も外の世界も知らず、理の中に生きるの? これからずっと、妖の血が絶えるまで……それで、いいの?」
自分だけが変わるより、一族中で世の流れに合わせて変化すればもっと拓けた世界が見え、より濃い血を求めることもなくなるかもしれない。
妖がいたという事実が人の中に生き続ける。理を失うことなく取り込むことができる。
大切なのは血脈ではない。妖という存在自体ではないのだろうか。
純粋な華や妖が減りつつある現状を憂いていた皆の杞憂が減ると思ったけれど。
「理を超えることはできないし取り込むなんて先の長い話だよ、夢」
再び抱きすくめられ、そっと息を吐いた。
「連……そばに、いてね」
「今はゆっくりおやすみ、夢。君は何も考えなくていいから。さぁ……」
連に髪を梳かれながらとても良い心地になって、深い深い暗闇の底へと落ちていった。
殻乃夢=空衣(妹)
殻乃仄=紅衣(姉)