パンテラオ王国/14
休みなくぱらぱらと捲る手はようやく止まり、その頃には夜はもう明けていた。しかしペン達の囁き合う声は止まらない。集めた情報を纏めておけと仕事を押し付けられたユカナイトは床に寝転がりながら些細なものでも掻き集めてきたこの仕事ぶりを主人はもっと褒めるべきだと思うが、その主人は読み終えた魔導書を手にしたままベッドに沈んでいる。数時間程度、仮眠を取れば元の主人に戻っているだろう。それまでには纏め終わらなければお叱りを受ける事だろう。それだけは絶対に避けたいのだが、如何せん量が多過ぎるのだ。我ながら素晴らしい仕事ぶりなのだが、ここまで集まるとは思いもしなかった。本来この仕事はペリドートだ。戦闘が中心的役割であるオブシディアンはこういう細かい作業は苦手としており、アンバーは何処か抜けているため使えないと主人はそう認識して私にこの役割を与えたのだろう。しかし現実は非情である。ユカナイトは燃やし尽くす事しか出来ない、好戦的な精霊なのである。任せられたのだからやり遂げなければならない。そう意気込んだものの、結局はオブシディアンに泣きついて手伝って貰っている始末である。
「ペリドートが現れて以来、マスターはあいつに頼り切りだったな。いや、召喚陣や詠唱無しで動くことが出来る力…。腹が立つがそれが俺達とあの女の違いだ。根本的から俺達とあいつは違う。だから出来なくても問題は無いぞ。」
マスターには言わず、こっそりと予備資料として複写しておいた手記を読み返しながら、さりげなくユカナイトを励ますも「まあ、それにしては手際が良過ぎるのが疑問ですね。もともと私達は使役され、自由などありません。謂わば思考回路のあるゴーレム。魔法が使える魔導ゴーレムと言うべきかな。…話が逸れました、僕が言いたいのは精霊にしてみては人間じみている、ということだよ。」などと余計な事を口にしたアンバーに思わず溜息を吐きそうなるが、確かにそれは皆が薄々と感じていた事である。しかし主人に害を成すものではないと判断したため、誰も口にすることはなかった。
「フェネクス、君は何か知っているのだろう?先程から盗み聞きする真似なんて止してください。仮にも同じ契約した同士ですからねっ。」
纏めた書類の束をトントンと重ね、窓枠に止まった不死鳥を見上げる。床の精霊と化したユカナイトが無駄に集めてきた情報の中に紛れ込んでいた我らが主人の頼りにしてない古参兵であり、悪魔である魔神フェネクス。念のために纏めてはあるが初代国王の永遠を願い、側近の魔法使いマーリンが求めたのが、この悪魔である。彼女の願いは叶えられる事は無かったのだが初代アーサー王の死後、何を考えたのか己のために求め始め、あと一歩まで捕らえかけたと言われる。彼は詩のように美しい言葉で話していたと語るアモンは長い年月追われ続け磨耗して、今のようになったのではないかと頭を抱えながらそう話をしてくれた。
「悪魔は魂を喰らう事を許されている、天使もな。一言で言えば創造主の違いだ。」
鳥の姿から灰へと身体を消滅させて、新たな身体へと灰の中からゆらりと青白い肌が現れる。綺麗だな、綺麗だなと楽しそうにその光景を見つめるのはアンバーだけである。悪魔は精霊を嫌う節があるのだが、裏表のない見るもの全てを子供のように目を輝かせるこの精霊をフェネクスは嫌いではなかった。人間じみているのはこいつの方だろうと口元に笑みを浮かべる。…そもそも精霊に自由を与える自体が間違っているのだとは流石のフェネクスでも口にしなかった。
「妖精や悪魔は皆、そう言うわね。…許されている?創造主の違い?顔なんてもう覚えていないけれど、それだけで見下されてるってワケ?」
僅かに室内の温度が上がる。この問答を続ければ面倒な事になりかねない。もし此処で亀裂が生じれば、主人が危惧している戦力低下に繋がりかねないと目配せし、ゆったりと慎重に言葉を選びながら「私達は私達だ。精霊という、もう一つの種族だよ。様々な種族が存在していれば、当然…比較し合う事だってありますよね。人間の間でも起こっているものだし、よくあることだから…そこまで怒る理由が分からないな。ユカナイトは精霊という種族であることを恥じているのかい?」とアンバーは諌めるようにそして彼女を宥める。…そんな訳無いじゃないと唸るように声が上がったが、それ以上、言葉は続かなかった。
「あー、めんどくせえが…、おいアンバー。俺はこれから人間を引っ掛けに出て行く。御主人サマに伝えておけよ。」
了承の言葉を待たず、直したばかりの手すりに足をかけて外へと飛び出して行く背中を見ながら掻き回すだけ掻き回しておいて…と悪態を吐いたのは誰だろうか。まあ良い大体予想はつくなと思いながら、地面に叩きつけられる寸前に現れたラウムの鉤爪に己の手を引っ掛け、身体は空へと浮き上がる。右腕に纏わりついていたもう一人の悪魔が顔を出し、ラウムの前に現れる。久しぶりの仲間に御挨拶を兼ねて飛行の手助けをしてやれば、彼は人間のようにわざとらしく驚いて見せた。にたにたと笑う姿にどうしてこんなにも人間の真似をすると喜ぶのかゴエティア内共通の疑問だが、人間に紛れ込んで暮らす者はグシオンの前で成果を披露して精度を測るのだ。呑気な空気が流れ始めた。束の間の悪魔達の休息。まだせかせかと働き続けている精霊達に比べれば、彼らのしていることは屁でもないとギュシラーは思っていることだろう。仲間が一人捕らえられているのだ。穏便に済ませようと考えているアモンを筆頭に動いているラウム、オロバスの三人はアモンを除いて比較的真面目に集まりに顔を出しているため、そしてあのアモンが動いているということは彼らの中でハルファスに余程のことがあったとされている。そのため他の悪魔が動かないように抑えるのに必死なのだ。確かに起きてはならないことが起きている…余程の事なのだが、ゴエティアの悪魔達が一斉に動き出してしまえば均衡している勢力が一気に崩壊する可能性が大いにある。それを踏まえて彼が動いているのだが、裏目に出てしまってきている。だから手出しをするなとフェネクスは忠告したのだが聞く耳を持たなかった。ならば、もう全て壊れてしまえば良い。お前が動かなければこうはならなかったと指差して笑うのだ。しかしここぞとばかりに天界の奴らがしゃしゃり出てくるだろう。それはフェネクスでも避けたい。仕方がなく、こう、流れに身を任せているのである。
「待ってよ。…今から向かう位置に天使が居るよ。ムカムカする気配だな。」とラウムの苛立った声に「いやあ僕の魔法が浄化されちゃっているねえ。危ないねえ。」と呑気そうな警戒心の薄いグシオンが楽しそうに言葉を返す。どうするのかと視線を送るラウムにそのまま向かえという意味を込めて返事はせず、意図を汲み取った彼は嫌そうにしながらも目的地へ向かい続けた。
「君は君のままで居て欲しい。これは誰でもない僕の願いだよ。天啓ではないけど、僕の言葉に案内させてくれ。…それと、近くに君の探し人が居るね。そのほかにも違う気配を感じるから、気をつけておくれ。」
慈愛に満ちた瞳に複数の悪魔が映り込む。王ではないと離反していった者達。敵にも味方にもならないと宣言したというのにあちら側で一体何を企んでいるのだろうか。人の形をとっている悪魔と視線がかち合う。少しだけ悪戯でもしてやろうではないかと上がった口角は一言、二言、言葉を形作る。僅かに目を見開いた姿に成功したのだと確信を持ちながら、イスラフィルの身体を構成していた水は川に溶けて魂は仮初の器へと転送されていった。
「浄化の力は持ってなかったねえ。使い切ったらしいねえ?……それにしても"お楽しみはこれから"ね…。」
フェネクス君は一体これから何を企み始めるのだろうか。その片棒を担いでいるのは楽じゃなさそうだなあと、グシオンはフェネクスの身体と同化し始める。ラウムはラウムでハルファスの警護に当たらないといけないと言って、鉤爪に引っかかっていたフェネクスの手を裂き、城の方へと飛び去って行く。身体はそのまま宙に投げ出される。飛べない身体は大変不便である。犬や猿、人型を含めて空を飛ぶことのできる形態を持っていないグシオンはこの景色で十分な対価は得たと笑いながら息をひそめ始めた。
───
──悪魔が近くに居る。そう囁く声は空を見上げて烏の鉤爪に捕まり、騎士とは反対方向へと向かう悪魔達を見つめていた。「そうか。」と独り言を呟いたドゥムに戸惑うことがなくなったアンゲルーサには、常に彼の隣に存在している男は見えていない。まだ明けたばかりの空は薄暗く、人影もない。港ではもう既に朝市の準備をしていることだろう。漁船も戻りつつある時間帯だった。王族が住まう城もまだ起きている者も少ないだろう。当然、門も降りている。近づく影に門番は顔を上げて不審者に槍を構えることなく武器すら持っていないが、代わりにこっちだというようにひらりと手を振った。
「時間通り。流石は師団長殿!…失礼、今は勇者の友人であり新たな仲間だったな。門番には私からそう伝えているよ。ここからは歩きながら話をしよう。」
手筈通りに彼らを迎えたラヴィーラは従者専用の小さな扉を開き、ドゥムらを招き入れた。カエルムエィスの聖城に足を踏み入れたのは片手で数えられるほどしかないが祖国とは違い、パンテラオがここまで戦争に備えた造りの城だったとは思わず、足を止めて見上げてしまった。偵察しに来たのではなかったなと自嘲してラヴィーラの背中を追う。ランタンの火を頼りに普段は通らない罠ばかりの廊下を歩く。この先には王族専用の隠し通路があり、そこの階に眠るのは夜勤の兵士ばかりで起きている者は無いに等しい。案内するには一番安全な道なのだが、二つだけ不安がある。表面上では敵対する同僚であるカリブルディア・アルモニー、もう一人の同僚であるセレム・レオンハルトが現れてしまうことだ。もう少しでセレムがよく居る訓練場の前を通る。彼の前で討伐隊に合流すると言い放ったカリブルディアの件から少し様子がおかしいのだ。我々と違って王女によって傭兵から王族直属の戦士に成り上がり、王女には多大なる忠誠を誓っている。ましてやその王女がまた昔のように原因不明で床に就いているのだ。国外の者を余計なまでに警戒しているはずだ。…彼の不安は的中してしまう。
激しくぶつかり合う金属音は訓練場では聞こえてはいけないものだった。訓練場での真剣使用は禁じられている。一度、戦時中に馬鹿な兵士達が女を取り合って殺し合いに発展した残念な話があるのだ。それから使用は禁じられている。遠目から見てもあれはセレムである。その相手は城内では見覚えのない顔であり、それを知っていてもなお剣を交じ合わせるということは侵入者なのだろうとドゥムの連れであるアンゲルーサに透過の魔術をかけ、様子を窺いながら歩き始めるが気配を感じたのか、セレムは同じように気配を感じた敵の隙に乗じ、剣を弾き飛ばして振り向いた。額から垂れ落ちてきた汗に目を二度、三度瞬く。薄暗い中で一つだけ灯るランタンの光に当てられた顔は同僚のラヴィーラであり、感じたはずの気配の不一致に首を傾げた。
「真剣は禁止されているのを忘れたのか?」と苦虫を噛み潰したように顔を歪ませ、また面倒事が増えるのが嫌そうに頭を掻きながら溜息を吐いた。あの魔王襲撃により戦死したとされる魔法治癒士であり文官でもあったミストが請け負っていた仕事は同じ職に就くラヴィーラに回ってきているのだ。余計な面倒事は御免なのだろう。そしてもう他の兵士も起き始める頃であった。
「忘れてはいないが…、明日に大事な用があってな。それで…まあ、人が居ない時間帯を狙って…ハハ、見つかったのがリベルタ殿で良かったさ。きっと黙っていてくれるはず
……と、まあ冗談は置いておこう。他の奴には黙っといてくれ。ラヴィーラも面倒事は懲り懲りだろう?それで…お前の後ろに居る方々は誰だ?」
真剣を使用していた現場を見られ、顔はへらへらと苦い笑みを浮かべているが目にも隠し切れていない警戒心がありありと見えており、裾で汗を拭いながら鞘に収めた剣の柄に手を掛けているのである。流石に同僚に斬りかかる…なんてことはあり得ないとは言えない。傭兵上がりの彼は確証がなくとも、敵と判断すればその人間が自分と関わりがあろうとなかろうと始末する。そういう男だ。
「私からも聞きたいことがある。お前が相手にしている男は何者だ?私から先に言えというくだらない口論に発展しそうな言葉はやめてくれよ。…セレム、お前が警戒するように私も城内に妙な人間が入り込むなんてことは避けたい。況してやこの状況だ、誰が裏切り者か分からないからな。まあ、私はお前が裏切り者なんてあり得ないと勝手に思っている。兵士が来る前に早急に話そう。この方は剣士の件もあって勇者殿が呼んだ新しい仲間であり御友人のヴラナ殿だ。そちらの御仁は?」
白い外套の下に見えた法衣はカエルム教会の通常法衣かと目を細め、似てはいるが色や形が異なる。目の前に居る御仁については呼んだとされる勇者殿に聞けば分かる事だ。一つ疑い始めれば全てに疑問を持ってしまうらしい。一瞬、柄から手が離れかけるが警戒するに越したことはないとグッと握り締めた。
「彼は白銀王が遣わした騎士殿だ。昨晩、王国に到着し、すぐさま合流した熱い男だ。…ついでに俺と手合せをしてくれた良い人間でもあるな。」とセレムに紹介され、兜を取ってヴラナに向けて手を差し出した。癖毛のような跳ねた金髪。直す努力は十分したのだろう右側は落ち着いているようにも見える。戦争を経験しているほど歳はいっていないような生温い目だ。そして、まずこんな風貌の人間には握手は求めない。
「私はアルフレッド・エリオット。王族の守護騎士をしていた者だ。気軽にフレッドと呼んでくれると有り難い。皆からそう呼ばれていたので…フルネームで呼ばれると少々気恥ずかしいのです。」
差し出された手は剣を持つ人間特有の肉刺だらけで硬く、石のようだ。剣を振るうことしか能のない人間は加減も知らずに握り返してくるのが常だが王族直属の騎士ともなればそういう加減と言うものは身についているらしい。まだあの少年はディスティーに告げていないだろう。魔法治癒士や剣士の死に振り回されている最中だ。話す機会も中々ないだろう。となるとドゥムが出来ることは数えるぐらいしかない。
「私はただの旅人ヴラナ。私如きの者が貴方方のお力になれるとは思いませんが…、よろしくしていただけると光栄だ。」
握り返された手に少し力を込めながら顔を覆い隠す布の隙間から僅かに見える口元は弧を描いた。不気味な光景だ。しかし握り返した手に感じる感触は焼け爛れて肌は攣ったようにそれ以上動こうとはしない。見なくとも分かる酷い火傷の痕だ。
ちらほらと現れ始めた兵士達が様子を窺うように遠くから見つめており、そして朝の訓練開始時間ももうすぐやってくる。さて危機は乗り越えた。ドゥムの連れアンゲルーサという男も少年の元へと何事もなければたどり着いている頃だろう。適当に兵士を呼びつけ、ドゥムことヴラナ、アルフレッド・エリオットらを勇者が休む客室へと案内させて、ようやくドゥムの協力者ラヴィーラという役目は終わる。これから待ち受けるのは失踪した同僚が溜めこんでいた仕事である。全く嫌な役目だ。
目蓋を開いた。白一面の柔らかい布に転がり、予想していたよりも早くギュシラーは目覚める。日に当たっていた頬は他の肌より熱を持っていて起きるのがもう少し遅ければ眩しさに嫌々と目覚めていただろう。ゆったりと身体を起こし、左腕を摩る。まだ腕はあるらしい。ほっと胸を撫で下ろした。
「四時間と十数分の睡眠時間だ、マスター。ベッドに沈んだ直後にフェネクスは人間を引っ掛けに行った。それ以外に問題は発生していない、安心してくれ。」
高く連なっていた紙の山々はテーブルの上から綺麗に消えており、三束に集約されている。疲れ果てて眠っているだろうユカナイト、手伝いに巻き込まれたアンバーの二人は石の中に戻っているようだ。…伝言兼警護役にオブシディアンが残っているという訳か。昨夜、読み終えたばかりの魔導書の魔術を是非とも試しに外へと思っていたのだが、あの量を一日で終わらせた精霊達を労わるべきだ。今日は魔力の消費を抑え、過ごそう。丸めて結っていた分、解けば髪はうねり、引っ張られていた毛根がじわりと痛んだ。
「ペリドートの様子はどうだ?」と彼に預けて置いた魔法召喚陣が刻まれた布、精霊から見れば門の様子を尋ねれば「無理矢理こじ開けようとした形跡も暴れた跡も無い。」と眉を顰める。触媒である指輪も何ら変わりはない。契約違反だと此方から一方的に閉門したというのに彼女の性格から考えて見れば、その動きの無さは怪しく恐ろしいものだ。嵐の前の静けさ。とも言えるだろう。
この門以外にも外へと出る道があるかもしれないなとギュシラーは呟いた。しかし契約者に呼ばれる以外で此方に来るのは自分の魔力を使って出るという方法しかないとオブシディアンは言う。まだ口にはしないがマスターが魔法陣を閉じた術式の上からフェネクスによる魔法によって、その方法も使えないのである。
「水を浴びてくると良いぞ、マスター。思考がスッキリとするし、その蛇のような毛では外にはどのみち出れないしな。」
衛生的にも良くないとオブシディアンに押され、半ば強制的に押し込める。根からの魔術師ではないが、自分の興味をそそるものが目の前にあればフェネクスとの日常生活で鍛えられた理性より本能が勝ってしまう。空気の入れ替えをしようと窓を開ける。まだ冷たい風がふわりとカーテンを翻らせ、潮風に混じった血の臭いが嫌に鼻につく。バルコニーから覗き込めば、まだ魔物の死体が積み重なっており処理を終えるのは当分掛かりそうだ。その近くには鼻を塞ぎながらも熱心に死体を弄るものに、通りすがりの兵士達は顔を歪める者や目を逸らす者が多い。王国に雇われて彼らは魔物を研究しているのだろう。彼らの働きによって魔物について彼らは知ることが出来るのだが、確かに嬉々として死体を弄るものに賞賛を与える前に白い視線を送ってしまうのも無理はない。精霊である自分も彼らと同じような行動を起こすだろう。
その一角を視界から外せば、パンテラオ王国には穏やかな日常が取り戻されつつある。今だ混乱が収まらないのは上…、王族だ。慌ただしく文官達は城内を駆け回り、最近はほとんど毎日数回行われる王会における必要な文献を書庫から取り出し、城へと持ち帰る。書庫へ、城へと行ったり来たりの繰り返しだ。普段の重労働により柔な身体はしていない文官ではあるが、まだ仕事に慣れない者は足が攣ったように筋肉の奥からやってくる痛みに耐えている。よろけて膝をつき、大事な文献は胸に脇に抱えたままでは立ち上がることさえままならない。
「おっと、大丈夫ですか?取り敢えず床に一度置くか…ああっと、大事なものなんですね!ちょっと貸してくださいね。」
一度は手を差し出したが抱えられた大量の書物を見て、驚いたように目を丸める。見かけたことのない顔に御客人だと一早く思考が回り、迷惑はかけられないと大丈夫ですとやんわり断る。だが胸に抱えていた半分もの文献を奪われると共に、空いた手をそのまま引っ張り上げられ漸く男は立ち上がる事が出来た。また動けなくなると大変だろうからこのまま手伝いますと微笑む御客人にそんな事はさせられない。あわあわと困り果てた彼は何も言葉が浮かばず、すみませんすみませんと何度も頭を下げることしか出来なかった。
「ほっンとうに申し訳ありません!あっ、誠に申し訳ありません…!!御客人にこんな事をさせてしまうなんて…。」と無事に届け終えた途端に半べそをかき始め、すみませんすみませんと縋るように手を握る彼に思わず苦笑が浮かぶ。こんなはずではなかったんだがなあと心の内でアンバーは首を捻る。なかなか人間の真似をしても思い通りにはいかないらしい。
「ん〜、泣かせてしまうなんて、自分的には君達の力になれたかなと思っていたのだけれど、此方こそ申し訳ない。要らぬ親切だったようです。ここ最近、慌ただしく駆け回っていたのを目にしていたので何か手伝える事がないのかと思っていたのですが…。」
「い、いえっそんなことありません!貴方が声を掛けて下さらなければ、俺はあのままずっと動けなかったことでしょう…。
あれから兵士や騎士様はまた起こりうる次の魔王襲撃に備えて訓練を倍近くに…、今までは私達の手伝いとして兵士、騎士見習いがよく働いてくれたのですが、彼らも早急に育成させるべく皆と変わらぬ訓練に組み込まれてしまい…私は御客人に手伝いをさせてしまう失態を…。
あの魔王襲撃から色々と目まぐるしく変わっていく毎日です。元々体の弱い王女様も倒れてしまい、我が王も対策を講じるべく躍起になっているのです。」
これが私達が慌ただしく駆け回っている理由です。私達の足音で不愉快な思いをさせている方々もいらっしゃるかもしれませんね…と裾で涙を拭いながら話す彼にそんなものはいないと励ました。また書庫へと戻る彼に「次は自分がちゃんと動ける分だけ運んでくださいね。」と見送り、小さくなって行く背中を見届けた。第一王女ヴァリエンテが同行していた理由はパンテラオ王国までの護衛だ。その従者カリブルディアは先日の魔王襲撃後から行方知らずで、勇者が気にしている事案だったはずだ。しかし王女ヴァリエンテの中身がそうやすやすと倒れるだろうか、かのニヴィアンが気に入っている勇者を放っておくのだろうか。
「湖のお姫様達も僕と同じように何かを探りに来たのかな。それともニヴィアンのお気に入りの器にご挨拶、かな?」
そんなわけなかろうと自嘲しながら、今まで感じなかったものが背後から薄っすらと浮かび上がり振り返った。ゆるく一つに結んだ髪を肩口から垂らし、気の強さを表してるかの如くつり上がった片眉は不機嫌そうにピクピクと動いている。此処で彼女から情報を引き出すか、もしくは倒すことが出来るのなら本望だが生憎戦闘に向かない魔法しか使えないのである。これほど力の弱い湖の乙女は下位の妹達だろう。ちょっかいを出して上の三姉妹を怒らせれば、とばっちりは御主人に向かうのだ。ピッタリとニコリとした笑みを貼り付けたままでいると腕を組んで此方を睨みつけたまま敵意も何も動きを見せなかった湖の末女はアンバーの耳を再起不能まで追い込む、頭のてっぺんから出したような金切り声を上げて髪を掻き毟った。そして床に蹲り、子供のように声を上げて大粒の涙を流し始める。その声は書庫へと再度資料を取りに行ったはずの新人文官君を足を止めて何事かと引き戻し始めたり、ディスティーを探してモストロとぶらぶら散歩していたグラディウスを呼び寄せ始めた。不思議そうに見つめる少年とは正反対にえぐえぐと泣きじゃくる彼女の背中をさするモストロは何があったのかとアンバーに問うも彼もまたいきなり崩れ落ちて泣き始めたとしか言えずに、どうしようもない大人たちだなとグラディウスは深い溜息を吐いた。