パンテラオ王国/13.5*
休題「天使の意志」
太陽は眠たげに目蓋を開き、滲むように空には明るさが広がっていく。目蓋を照らす朝日に巨狼は目を覚ました。昨夜の狩りは腹も膨れて良い気分であった。失礼な事に己の腹を枕にして寝ていた者は熟睡していた自分を置いて消えていた。顔を洗いに行ったか、剣でもぶんぶんと振り回して居るはずだと目蓋を閉じて、また眠りについた。当の本人は遅く眠りについたというのに身体は時間通りに起きてしまって彼の言う通り、剣を振るっていたらしく川に足を浸して涼みながら干し肉を食べている青年の近くには短外套が干してあり、その下には磨かれた手甲やブーツが乾かされている。静かに青年は溜息を吐いた。次の目的地であるカエルムエィス王国に向かうには海を渡らねばならない。海は果てしなく広がっているというが、最果てには奈落の底へと落ちる滝があるらしい。すっと目蓋を閉じて想像してみるも、やはり想像もつかない。…その滝の下には何が広がっているのだろうか。此処とは違う世界が広がっているのだろう。昔のように共存していた世界が。カチリと何かが噛み合う音が鳴る。それはそうなってはいけないものだと頭の片隅で誰かの声が聞こえた。
「君は勇者なのに随分と無防備だ。今なら不完全な僕でさえ倒せてしまうよ。」
新たな声に意識が再浮上する。敵意がなさそうにケラケラと笑うガーストの身体を操る者。顔は死人の如く青白く、そして背中には鳥のように四枚もの灰色の翼が生えていた。ばさりばさりと翼を広げるたび、水面に立つ足先から振動が伝わって波紋が広がる。「魂の定着は行なっていないから翼もまだ動かし辛いのだけどね、どうしても君の顔が見たかった。」と幼子にするように優しく髪を撫でた。少し傷んでいる髪はバリバリとしており、撫でるのが癖になりそうだときゅっと三日月のように口角が上がる。主がこうも人間を愛でるのはこういうことなのだろうか。
「どうしても君に謝りたかったんだ。僕の友人が君の仲間を殺し、剰えその亡骸を使っていることを。僕は身体が消滅しても、魂は天にも昇らず、地にも堕ちない。そもそもそんな概念は持ち合わせていない種族だと言っているのに彼はこの身体…ガースト君の弱みに付け入って…、まあこの状況に至っているのだけれど。その代わりに何だけどね、良いことを教えてあげる。君に蓋された記憶の手掛かりを。」
友人はこの事を許さないだろうけれどと心の中で呟くイスラフィルは心当たりがあるように目を見開いたディスティーの頬を撫でる。さてこの選択に僕はまだ不安があるが、これは彼と彼のためにもなることだと思っている。君らの種族は神に愛されているというのに、その愛は平等に行き渡らない。ならば神の手足である僕達が君らを愛そう。そのための選択であった。
「……それを思い出して一体何になる。俺に誰かが思い出させないように何かをしたのなら、そのままでいい。今更、思い出しても何か変わるわけでもない。」
頬に寄せられた冷たい手を振り払い、本当の目的は何だと睨みつけるがイスラフィルは悲しげに眉を下げるだけだった。
「気づかぬうちに選べるものも選べなくなってしまうよ。君のためだけにエレインが鍛えた剣もこの様子じゃあ使っていないようだし、侵食も相当進んでいる。まだ分からないのかい。近いうちに君は君でなくなる。君という人間は、ディスティー・バシレウスという人間はいなくなってしまうんだ!まだ、分からないというならありったけの力で頬を──」
視界の端で水飛沫が上がった。それも見えたのは一瞬で、右頬はリリィに殴られた時のように鋭い痛みが僅かに感じたと思いきや今度は視界は半回転したのか目まぐるしく変わってしまった。咄嗟についた手により自分は今、殴られたのだとイスラフィルを見るが手は開いたままであった。いや、そいうことではない。何故殴られなければならないのか。「それは君が分かっていないから。警戒するのは分かるけど過剰な敵意は判断を鈍らせるよ。」と頭を鷲掴み、言い聞かせるように一つ一つゆっくりと言葉を口にする。剣を渡した女も両親の記憶を思い出させようとするこの男も敵だと言うのに、どうしてこうも俺を気にかけるような素振りをするのだろう。青空のように澄み渡る瞳を覗いてもそこにあったのは優しげな温かい何かだった。森の奥に潜む虚ろな瞳に映る天使の手が広がり、目蓋は閉じられた。青年を守るように包み込んだ翼は痛々しく付け根から血が流れ、まだ灰を被った彼らの象徴に滲んでいく。この堕ちた身では翼を生やすことすら穢れを生む可能性を孕んでいるというのに、ましてや切り落とされ、まだ身体を精製している途中だというのにも関わらず、自分は何をやっているのだろうと自嘲する。主に愛されている唯一の種族だからではないかと問われれば頷くだろうとは思いつつもこれは個人的感情なのだろうなと笑みを深めた。彼らのためなら禁忌も犯そう。主人も許してくれるだろう。
抜け落ちた羽根は地に堕ちることはなく、硝子のように割れては最後には砂の如く空へと舞う。はらはらと崩れゆく翼を美しいと手を伸ばしたくなるのは罪なのだろうか── 靡いた灰色の髪はするりと手から抜けていく。その手は幼く小さいが、自分の手では無いことだけはわかる。既視感は瞬き一つで消え失せ、目の前に居るのは灰色の髪を持つ青年ではなく、ガーストの身体を操るイスラフィルだけである。
「君は君のままで居て欲しい。これは誰でもない僕の願いだよ。天啓ではないけど、僕の言葉に案内されてくれ。…それと、近くに君の探し人が居るね。その他にも違う気配を感じるから、気をつけておくれ。」
最後まで笑みを絶やさずイスラフィルは川へ溶け込むように消えて行く。どうして敵を気に掛けるのかと去る際に尋ねれば、彼は"君が人間だから"だと答えたイスラフィルの真意は分からなかった。
───おかえり、イスラフィル。
まだ靄がかかる頭に響いた声に目蓋が開く。振り払うように軽く頭を振れば、慣れない身体では加減が分からず壁へと激突する。その衝撃に微睡みから目覚め、笑いを堪え切れていない口元を必死に抑えているレナトゥスに枕を投げつけながらも何とか起き上がる事に成功した。
「おかえり、イスラフィル。魂の旅は楽しかったか?それでどうだった?彼は話を聞いてくれたか?刻印は何処まで進んでいた?」
ずり落ちた眼鏡を直し、口早に尋ねる姿は興奮気味で此方の体調を気遣っていないと見た。やれやれと溜息を吐き、いつの間にか変態に乱されていた衣服を整える。この女は性別を問わず身体が好きだ。勿論、交わることも。セヴィリアールが持ち帰った人間の女にも手を出して、彼女に怒られていたなと関係無い事を思い出してしまった。
「魂の旅は楽しかったよ。でも戻ると身体が重くて仕方がない…けど、生きているということを感じることが出来るね。ああ、話は聞いてくれた。でも彼がそうする保証はないから彼女達に強引な手を使ってでも連れて行ってくれと頼んであるから安心して。刻印は何処まで進んでいるのか分からない。…それと、この身体は借り物で中身は僕だということを忘れてない?」
天は二物を与えずというのはこういうことだ。幾ら容姿端麗と言っても中身はこの様だ。皮を向けばただの変態である。頭の痛い話だ。だから彼も外へは彼女を出しはしない。別理由もちゃんとあるが、大部分はこの異常性だとイスラフィルは解釈している。いや、そもそもこれにあれを与えたのは人間だったなと溜息を吐いた。
「君はまったく残念な種族だ!いや、身体は美しいが生殖機能がないなんて…ああ、何という悲劇…。セヴィリアールを見習いたまえ!求めれば何度も…何度も…、もう無理だと叫んでも…、その声が枯れ果てても、気を失っても…、私が動かなくなっても…!彼女と肌を重ねた後日は、もう…その行為を思い出してしまい、身体も動けないというのに…また彼女を求めてしまう私が居る。淫魔…というのは良いものだな…。彼女がサキュバスではなく、インキュバスならば私の腹は膨れていただろう…。」
「君にはそんな機能は無いだろう?」と始まってしまった一人談議を水を浴びせるかの如く冷たい声が、うっとりとしていた彼女を現実に引き戻した。
「まあ、そうだ。私にそんな機能は無いが楽しむ事は許されている。何故、師が私の他にレナータやレナートを造ったのかは定かではないが、その行為を楽しめということではないだろうか?まあ…レナートは面倒臭がりでしてくれないが、やはり性別の違いだからかセヴィリアールとは違うものを感じる事が出来る。レナータは私とは少し嗜好が違うらしく、痛みを感じる事が好きらしい。外へ出ては傷を作って、笑みを浮かべている。師はレナータの錬成を少し失敗したのではないかと思ってしまうな…。断然、交わった方が良いというのに。」
君が大失敗だという言葉を飲み込み、肌を這う手を掴んで服の下から追い出す。悪魔の種族の一つである淫魔はイスラフィルの種族とは相容れないため近づくことはないが、何も属さない彼女はイスラフィルにとって天敵でもあり、螺子があれば良き友人である。微妙な関係であり身体は男である今のイスラフィルはレナトゥスには良い獲物だろう。動きも鈍いものが目の前に転がっていればみすみす逃すものはいやしない。今日に限ってか、狙ったかのように彼女はなんとまあ人間の男では大喜びするような脱ぎやすそうな服であり、そして身体もまた人間の女が好きそうな身体である。借り物の身体に伸びる手を掴み、彼女の眼鏡を奪い取って部屋の隅へと放り投げる。こうすれば動けなくなる彼女は自然と黙りこくるのだ。
「僕はイスラフィル。人間ではないよ。それを忘れたのは君だ。男が欲しいなら君の亡き師のように自分用の人形を作ればいい。同じもの同士なら分かち合う事が出来るだろう?全く…平常心を保っている理性的な君は好きだけれど、興奮しきった君は嫌いだ。」
「それが出来れば苦労はしない。生憎、そういう機能もついていないんだよ。私は。まあ、すまない。君が君だと忘れて一人盛ってしまった。ふむ、これは誰に向ければ良いか…、いや…何でもない。少し待っていてくれ、後で話の続きをしよう。眼鏡は何処だ?」
漸く理性を取り戻した彼女に眼鏡を在り方を教え、砕けかけた腰を摩りながら部屋を出て行く。彼女の犠牲になるのは誰だろうかと考えながら憑いて来てた男に声をかける。あの状態では彼女は気づいていないだろう。影から現れたその男には気配はなかった。しかし禍々しさは抑え切れていない、いやイスラフィルが天使だからこそ感知出来たのである。この男は闇そのもの。闇から生まれたものだ。人間の言葉を借りるなら魔王と形容するだろう。だがイスラフィルが認識している魔王というものは友人である彼だ。彼も目の前の男と同じく瞳の奥には優し気な色があった。その存在に似つかぬほどのものが。
「…まさか天使や神徒までも引き込んでいるとは思ってもいなかったな。この俺に気づくのは俺とは違う神聖さを持つ聖域の物だ。」
影から一歩踏み出し、男はそれ以上近づきはしない。魂は天使であっても人間の身体である以上、神の加護や力を扱うことは出来ない。故に魂を守る術は無い。如何に天使であっても剥き出しの魂ではこの男そのものが瘴気のようで忽ち死に至る。蘇りはしない、永遠の死だ。使命を終える前に死ぬのだろうかと思うと、寒気が身体に走る。影響を受けない範囲外であっても、男はイスラフィルにとって死そのもの。感じたことのない最大の危機に借り物の身体が逃げろと叫んでいる。
「そう怯えるな、お前が俺の敵でなければ近づきはしない。聞きたいことがある。お前達は魔王に隠れて何をこそこそとやっている?返答次第ではお前を葬り去ってやろう。」
この男は一体何者か。どくりどくりと動いていないはずの心臓の音が聞こえる。レナトゥスが戻ってくれば彼女を構成する素は土へと還るだろう。その前にこの男をどうにかしなければならない…!
「は……っ、…僕は、僕の意思で一人の人間の、ために動いている…!この計画が彼に伝わってしまえば…、全て何もかもが終わりだッ。彼という人間の命も、このせかいも!!例えお前に殺されようとも僕の意思と同じものを持つ彼女らが完遂するだろう!」
張り上げた声に呼応した翼は本来ありはしない人間の背中から現れ、人の形を保っていた闇を切り裂いて男の身体に歪みを生み出す。愉快そうに堪らず上がった笑い声を押し殺し肩が揺れる。その笑いを掻き消すように腕を少し振るえば、その手が届いていないというのにイスラフィルの意思とは関係なく身体は壁へと叩きつけられ翼は始めからそこにはなかったように消えた。
「そうか…。お前は俺の敵ではないか。エレインやその神徒もな。それ以上、協力者は増やすなよ。…ああ、でもレコという男はその人間の幸せを願っている。いずれお前達の目の前に現れるだろうな。…湖の乙女の一人、ニヴィアンには気をつけろ。そいつが誰よりも狡賢く、危険な存在だ。」
男は影へと戻り、邪悪な気配は消え去った。何者だと思考を巡らす前にもう駄目だと膝は折られ、無様にも床に這い蹲っていたところ騒ぎを聞きつけたのかウィルクルムが現れて身体を支えられて充てがわれた自室へと運ばれる。天使の力を無理矢理引き出した所為か身体は鉛の如く重く、魂が入れられた時のように言うことを聞かない。彼は何も自分に問うこともせず、額に水を染み込ませた布を乗せるなど手当をしている。
「…ウィルクルムはすべてをしっている、ね。かれはどうなるの、ぼくはちゃんとみちびく…こと…を。」
たどたどしい言葉は途切れ、「今は眠りなさい」とかけられた声を最後に彼は眠りについた。暫くは目覚める事はないだろう。あわよくば戦いが終わるまでこのままで居て欲しいものだと老練者は静かに扉を閉めた。