1 いきなり攻撃してくんな!
それは突然起こった。
いつものように大学を出たオレは、いつものように駅までの道を歩いて、いつものように何も考えないまま電車に乗り込んだ。
そして、いつものようにターミナル駅で乗り換えて、いつものように最寄りの駅で降りて、いつものように家に帰る道を歩いていた。
最寄りの駅からオレの家まではゆっくり歩いても10分もかからない。
ただ、一か所だけ何となくイヤな雰囲気を感じる場所があって、今日はそこを通る時にいつもとは明らかに違う嫌悪感が襲ってきた。
何がイヤなのか、どう違うのか、言葉では上手く言い表せないのだけど、とにかく今日に限ってどうしてもそこが怖くて堪らなかった。
そこというのは、明治維新の前から建っているという大きな教会なのだが、神に祈りを捧げるべき神聖な場所ということになっているにもかかわらず、オレはそこが苦手だった。
その名の許に異教徒の存在を許さず、その名の許に累計数億人の命を奪い、その名の許に人の自由を奪い奴隷として酷使し、その名の許に未だに争いを収める素振りすら見せない『神』という存在をオレは心底嫌悪していた。
それが原因だったのだろうか。
蔦の絡まる古いレンガ壁の巨大な建物の裏を回り込むように付いている道を通って、隣接する雑木林の広葉樹の枝を避けながら速足に歩いていたオレは、強烈な光を感じると同時にほんの一瞬意識を失ったらしい。
立眩みにも似たその感覚から解放されたところで、そこが今まで歩いていた教会裏の細い道とは明らかに違う場所だということに気が付いた。
大学帰りのその時間、日はまだ勢いを完全に失ってはおらず、梅雨前のこの時期に似つかわしい些か強めの西日が雑木林の木々の間から差し込んでいた筈が、薄暗く少しばかり湿っぽい空気が籠った窓一つない狭い空間で、オレは篝火に照らされていた。
「おぉ、成功しましたぞ!」
「やったぞ!」
「これで救われるぞ!」
幾人かの声がまとまりもなく響く中、オレの目に入ったのは緋色の薄い衣装を身に着けた美少女だった。
美女というには少し成長が足りないが、それを補って余りある美しさに、オレはついその少女を見つめてしまっていた。
「私の呼び掛けにお応えいただいた勇者さま、この地にご降臨下さいましたこと感謝いたします」
鈴を転がすような、という比喩がそのまま当て嵌まるような美しい声でそう語る目の前の美少女は、涙を浮かべた目元を拭おうともせずにおれを正面から見つめていた。
「エリカさま、お手柄でございました。これよりは我々の努めにございますれば、休息の間にてお疲れを癒されるが宜しかろうと存じます」
それまでオレの視界に入っていなかったむさ苦しい巨漢が、美少女を誘導するようにこの部屋に一つだけ設けられた木製のドアを指さした。
「いえ、それでは私の求めに応じて下さった勇者さまに対して礼を失するというもの。私の呼びかけにお応えいただいた以上、最後まで私がご説明申し上げます」
毅然とした態度で巨漢の言葉を遮ったエリカと呼ばれた美少女は、改めてオレに向き直って深く腰を折った。
「ご挨拶が遅れましたこと深くお詫び申し上げます。私はここダンダラス王国はサリンジェス公爵が娘エリカ・フォン・サリンジェスと申します」
そういうとエリカは再び深く腰を折った。
「この度は我が祖国ダンダラス王国はもとよりこの世界をお救いいただくべく、貴方様をこの場にお呼び出しいたしましたところ、それにお応えいただきましたこと、心より御礼申し上げます」
「エリカさま、その様なことで頭を下げるなど、サリンジェス公爵家の姫様のなさることではございませぬぞ。ささ、ここから先は我々にお任せいただいて、どうぞご休息を」
巨漢は、エリカと名乗った少女の言葉を遮るように声を上げると、強引に美少女の体に腕を回してこの場から連れ出そうとした。
「なりませぬ! このエリカ・フォン・サリンジェスの言葉に従えぬと言いますか。ならばこの場で御身を成敗いたしましょう」
「これは異なことを。エリカさまの身を案じるこの身を成敗なさると仰るか。面白い。第46代コーセヌ伯爵の称号は伊達ではございませぬぞ」
「たとえ御身がダンダラス王国の盾と言われる身であろうとも、この場は我が伯父上より全権を託された私が差配いたします。無用の口出しはお控え下さい」
「うぬっ、おのれ小娘。口が過ぎようぞ」
「なんと仰られようと、この場は私が収めます。この身に全権を託して下された伯父上、国王陛下の名の許に」
「口を開けば国王国王と。衛士ども、エリカさまは召喚の儀に際して負傷なされたようじゃ。早急に安息の間へお連れせよ」
「私が負傷などと埒もない事を」
「それ、早くせねばお命に係わるぞ」
目の前で繰り広げられる茶番劇を見ながら、オレはここが自分の知っている世界ではないことに気が付いてしまった。
そしてそれと並行して、諍いをしている巨漢と美少女のしゃべる言葉が、違和感なく理解できることにも気が付いていた。
日本語以外話せないと胸を張って言えるオレが、金髪碧眼の美少女やむくつけき茶髪青眼の巨漢が言い争う内容が平易なものではないにも拘らず、そんな高度なやり取りを理解できているのが何よりの証拠だ。
立眩み以外の理由で発生した頭痛も相俟って少々辟易したオレは、目の前の二人のどちらに肩入れするかを躊躇なく決めると、徐に口を開いた。
「おい、いつまで続けるつもりだ、その茶番を」
湧き上がってくる怒りを堪えて口に出した言葉は、予想通り相手に通じたようだった。
「でけぇ図ぅ体しやがってそんな女の子いじめてんじゃねぇや、バカ野郎」
「な…」
バカ野郎という言葉に反応したのか、でけぇ図ぅ体という言葉に反応したのか、コーセヌ伯爵と名乗った巨漢は絶句したものの、すぐに立ち直ってオレを睨みつけてきやがった。
「身分すらも弁えぬ被召喚者風情が戯けたことを。ダンダラス王国にあっては騎士団長の技量すらもわが身の前には児戯に等しいということをその身に刻み付けてやろう」
そう言うと巨漢は振り返って背後に立つ者たちへ叫んだ。
「小娘は後だ。先にこの男にダンダラス王国の仕来りを教えてやる。我が槍を持て!」
言うが早いか巨漢は差し出された槍をオレに向かって突き出した。
「伯爵殿、それは余りに無体な行い。伯父上の耳に入ればなんとします」
「召喚は成功しなかったといえばそれで済む話よ。要らぬ気を回さずとも全ては丸く収まるわ、小娘」
もう相手が公爵令嬢だということすら忘れたように吠える巨漢は、オレに向かって更に槍の穂先を突き出してきた。
それはどこで目にしたのか、記憶の中に眠っていた武具の知識の中にあった十字鎌槍と呼ばれるものに似て、穂先の付け根に鎌を両翼のように広げた攻撃手段の広い武器だった。
ただ突く薙ぐ払うだけでなく、鎌の部分にも十分な殺傷力があるのは歴然で、相手の足を払ったり攻撃してくる剣を搦め取って、場合によってはそれを破壊する用途にも用いられそうな形態をしていた。
「突けば槍、薙げば薙刀、引けば鎌だったかな。宝蔵院胤舜、史上最強の槍使いと同じモノ持ってやがる」
「ははははは、貴様のような下賤の者でもこの槍の恐ろしさは分かるようだな」
巨漢は既に勝ったつもりで高笑いをしているし、その横では美少女が恐怖に震えて立ち尽くしていた。
きっと巨漢がこの槍を振るっているところを見たことがあるのだろう。
この国最強の戦力と自ら豪語する大男の腕前は、目の前で繰り広げられようとしている戦いの場面では、何の素養も無かったこれまでのオレにとっては、到底太刀打ちできるようなヤワなものでは無かったことだろう。
しかしながら、今のオレの目には、周りのヤツらとは明らかに違うものが映っているようだった。
「それ、覚悟せぃ!」
言葉と同時に突き出された穂先は、正確にオレの心臓に狙いを定めていた。
だからオレはその突きを、難なく体を躱して避けて見せた。
「なに!?」
確実に仕留めに来たであろう一撃を軽く躱された巨漢は、驚きの表情を浮かべて槍を手元に引き戻すと、今度は必中の攻撃を繰り出すべくフェイントを混ぜて穂先を繰り出してきた。
それは恐らく、難敵を倒すためにこれまで長年に亘って研鑽を繰り返し、戦いの場では何度も繰り出した必殺の一撃だったのだろうが、オレの目には穂先が或いは石突が次にどう動いて自分に届くか否か、突くも薙ぐも払うも一撃ごとに軌道を含めてそのすべてが明確に見えていた。
だから、今度もフェイントに動じることもなくヒョイと躱して見せた。
自分の目にした光景が信じられないかのように、
巨漢は驚愕の表情を再度浮かべ、そしてすっと目を細めると十字鎌槍の利点を活かすべく自分の武器を縦横無尽に振り回し始めた。
しかし、それはオレ相手に決して執ってはいけない攻撃だ。
何故か?
理由は簡単だ。
オレには巨漢が次にどう攻撃してくるのかが見えてしまっている。
どれがフェイントで、どれがオレに対する攻撃なのか見えている状態でどれだけ攻撃されようと、オレには全く脅威足りえない。
寧ろ退屈になってきた。
だから、巨漢の攻撃をヒョイヒョイと身軽に躱しながら美少女に尋ねた。
「もしかして、このオッサンをやっちまうとオレって捕まったりするのかな」
突然話しかけられた美少女は驚愕に目を見開いてオレを見つめ、巨漢は憤怒の形相を更に歪めて、巨漢的には一段と苛烈な攻撃を繰り出してきた。
だからムダだって。
オレにはお前が次に何をしてくるのか見えてるんだし。
とは思うものの、わざわざそのことを教えてやるほどオレも親切じゃないし、そんな義理もない。
何しろいきなり殺すつもりで槍を突き出してきたんだ。
覚悟は出来てるよな、オッサン。
「なぁ、どうなんだ。こいつを仕留めちまうとオレは罰せられるのか」
驚愕の表情を張り付けたままの美少女に、オレは尚も問いかけた。
ちゃんと答えてくれないと、ここから先事態は動かないんだけど…。
なんてことを考えていると、美少女は我に返ったかのようにオレを見て、そして言った。
「この場を制することがお出来になるのであれば、存分にお働き下さい。責任は私が」
「了解」
言うと同時に巨漢が薙いできた穂先を半身になって躱したオレは、相手に槍を引き戻す隙を与える間もなく一歩踏み込んで巨漢のこめかみに拳を叩き付けた。
それは荒事など経験したことのないオレが言うのもなんだが、最高のタイミングで人体の急所を打ち抜いた攻撃だった。
はて、オレっていつからこんなに強くなったんだ。
自分で自分に問いかけてみるが、答えが返ってくることはない。
当然だ。自分に仕掛けられた相手の攻撃が、フェイントまで含めて総て分かってしまうなんて有り得ないことだし、何よりオレには格闘技や武術の経験が欠片も無いんだから。
瞬間的に意識を失った巨漢は、膝から崩れ落ちて俯せに倒れ込み痙攣を繰り返していた。
あれ、ボクシングでいえばテンプルへのヒットだよな。
自分で格闘技をすることはなかったが、見るのは好きでよくテレビ中継でやっていたボクシングのタイトルマッチなんかも結構な頻度で見ていたから、当然あの攻撃についても知ってはいた。
でも、あんなに効くんだな、テンプルへの一撃。
ま、あぁなったら起き上がるのは無理だろ。
痙攣してるし。
ま、どうでもいっか、あんなヤツ。
「さて、やっとキミの話が聞けるね」
そう言うと、美少女は驚きを残しつつも笑顔で頷いた。