第十話「錆付いた鍵(こころ)」
仄視点
「……以上が巳上からの報告になります」
「すぐに難波を向かわせて情報を攪乱させておいて。夜中であれば見てしまった人間がいたとしても、幽霊が出るという噂を流しておけば問題ないでしょう」
報告を終えた華の一人である彼女が薄灰色の髪を垂らし一礼し去る。カタ、という襖を閉める音を残し、静寂が訪れた。
儀式から一晩が経ち、各地に点在する妖の報告や挨拶に追われ、強張った体をほぐすために立ちあがり、障子を開け庭先を眺める。赤い山法師の実は姿を消し、ただ緑の葉が照り青々しくあるだけ。昨日の曇天が嘘のような澄みきった空だが、胸中が晴れることはない。
忙しさの中でいずれ忘れるだろうと思っていた。たとえ戻ってきても高みから見下ろせるように心は高くあろうとした。
廊下を歩く音、砂利を踏む音、柱の影、その木々が揺れる度にはっと物思いから覚める。
――夢は一晩経っても帰ってこなかった。
ただ儀式に参加させないよう、一時の間森に行かせていたのだと思っていたが、朝一に来た彼の言葉はあっさりとそれを否定し薄ら笑った。
仄は甘すぎる、と。
『生かしておけば、また狙われる。負の連鎖は八鬼を呼びかねないだろ?』
全てが彼の手の平の上で転がされているだけに感じて頭に血が上った。けれどそれさえ彼はわかっていたかのように言った。
『君がなぜここへ来たか、目的はなにか、それを見失っては君の母親が為してきたことを無意味にしてしまうよ』
黙りこむ私を置いて彼は部屋を後にした。
母は最期まで何を憂いていたのか。光は何を願い現世へ渡ったのか。
人と妖の違いは一番に、永久の命であるかそうでないかが挙げられる。妖が天へ還るというのは、役目を終えて姿形が変われどただ天界へ戻っただけの話。現世に在れるのは期限があれど、死を知らないし一度天界へ戻れば再び現世に現れることはない。人は違う。今生を終えれば、その記憶が引き継がれることもなく、生まれ変わりまた一から別の人生を歩み始める。
光は何を手伝おうとしたのだろう。何を華たちに託したのだろう。
それは、いくら考えてもわからないことだった。母に問われたあの頃からいつも頭の隅にあるものだった。
それでもわかるのは、光の願った未来にはならなかったということ。
託された想いを果たせなかったのならば、現世を荒らしてしまう前に元の天界へ還るということだった。恐らく母はそれを成したかったのだろう。
思考に一区切りついたところで顔を上げ、息を止めた。
視界に鮮やかに映るは美しい空色の衣。前に結ばれた黄色い帯紐が風に揺れる。
「こんにちは、仄」
微笑む姿は変わらず、怒っている様子もない。
覚悟はしていた。それでも予想していなかった突然のことで咄嗟に何も言えずにいれば、彼女の少し高めの声が再び名を呼んだ。
「おめでとう、仄。やっぱりあなたこそ華長に相応しいわ」
「ゆ、め……」
皮肉、なのだろうか。それだけとは受け止められないほどに、無邪気なものも含まれている気がした。白い頬にほんの僅かに差す朱が、残暑を終えた涼しさのせいでは決してありえない。
「ずっと留守にしてごめんなさい。森で迷子になっちゃったの」
「夢っ……」
伸ばしかけた手を、突然後ろに引っ張られた。
背中に感じる温かなぬくもりと、今では嫌いな人のにおいが鼻につく。
「夢、彼女は華長だよ。君が対等に話せる相手じゃない。わかったらここから出るんだ」
「連」
背後にいるのでわからないが、彼の強い口調にも動じず、夢は笑う。
「二人が好きよ。遠い存在となってしまっても、私はずっと」
ひらりと黒い袖が舞った。温もりが消え夢のそばには彼が立ち、その首に銀色に光るものを突き付けていた。
「何度言わせるつもりかな。もうここに君の居場所はないんだ。わかるだろう?」
「蒼山連! なにをするつもり!」
「仄は黙ってて」
白い肌に一筋の赤色が流れる。つうと伝い、合わせ目の端を染めた。
痛いだろうに、それでも夢は動かず瞼を閉じていた。
「それが、連の答えなの?」
「俺と仄の意志だ。君は必要ない。いや、邪魔だ」
吐き捨てた最後の言葉。違う、と叫びたいのに喉がはりついて声が出ない。そもそも何が違うのだろうかと、ただ傍観することしかできなかった。
彼女を排除するのは、最初から予定していたことだ。本当の意味でそれを理解できていなかったそれを、今気付く。だから彼は甘いのだと告げたのだ。
開かれた瞳と目が合い、逸らすことができない。
「本当にそう、思っているの? 仄」
「だから何度言わせる」
彼が手に力を込めようとしたのを見て、声を張り上げた。
「ええ、ええ! それが私の望み。あなたを上座から落とし、華長になること。彼と私はそのために手を組んだのよ」
違う、と叫べば容赦なく彼は夢を手にかけただろう。それほどまでに彼の怒気が伝わっていた。
けれど、その前に力で彼を止められたかもしれない。
叫んだ後の胸の痛みを感じて、この時後悔した。
三人で一族の為に模索する道もあったのではないだろうかと、ふとよぎってしまったから。
そして歪んだ夢の顔を見て、最初から切り捨てられていなかったのだとわかった。強がって得たものは何だったの?
それでも手を差し伸べるには遅すぎた。
「……夢、君はっ!」
異常な渦巻く力の気配を感じ彼が後ずさった。まるで旋風のような見えない渦が、離れている部屋にも届き壁にしがみつく。ほんの数秒訪れたその風の後に恐る恐る目を開くと、辺りに漂う力の気配には覚えがあるのに全く桁の違う力量と虚ろな目をした夢が佇んでいた。よく見れば夢の額には二本の角が生え、黄色と緑の禍々しい刻印が白い肌に描かれている。
そして、彼女の足元から伸びた赤黒い蔓のようなものが、上空で連を縛り上げていた。




