第十二話「深い眠りの底で、また」
仄視点
最後の一筋が完璧に空に消えた頃、唐突に氷に触れているような刺す冷たい痛みが全身を覆った。
母を思い出していたために一拍遅れた反応を、慌てて取り戻すように炎の渦で相殺した。
開けた視界で、その黒い瞳で淡々と見据えている夢に憤りを覚えずにいられない。
「夢、日を改めましょう。こんなことになっては争っている場合ではないわ。蒼山家にすぐ連絡をとって」
「仄」
立ちあがりかけた目の前で、一本の先が鋭い針状の棒が突き付けられていた。
「逃げないで。今日ここで、決着をつけるの」
反論しようとして開きかけた口は何も紡ぐことができなかった。
顔を上げた先にいた夢の体から、若草色の影みたいなものがゆらゆらと立ち昇っていたから。
「夢……あなた、辛いんじゃないの? すぐにこんなことはやめて」
「私を追い落とそうとしてた人が何を言うの? 厭いんでしょう」
「ちがうわ! 確かに私は、華長の座を狙ってあなたに近づいた。あなたが華長にならないよう彼と手を組んだことは事実。でもあなたを恨んだことも、消そうと考えたことも一度もないわ」
偽りの仮面を剥いで訴えても、彼女は仄暗い笑みを浮かべるだけだった。
「優しい嘘なんていらない」
呟かれた言葉は冷たい色でもないのに、思っていたより衝撃を受けてしまった。
恐らく髪を硬化させ大きくさせたその棒の周りで、うっすらと筋状のものがぐるぐると回っている。その先はこちらを捕らえていた。
「さようなら、仄」
いつの間にか足に絡みついた蔓たちが、動きを封じている。
迫ってくるそれから逃げようと思えば逃げられたのに、彼女の怒りは自分が受け止めなくてはいけないのだとそっと目を閉じた。
瞼裏に浮かぶ、懐かしい日々、懐かしい人々。
『あなたにはだれも勝つことはできぬでしょう』
――いいえ、母様。私よりも強い思いを彼女は持っているわ。
『姉様と呼んではだめなの?』
――本当はこわかった。今まで築き上げた世界に入り込もうとするあなたが。
『天で、待ってる』
――自分勝手な男だった。笑みを浮かべ飄々としながら、本当は何を思っていたのか。
人間を茶化したり、夢に巷で噂の怪談を聞かせたり。
この数日間を思い返し、ふと笑みがこぼれる。
母と共にひっそりと暮らしていた頃より、なんて色濃く活き活きとした日々だっただろう。
きっと、天へ還れば味わうことのないものだ。
それを知った夢が人世を恋うのも仕方ないだろう。
でも夢は妖だ。長い時を生き、死という概念はない。
では人間はどうだろう? 短い一生の中であれだけの思いを抱いて生きる、彼らは。
ふと浮かんだ『光は巡る命を、どうしたいと思ったと思う?』という母の問いが、わかったような気がした。
光は、きっと“愛しい”と感じたのだ。小さな生の中に見つけた儚く悲しく、それでも生き続ける強さを持った、その物語を。
それはつまり、天へ還ろうと考えていた自分とは真逆のもの。おそらく母は還ることを言っていたのではない。華の役目はすなわち、人を見、人を助け、人の中に生きること。
ずっと、永久に、人世の歴史を見守り続けることが約束なのだ。
「あのね、仄」
深く思考してしまったことに、名を呼ばれてから気付いた。
はっと目を開けると、後ろ姿の夢がいた。その先にある森全体が透明な膜で覆われている。
あの禍々しいまでの夢が纏っていた力が消え失せ、辺りは静寂に包まれていた。
「私、連が好きだった。この人と一緒になるのだとずっと信じてたの」
「夢……」
「でも仄と二人並んだら、どちらも素敵で大切で、お似合いだなぁって思ったのよ」
「……それはないわ」
「そうなったら嬉しいなぁって、思ってたの。ずっと二人と一緒にいられる形はないのか探し続けてた」
空を、見上げているようだった。彼が還ったことを思い出すかのように。
「仄、私を封印してほしいの。最後のお願い」
振り返った夢は、柔らかく微笑んでいた。
告げられた言葉の意味は、その体の震えと辺りから突然消え去った力の様子でなんとなく察せられる。
「還るという方法もあるのよ」
「……ヨモツグリにね、先越されちゃったの。八鬼を森に封じこめたら、還り道が開けなくなっちゃった。今のままだとこの世界を壊してしまうかもしれない。もう、この力を抑えることができないの」
それにね、と首を傾けながら彼女は続ける。
「この森の封印を解かない為には、術者の私がこの世に残るしかないの。私は、一族のこれからを見守っていきたいから」
だからいいのだと、言いたかったのかもしれない。
いつの間にか自由になっていた体を起こし、そっと妹の体を抱きしめる。自分より少し小さい体で、どれほどのものを背負ってきたのだろう。この結末を、彼女はいつから描いていたのだろう。
「みんな、ここでお別れだね」
「そうね」
なぜあなたは笑えるの?
どうしてそこまで信じてくれるの?
どれも口にすることができなくて、ただそっと体を離す。
立ち上る銀色の煙は、徐々に夢の周りを囲んでいく。震える手を無理矢理動かして封印の儀を続けていると、高く澄んだ声が届いた。
「さようなら、仄姉様」
それは耳にこびりついて消えず、舞を捧げながら涙が頬を伝った。




