パンテラオ王国/13
灯した火が僅かな空気の流れに左右に揺れ動く。受け皿には溶けた蝋がいくらか溜まっており、火の主は書物に読み耽っていた。ミルターニャから勝手に拝借してきた旅行記。勇者ストム・グァンガンが率いた討伐隊のものである。だが伝えられている内容とは程遠いものであった。魔王に放たれた魔物と恋に落ち、討伐隊を離脱して逃げるも食い殺されたという有名な話ではない。国が言っていた魔王の根城に攻めるも魔王を倒せず死んでしまったという話でもない。これには手記の主である魔法治癒師マリーが逃げ出した勇者を始末したと書かれている。書庫に厳重に封印されていたのも頷ける内容であった。ディスティーを疑いはしていないが、彼は半ば成り行きで勇者になった人間だ。もしかしたらという可能性だってある。その状況に陥れば、減った戦力がまた大幅に減る。ということは旅の続行は不可能になる。もしもの場合に彼が始末されぬよう聞いたところもあるが、…悪魔フェネクスとの現在の契約の中に行方不明の悪魔の捜索及び救出が含まれている。此処で歩みが止まれば、心臓が止まる。悪魔の契約は命を代償とする。今までのは寄生に近いもので代償はない。だが正式に契約した今となってはそれが含まれ、捕らえられている悪魔の救出さえ叶えばその事項は破棄される。永遠の命には興味はない。心の奥底にあるのは俺達の幸せを壊した、俺らの人生が狂い始めた原因の魔物を、…殺す。
身体に住み着く悪魔はそれをせせら笑う。確かにその目的のために剣を取ったが、こいつは向いていなかった。自分でも気づいていたはずだ。嫌いではあるが、人間というものは面白いとフェネクスは目を細める。
「…すまない、少しだけいいだろうか。」
扉が開かれた途端に空気の流れが変わった。火は頭を大きく揺らして暴れ回り、寿命だと言うように白い煙を一筋吐いて眠りにつく。文字は闇に溶け消え、ギュシラーはようやく顔を上げた。自分の持つランプとは違う灯りに目を細め、照らされた顔は何処となく魔術を教えてくれていた先生に似ている。この王国の精鋭の一人である魔術師の名は他国に居た頃にもよく耳にしていた。ラヴィーラ・アイテル・リベルタ。ケーニヒではないのにも関わらず、彼らの研究、結界術の術式開発に参加して大きな貢献を与えた人間である。
「話を蒸し返すようで悪いが、魔法治癒師についてどれぐらいまで知っていた?セレムの奴が同じことを勇者にも聞きに行っている、だから正直に答えて欲しい。」
馴れ合うことはせず旅を続けていた彼らは仲間について知らないものが多い。ディスティーは特に多いだろう。だが一方的に何かを知っているようだが、マリーの場合はどうなのだろうか。…彼女がマーリンという魔女だということを。また王女ヴァリエンテは彼女の正体を知っていた節がある。精鋭であり側近である彼がこう聞きに来るとは彼女と王女が何か関係しているのだろうとギュシラーは息を小さく吐いた。
「あいつは魔女マーリン。王のために不老不死になる方法を探してるっていう有名な魔女だろ?それがわかったのも最近だし、詳しくは知らないぞ。」
蝋燭にまた新たに火をつけ、そろそろ部屋に戻る時間だなと溶けた蝋を見つめて、手記を閉じた。内容も大体は覚えた。もうこれは必要ない。彼の様子を盗み見れば何か考えたように顎に手を当て、そして目蓋を開いた。
「…そう、か。質問に答えてくれて感謝する。勇者の方は何も知らないらしいな…。質問の意図がわからなかっただろうから、答えておく。魔王の襲撃中に何者かが王女に呪いをかけた。その犯人をそいつだと私達は見ている。…はあ、色々と起き過ぎて頭がこんがらがるな。」
眉間に見事な深い皺を作り上げるラヴィーラにギュシラーは同感ですと頷いた。
「カリブルディアに聞けば一発だが、あいつに殺されてるから顔を見るたび腹が立つ。まー、王国でこんなんになってんだから道中も大変だったろ?」
ギュシラーはあえて何も聞かなかったことにして初っ端からと答えた。その言葉に苦笑いを浮かべた。今回のはミルターニャが輩出した歴代の勇者の中でも、相当訳ありの人間だと噂には聞いている。例えば何もないところから剣を出現させてみたり、中々ぶっ飛んだ思考の持ち主だとか。例の魔術、そして黒髪とくればバシレウスの血縁者だろう。一体何処で見つけてきたのかと、その面ではミルターニャを尊敬してしまうがあの国は色々と危ういところもある。滅びる前に妹を祖国に連れ帰る必要があるなと頭を掻いた。
「そうだと思ったよ。…まあ、これから話すことは個人的なものだが君らのことは友人から色々と聞かされてる。祖国のダチ、だな。もしそっちに寄ったらよろしくしてくれとも。よろしくする前に魔王に襲撃されて遅れたが、その友人から君に贈り物を託されてる。」
それは長細い箱だった。そしてこれは私からだと手渡された本には見たことのない魔術ばかりが記されている。
「こんな貴重なものを貰って良い…です、か…。」
自然と敬語になるのは不思議なことではない。一介の魔術師がこんな魔導書を貰っていいのかと震えた。早く読みたいという衝動にかられるも何とか理性がそれを押さえつける。
「今まで以上に魔物と出会うことは多くなる、最終的には魔王と戦うんだ。魔導書の一冊や二冊やっても、損にはならないよ。」
これほどまでの素晴らしいものを貰って、何か裏があるのではないかと思い込んでしまった自分が少し恥ずかしい。ふと、あれに目を行った。勇者ストム・グァンガンが率いた討伐隊の手記である。ミルターニャを陥れる可能性も秘めているものだ。…とは言っても、そう簡単に崩れてしまうものなら討伐隊の存在がなくとも、きっとあの国はとうの昔に滅びていただろう。
「貰ってばかりでは此方としても気が引けるし、それに仲間が色々と…あれなもので、俺からも受け取って欲しいものがあります。」
そう判断したギュシラーはその旅行記を彼に渡してしまった。これがどう動くのかは分からない。もしこれが原因で国々の状況が変わってしまうのは、魔王が倒されてからの話である。今は仲間の尻拭いをするべきだと、そう彼は考えたのだ。ぱらりぱらりと軽く読み終えたラヴィーラは、これに魔法の痕跡が残っていれば居場所を特定出来るかもしれないと思った。
「これがあれば進展しそうだ。礼を言おう。ありがとう、Mr.ギュシラー。」
笑みを浮かべ急いで解析すると言う彼は書庫を去って行った。贈り物も気にはなるが、ディスティーと今後の話について約束がある。ギュシラーは静かに蝋燭の火を吹き消した。
息をすうと吸い、言葉を唱える。使いの白鳩が頭上を舞う。止まり木のように手を差し出せば、器用に腕に止まってラヴィーラの瞳を見つめた。平和の象徴はよく調教されているらしい。平和のためにと行動している主人は裏では悪どいものまで手を染めているがと何だが良いのか悪いのかよく分からなくなってくる。学生時代からの友人だがこの調子で働き続ければ早死にしてしまうだろう。…何か疲労回復に良いものを贈ってやろう。とラヴィーラがそう思っていたとき、ノックが数回、室内に響いた。音もなく扉は開く。彼は驚きも何も反応はせず、反対にその訪問者に呆れていた。カリブルディア・アルモニー。彼の元同僚である。
「余計なものが入り込む前に、早く閉めな。」
すまんと笑って、カリブルディアは扉を閉める。その途端に壁が発光し、擬似魔法陣が浮かび上がって部屋に結界が覆った。ラヴィーラの部屋は自分と認めたもの以外入ることが出来ないよう仕掛けられている。また外部からの干渉も出来ない。城の中で一番安全とも言える。密会などには持ってこいの場所だ。
「セレムからはもう情報は入ってる。さっさと用件を言えよ。安全とは言っても、相手は妖精ニヴィアンだ。油断は出来ない。」
そう言ってラヴィーラは結界のもう一度重ね掛けをし、もし勘付かれたとしても時間を稼げることが出来る。この数少ない協力者は頭の回る奴だとカリブルディアは笑った。彼は王女ヴァリエンテが妖精ニヴィアンだと知っている人物の一人だ。だがカリブルディアとは正反対の位置にいる人間だ。忠誠を誓っている。…ように演じている。
「カリバーンは取り戻すことには成功したが、選定の剣ではなく聖剣として作り変えられてしまった。…名はエクスカリバー。…は話したはずだ。新しい持ち主はアウラザーム・ペンドラゴン、現アーサー王の妹君だ。剣が既に選んでしまっていた。」
「最初からその娘に渡す気だったんだろ?それにペンドラゴンの血を引く人間なら選ばれる可能性も高かったし、結果的には良かったんじゃないか?」
初代国王アーサー・ペンドラゴンが引き抜いた選定の剣。彼以降引き抜くことが出来たのは誰もいなかったが、数年前に王女の一人スレクェアが引き抜いてアーサーの名を引き継ぐこととなり白銀王と称される王となった。しかしそれには裏があるとされる。兼ねてから縁のあった湖の乙女が引き抜かせたのではないのかと。白銀王スレクェアが選定の剣を引き抜くことの出来る素質も器もこれっぽっちないのだ。
「選定の剣はアウラザームが妖精に唆されて引き抜いたものだ。スレクェアじゃない。」
カリブルディアは静かに言い放った。騎士道に背く行為のすえに折れてしまったが、かの有名な神話にも出てくる聖剣を打ったとされるエレインですら直せなかった理由は正統な持ち主が剣を手にしておらず、剣がそれに怒り、自分から折れただからだ。
「………、なるほどな。当事者である白銀王はそれを知っている。その上カリバーンまで失った。……魔王討伐どころの話じゃないな、戦争が始まる。いや待てよ…、その戦争に魔王が介入すれば、パンテラオもミルターニャも滅びる………。」
白銀王の時代になってから外政も内政も恐ろしいほどに乱れていっている。女王自身もそれに焦りを感じている。いやそれ以上だ。引き抜いたのが自分ではなく妹だと何ればれてしまうのではないのかと。そしてあの国は討伐隊の存在でようやく成り立っている。国が立っている土地には年々魔物の数が増えており、数年後には魔の土地と近接するカエルムエィスと並ぶほどになるだろう。
「魔王は国潰しには興味はない。魔王が直々に己の手で潰したのはベスティアリ王国、ただ一つだ。彼一人で国潰しが可能な力を持ってるなら、人間はもう滅びてるぜ。」
恐ろしいことをいけしゃあしゃあと言って退けた。人間は魔王のお情けで生きていられると言っているようなものだ。リベルタ兄妹はカリブルディアという男とは付き合いが長い。彼を一言で言うならば、大きい子供。自分の興味のあるものにしか興味を示さない、子供のような男なのだ。
「魔王には別の目的がある。…それが討伐隊についていく理由か。」
ああそうだとカリブルディアは笑みを見せた。何処までも馬鹿な奴だ。お前が抜けた穴は大きいというのに、これから穴埋め作業を行う彼らを何とも思わない。我が道を行く。そういう男だ。
「カリブルディア、お前も魔王も似たようなものだな。」
ラヴィーラは小さく息を吐いてオリーブの枝を咥えさせた白鳩を町の方へと解き放った。
優雅に白い翼を羽ばたかせて闇を突き進んで行く。魔物の被害は大きく復興作業は夜中まで続いている。魔術師が灯した明かりは資材を担いだ兵士が動くたび揺れながら彼らの足元を照らす。彼らを超えて白鳩は町をぐんぐんと突き進む。やがて下降し、城から遠く離れた宿屋へと壁をすり抜けて主人の元へと舞い降りた。咥えていたオリーブの枝は主人の手に渡ると忽ち折り畳まれた手紙と姿を変えた。とても読みにくい綴り字である。彼らしい文字だ。
「明朝、城へ向かう。到着後、別行動を取る。貴方の傷も癒えたことだ。主人の元へと行くといい。」
一度目を大きく見開き、ようやくかと呟いた男は待ち望んでいた日がやってくると感動に震えた。「少しの間ではあったが、世話になった。この恩は忘れない。」と頭を下げた彼を横目で見ながら白鳩の主人は手紙に息を吹き掛け、それは燃えたように灰となって夜空に消えて行った。
──
白き鳥が闇を切り裂いて行く。それは流れ星のようである。青年は久しぶりに空を見上げていた。訪ねたがギュシラーはまだ戻ってはいないと精霊に部屋に案内され、同じ構造ではあるが自身に充てがわれたものではないので寛ぐことはせずにバルコニーに座って夜空を眺めていた。ふと利き腕に目をやる。手の甲に刻まれた紋様はあの時よりも進行し、今や半身を飲み込んでいた。青年はあのガーディアン、ブラドの言葉が気になっていた。これは魔石ではない、と。
「"そう 僕は魔石ではないよ"」
鞘に収めた剣が震える。今にでも勝手に飛び出してしまいそうだ。室内にいる精霊の様子を盗み見るも今の声は聞こえていないらしく、積まれた書物と死闘を続けている。青年は魔石に視線を落とした。また呑み込まれてしまうのではと、あまり深く覗き込むことはせずにつるりとした表面を撫でた。
「"君は僕の名を覚えているみたいだね こうやって君と話せるのを この中で夢を見ていたよ "」
ふと青年はあの夢の中に登場する幼い子供の顔が浮かんだ。彼がユオなのだろう。…そして彼が自分に夢を見せていた、あの本を読ませていたと確信した。この魔石は彼の瞳によく似ている。どういう過程でユオがこうなってしまったのかは検討もつかない。
「"初めの頃は話しかけていたんだけれど 君には僕の声は届かなかった ちょっぴり悲しかったけれど 今はこうやって話せることがとても嬉しいよ"」
にこりと無邪気にユオは笑う。ディスティーが声に出さずとも考えていることは聞こえているのだろう。不思議なことだ。姿は見えないのに、近くにユオが居ることを感じ取れる。"不思議なことではないよ 僕と君たちは繋がっているから "と押さえていた剣の震えは止まった。
「"最後にね 一つだけ もうすぐあれは終わってしまうよ 終わればすぐわかる 君ならね では また会おう"」
その一言を残してユオは消えた。彼の代わりにギュシラーが書庫から戻り、胸には彼の言葉が引っかかっていた。見上げた向こうにある過去の光は口を開かない。お前は何を見てきたのか。その問いに誰も答えはしなかった。
「俺が言い出したことなのに、遅れて悪かった。あいつはまだ再生しきってないから安心してくれ。」
本と箱を大事そうに抱えて頭を掻きながらバルコニーに顔を出したギュシラーは星を眺める青年に声をかける。彼の片腕には出会った頃には無かった紋様が刻まれており、不思議そうに見つめていたのを気がついたらしく視線がかちあった。先日魔力が暴走した時に、それは赤く鈍光している。通常の暴走であれば肌が赤く爛れて皮膚が歪に隆起し、火傷のような痕となる。魔力が多いものがよくなり、魔導師のような上位にいる人間の身体には多いと聞く。しかしディスティーのような紋様が浮き上がるというのは聞いたことはない。
「それは…いつからなんだ?」「…、魔石を使い始めてからだ。支障はない。」
精霊が入れた珈琲に口をつける。リリィのオリジナルブレンドという珈琲には負けるが、苦味は此方のほうが優っていた。入れる人間によって味が変わるのか、豆によって変わるのかは分からないがこれも不思議な味がする。じっと珈琲を見つめる青年に悪戯が上手に行えた子供のように精霊ユカナイトはにんまりと笑みを浮かべて「それね、飲む人の状態や気分によって苦味が変わるの!例えば気分がサイコーなら好みものを、ビミョーなら苦味を強くってね!」と楽しそうに語った。どんな苦味だったのかと問う前に主人に仕事に戻れと急かされ、泣く泣くユカナイトは資料の山へと戻っていった。それからは淡々と今後について語る。今までは陸路で済んでいたがカエルムエィスは海を渡らなければいけない。話によれば陸路より海路の方が近道らしい。しかしカエルムエィスに渡るための定期船は週に一度しか出航せず、それは二日後にあるという。
「一先ず出発は二日後で決定だな。…マリーのことやペリドートのことはもう少し詳しく調べてから考えよう。明日には調べ終わる算段だ。情報が少ない時に話しても、それは推論に過ぎないからな。」
ギュシラーの言葉に青年は頷く。それに夜も更けてきた。雨が上がった空には月が堂々と輝きを放っていた。…この月明かりなら狩りも可能だろう。獲物が入れば、の話だが。ディスティーの影が彼の思考に蠢いた。
「ディスティーくん凄いね。流石勇者さまって感じ?」
ひゅうと下手くそな口笛が鳴る。バルコニーの手すりは魔獣フェンリルが跳んだ際に破損し、ユカナイトが書き留めていた紙らは風圧によって巻き上がってベッドの上にはらりと落ちた。夜更けに狩りに出掛けるなんて、危険な行為だが彼らは心配せずとも無事に帰ってくるだろう。あの嬉々としたフェンリルの瞳はそこらの魔物を一掃する勢いであった。
「ディスティーにとって息抜きみたいなもんだろうな。この旅は息が詰まる。」
「へえー、じゃあそれはギュシラーの息抜き?」とギュシラーが無意識に手に取っている魔導書を指摘した。
「ユカナイト、知らないのか?魔導書は名家の人間とかが代々受け継ぐようなものだぞ。俺の家は名家に仕えていたし、魔導書がどんな凄いものなのかを知ってる。稀に市場に出回ることもあるが、高価で一般人には手に届かない代物だ。それが今、俺の手の中にある!しかも貰った。読まずに何をする!賢者達が作り上げた魔術、綴った術式、魔術陣!使わずに何をする!」
興奮気味に語る拳は震えていた。ユカナイトは知っている、魔術を語り始めた主人を止められないと。また扱い方も。熱くなると彼は一つのことしか出来なくなる。普段のように技を練習する傍らフェネクスをあしらったり、私たちに仕事を頼むことすら出来ないのだ。一言で言えば単純な人間になる。
「ねえ、ギュシラー。魔導書はいつでも読めるから良いけど、その箱の中にあるものの使い方は覚えないとやばくない?一日は魔導書に費やしたとして、一日で覚えられる代物なの?」
僅かに彼の熱が下がる。疑うこともせずラヴィーラから渡された箱を開けた。そこにあったのは魔布に包まれたロッド型の杖である。杖は魔術や魔法を使うものにとって欠かせぬ補助道具だ。魔術師だと名乗ってはいるがギュシラーは召喚師に近い人間である。そして以前持っていた杖はフェネクスが召喚されてしまった際に杖が自身の意思によって折れてしまった。それ以来、杖を使って魔術を使用したことはない。手にした感覚はしなやかで粘り強く、大きさのわりに重みがある。
「これってロッドじゃなくてスタッフ。芯に金属が使われてる。材質はナナカマド。ギュシラーにピッタリじゃん。白銀王から貰った杖よりね。芯は…、うん、ヒヒイロカネ。それは一緒だけど持ち運びを重視したのかな?杖に妖精の魔法が練られてる。うんうん、大丈夫!贈り主の想いと杖の意思が宿ってる良い杖だよ!」
精霊が言うのだから間違いない。杖を選ぶときには通常、精霊が選定する。自分の手で杖を作るものもいるがそれは容易ではない。杖と心を通わせることが出来る精霊たちのおかげで魔術師や魔法使いへの一歩を踏み出せるのだ。ユカナイトによるとその妖精の魔法は杖に魔力が通わせ命令すれば発動して、杖の本来の大きさになるという。
血は通り抜けて芯まで至り、芯は脈動する。先は複数に裂け、それらは絡み合って中央にはヒヒイロカネが姿を見せた。太陽の輝きを放つヒヒイロカネにまとわりつくナナカマドは掬い上げるように覆っている。
「駄目だな。全然発動しない。」
ロッド状態の杖では自身の魔術はうんともすんとも言わなかったが、精霊を呼び出すことは成功した。
「やはりフェネクスは呼び出せませんね。しかしオブシディアンは精霊でしょう?何故召喚出来ないのでしょうか?」
実験的に呼び出されたアンバーは疑問を口にして、首を傾げた。杖に使われているナナカマドは魔除けとして有名である。いくら魔族の力を持っていたとしてもオブシディアンは精霊だ。もしナナカマドの力がオブシディアンの召喚を阻害しているのなら、悪魔と契約しているギュシラーも力を使えずに、また杖にも触れられないだろう。
「そりゃ堕ちかけだろうがお前の根本は人間だからだぜ。杖作りが言う想いって奴が杖に作用する。お前がそれを扱えるのは当然だ。」
煙草を加えながらフェネクスは灰の中から現れた。どうやら呼び掛けに応じなかったのはまだ再生しきれていなかったらしい。忘れていた。フェネクスが紫煙をふっと杖に吹きかけると、杖に煙が当たることなく彼の元へと戻っていった。素晴らしい魔除けだなと目を細めた。これで無理矢理、召喚されてしまえば身体は八つ裂きにされるだろう。だが芯はヒヒイロカネ。変化という特性を持つ鉱物。行動に一貫性がない。とても人間らしい、が一つだけ間違いを起こしてしまっている。
「忠告しとくぜ、ギュシラー。ヒヒイロカネは取扱注意だ。」
変化を齎すのは何も杖だけではない。とフェネクスは笑みを見せた。