パンテラオ王国/09*
勇者選定とほぼ同時期に行われた魔王討伐隊の参加者を決定する選定は、ディスティーが行った選定の儀よりそれは酷いものだった。勇者を選び抜く為に下級の魔物が使用されたが勇者は魔王を倒さなければならない人間しかなれないものであり、それは理に適っていると言える。討伐隊に必要な人材は勇者を支援するのに最適で尚且つ足を引っ張らない強者。そして──
彼らの選定は近距離と遠距離、自動的に剣士と魔術師との組み合わせとなる。そして二人一組で試合が行われるが各自で勝手に決めて良いため、ギュシラーの場合は異例の魔術師同士の組み合わせになったが強ければ良いという体で行われているため何も言われはしなかった。
一試合事に敗者を取り除き、二組が残るまでそれは何十回と行われた。何故一組が残るまで、ではなく"二組"なのか。その理由は討伐隊に求めるものにある。支援が得意で足を引っ張らない強者である以外にもう一つ、"仲間を切り捨てる事が出来る者"であること。
歴代の討伐隊には必ず死傷者が出ていた。数が多かったためもあるがその負傷した仲間を守る為に庇って死んだ事が多く、弱り切った討伐隊に出来た隙を突いて魔王に辿り着く前に全滅した例もあった。その点を生かしてミルターニャは密かにそれを付け加え、独自の選定方法を生み出した。
「あんたが読み違いするなんてなあ。入れ込み過ぎなんじゃねえの。」
主人の居ない室内には悪魔と精霊という異色の組み合わせで悪魔は馬鹿にした顔で笑っていた。一方精霊は窓枠に座って髪を靡かせている。仲間である真面目な男が倒れようともあれが裏切ろうとも動じないこの小生意気な精霊が入れ込み、空回りする様子は腹を抱えて笑いたいものだ。全てを内側から見てきた傍観者の立場から言わせてみれば異常な執着心だ。「二十年前」という単語を発せれば精霊は顔を上げて悪魔を睨みつける。
「俺を切り刻んだ妙な術は今だに健在かあ?」
二十年前に魔王の前に現れた討伐隊。あれは悪魔でもゾッとするような化物じみた三人組だった。その一人が使役していた精霊の中に黄緑色の髪を持つこの女が居た。
「煩い、黙って。」
精霊の中でも上位に存在していた筈の精霊がこれほどまでに弱体化するのか。フェネクスは前々から感じていた違和感に目を細めるが自分に害を与えるものでなければ関係は無い。それにあの時の仕返しを出来れば良いとさえ思っている。
「私利の為に精霊が契約するなんてなあ、夢にも思わなかったぜ。」
精霊は人間の為に生み出されたものだ。精霊は主人に逆らうような真似はせず、精々助言を与えるのみだ。人為的に生み出された架空の存在を悪魔とそして妖精は良しとしていない、寧ろ消すべき存在だと思っている輩も存在する。その精霊が自分の目的の為に動くとは。グシオンさえ居れば簡単に暴く事が出来るのだが、扉の前に立つ嫌な気配に興が削がれ舌打ちをする。
「おい、散歩でもしようぜ。」
精霊はその言葉に嫌そうに顔を歪めるが、それよりも窓枠に座っていた事に後悔した。
──
一人しか参加しなかった朝食を済ませて部屋から出れば、朝から会いたくないものと御対面する。それの監視を頼んだ精霊を抱えて。
「部屋に居ろって言ってただろ。それにフィロもどうしてされるがままになってんだ。」
「ひっでえなあ。嫌なもんを感じて迎えに来てやったのに御主人サマ。」
ギュシラーの言葉を聞くやいなや姿を消して、フェネクスの手から逃れた。
「お前を狙ってるわけじゃねえが探ってるみたいだったな。お前のかけた魔術が十分に効果を発揮してるなら大丈夫だが、俺と契約している事が知られればお前は終わりだ。面倒臭えが部屋から出たんだよ、御主人サマ思いの良い男だろ。」
惚れて魂差し出しても良いんだぜと言いた気に目を細めていかにも悪い笑みを見せるが、あしらい方を心得ているためギュシラーは反応しない。
「…最近は面倒事ばかりだな。出発する前に全て片付ける事が出来れば良いが…。」
「度重なる再契約を行い弱り切った御主人サマに俺から精霊の如く素晴らしき助言を与えてあげよう。お前らの近くに似た気配を持ったヤツが居るぜ。」
その言葉の続きは無い。だがこれ以上に情報の提供を求めれば対価が必要になってくる。正式に契約し、使役したとしても悪魔である事に変わりはない。
「王女よ。あれと似た気配がしたわ、同じ臭い。今は…、此処には居ないようね。」
風を辿るが残った香水の香りがギュシラーの部屋の前のみしか残っていない。
「…魔法治癒師の気配はあるか?」
ペリドートは首を横に振る。今ある問題の中で一番厄介なのは魔法治癒師マリーだが手掛かりは全く無い。部屋に向かった際に通り掛かった人間に話を聞けばそこに充てがわれいる人間は居らず、討伐隊にそのような人間が居たのかと驚かれて休む事を勧められた。
「あ?何だあんたらあの魔女探してんのかよ!」
常に浮かべているいやらしい笑みはそこには無く、関わりたくないと言いたそうな表情が全面に出ていた。普段は態とらしい演技がかった悪魔であるフェネクスの焦りようにギュシラーは驚く。
「あれに関わるな。特にギュシラー、お前は絶対に…関わるな。」
理由を追求してみるも頑なに口を閉ざし、「関わるな」としか言葉にしない。精霊と顔を見合わせるが精霊も魔法治癒師の事情は知らない。悪魔が何故此処まで怯え焦るのか。この様子は異常である。
「…お前が勝手に出てくる事が無くなったのは魔法治癒師の所為だったのか。」
部屋に戻ってまた追求すれば悪魔は顔を上げる。こいつは旅に出る前は常に外を出歩き、問題を起こしながら帰宅する最悪な奴で尻拭いにどれだけ苦労した事か。死んだ魚の様な目で此方を伺うフェネクスは嫌そうに頑なに口を閉ざしている。
「えっ、待って、俺まだ飯食ってない…。」
精霊に頼んでおいたフェネクスの良き理解者だったハルファス、モストロが精霊によって引き摺られるようにして現れるがフェネクスは興味を示さない。
「ちょっとちょっと…、ゾーマに何したのさ!」
ゴエティアの悪魔序列四十位ラウム。ハルファスの力を取り戻すべく、もう一体の悪魔と共にハルファスを支えている烏の悪魔だ。フェネクスとの再契約の為に協力してくれた悪魔の一体で協力した代わりに此方もハルファスの力を取り戻す為に手を貸す事を約束した、今は協力関係にある何とも奇妙な関係だ。彼らはモストロがハルファスの記憶と力を取り戻すまで自分の正体及び名を明かさない事を決めている。
「魔法治癒師の話題を出したらいきなり関わるなの一点張りだ。理由も言わず、いきなり関わるなって言われたら関わりたくなるのが人間の性だ。だがこいつが此処まで怯えるなんてよっぽどの事だろ?」
「上手に正体を隠してたみたいだけど僕らの目は欺けないよ。あの女は追いかけ回してた人間の中で最も彼を追い詰めて捕らえかけるまでいった魔女だよ。」
淡々と話す烏の鉤爪は苛立ちからモストロの肩に食い込んでおり、痛みに眉間に皺を寄せているがモストロはよく分からない話を黙って聞いていた。
「だからあんたも関わらない方が良い。関わるもの全てに魔法を掛けて情報を抜き取る魔女だし、魔法道具で存在を薄めてるから探すにも手掛かりは殆ど無いよ。それにあの国の監視官である魔女が任務を投げ出してまでやる事は決まってるし。」
感化されつつある考えを振り払い、やはりこれも悪魔だと再認識する。
「…分かったよ。これ以上魔法治癒師に関わる事は止めるがディスティーにはどう伝える?ディスティーが理解するとは思えんが…。」
「あんたってあれの本質見抜いてると思ってた。」と烏は言う。それに続け、沈黙を続けていたフェネクスが口を開いた。
「こいつには人の本質なんざ見抜けねえよ。あの時もそうだったよなあ?」
フェネクスは五年前から自分の内側に住み着いている。選定時の状況も全て内側からギュシラーの瞳を通して見ているのだ。彼は"仲間を切り捨てる事が出来る者"では無い。その正反対の人間だ。
「…本質を見抜けなくても支障は無いはずだ。それと余計な事を話すな、ゾーマ。」
「それはどうだろうね。」とそう発言したのは意外にもモストロで、それは烏も目を見開いていて彼を見ていた。
「俺は先生に会うまで保護される形でこのパーティと旅させてもらってるよな。ガーストとマリーがいなくなって事実上パーティはディスティーとギュシラーの二人だけだろ?本質…、性格を把握してないとちょっと駄目なんじゃないかな。」
頭の片隅では理解していたつもりだが実際に言われると、ああそうだったと改めて気づかされる。
「それとさ、そもそも元々少ない人数がさらに減って、旅は続行出来るの?俺さよくそういうのあんまり分からないから…。」
「言われてみれば、そうだな。…旅の続行か。」
討伐隊の参加者には特別な閲覧権が与えられる。例えば彼らは旅の道中で魔物に遭遇するのは当たり前だ。それらの対処法を歴代の討伐隊が記された物や非公開文献を閲覧する事が出来る。非公開文献の中でも興味を惹かれたのは歴代の魔王討伐隊の一人が残した旅行記。その一人とは国が参加させた監視官であり、それは事細かく丁寧に全てを記されたものだった。
遭遇した魔物については勿論の事、どのような雰囲気で彼らは旅していたのか。そして何処で誰が死んだのか。死因が書かれている部分は滲んでおり、執筆者はどんな気持ちで書いていたのか手に取るように分かる。この討伐隊は人数がどんなに減ろうとも旅を続けて魔王に辿り着き、魔王が勇者を殺し終えた所で魔王は興が冷めたのか他のメンバーには目もくれずに彼らの前から去ったという。旅を続けたのは勇者の一存で決められたとその旅行記には記されていた。
他の旅行記を探してみたが魔王の気紛れにより戻って来たのがこの討伐隊だけであり、他の歴代の討伐隊は命を落として戻って来たのは一握りの人間であった。これらはミルターニャから旅立った討伐隊のみの非公開文献であり、他国の討伐隊はどのようにして旅の続行を決めたのかは分からないが、やはり選択権は勇者にある筈だ。
「俺は旅を続ける理由はある。…ディスティーの場合は分からないが、俺がどうこう言ってもこの旅の決定権は勇者にある。」
切るのも億劫で肩まで伸びた昔は金色だった色の抜けきった髪をぐしゃりと掴んで頭を掻く。
「まあ…別に此処で悩む問題でもないな。」
白銀王の噂が真実ならば何かしらの手を打ってくるだろう。現女王スレクェアが選定の剣を抜いた事により、あの国は滅びようとしている。財政難など内側に抱えた火種が今にも世に露見しようとしており、今はどうにか討伐隊が存在している事によって防がれている。ギュシラーが耳にした噂はその爪先程度であり、彼も信憑性は低いと考えている。
「どうでもいいけど御主人、朝食食べれなくなるよ。」
慌てて部屋を飛び出て行ったモストロを烏は翼で顔を隠しながら笑い、次に顔が現れた時には笑みは消えていた。
「ハルファスが居なくなったところで少し俺様から話す事があるんだけど、アモンが勇者と接触したよ。それに紋章も渡したみたい。アモンが信用したなら僕らも信用しないといけないよ。」
「紋章…、紋章を渡せば、信用した事になるのか?」
「何でそんな事を知らないのさ。一般常識だよって言いたい所だけど、まあいいや。我ら悪魔から紋章を渡す行為は主人として認めるって事になるんだよ。契約は双方の同意がなければ出来ないから、ただの悪魔のお気に入りって事になるね。それに近くに悪魔が四体も居るからって事もあるだろうし、このパーティで契約してない人間は一人だけだから他の悪魔から狙われる確率は紋章を渡されるよりも断然跳ね上がるよ。力の弱い悪魔の紋章は役に立たないけど、アモン程の悪魔になれば襲われる確率は低いね。まあ一応勇者だし大丈夫だろうけど。」
「ちゃんとお前に紋章渡しただろ、何で覚えてねえんだよ。」
フェネクスとの契約した際の記憶は殆ど無い。左腕がなくなった痛みで記憶がどうにも消えており、大理石のような無機質な白さの裸の男が気づけば目の前にいたという何とも嫌な光景だったとしか覚えていない。
「渡したというより刻み込んだ、でしょ。もう少しマシな場所につければ良かったんじゃないの。」
やれやれとラウムは溜息を吐いた。
──
悪魔直々に説く講義が行われている頃、モストロは結局朝食にはありつけなかった。腹が減っては戦は出来ぬ。正にそれがこの状況だ。城から出て食事をしたいと思うが自分は騎士団に追われている身だ。こんな貧弱な身体では襲われれば一溜まりもない。先生と共に旅をしていた頃に襲われた時の傷は未だに癒えていない。ガーゼを取り替えようと鏡の前で剥がせば、火傷のように爛れた頬が露わになる。痛み止めを服用しているがそれは徐々に効かなくなっているため、痛みで眠れぬ夜もある。新たに調合するにも薬草を購入せねばならない。どっちみち一度は外に出なければならないのだ。こっそり外出してさっさと帰ってくればいいとガーゼを取り替えて、烏に見つからない内に城門辺りまで来たは良いものの意外な人物にモストロは取り押さえられた。
「あんた追われてる身なんじゃないの。」
低い位置からフードを引っ張られ、首が締まると同時に腰が悲鳴を上げる。一瞬の出来事だったが咳き込み、うっすらと目に涙が溜まる。視界がぼやける中で振り返れば案の定昨日会ったばかりの名前の無い少年だった。
「あー…、朝食と薬草を買いに行こうかなと思って監視の目を逃れつつ此処まで来たんだけどなあ。」
「馬鹿じゃないの…。」と心底呆れたような目で見つめられ、自分より年下の相手にこんな扱いを受けるのはあまり良い気分ではないが彼の弟さんなら能力的にも圧倒的に上の筈なのでどうにも強く言えるような気がしない。目鼻立ちは似ていないが父親似、母親似とはっきり分かれた似ていない兄弟などこの世にごまんと居る。
「…何さ、俺の顔に何かついてんのか。」
「強いて言うなら頬に寝てた跡がついてるね。ただディスティーと似てないようで似てるなあと思ってさ。」
顔立ちは似ていないが根本的な何かが似ているとモストロは感じていた。それは本質を見抜くとする悪魔の特性によるものなのだが、ハルファスの力を失ってもなおその特性は相変わらずのようで、自分の事を人間だと認識しているモストロにとってはただの勘である。
「……また走り出したと思えば、今度は人間を捕まえたのか。」
冒険者が少ないこの国で勇者と悟られない為なのか普段身につけている防具などは全て外しており、初めて見た彼の姿はそこらに居る人々と何ら変わりはない。
「えっ、俺って捕獲されたの。」
ディスティーの言葉に驚きつつ、この少年は此処に来るまで一体何を捕まえていたのだろうかと考えてみるが蝶などを捕まえている姿はあまり思い浮かばない。蝶の羽を千切っていそうだ。
「…別に捕まえてないし。追われてる身だって言ってた人がうろちょろしてれば何してんだろって疑うだろ。」
「……なら捕まえるな。」「捕まえてないってば。」
この仲の良さそうな兄弟の様子を烏が見ればさぞ驚くだろう。烏は彼を勘違いしているようだが、烏の言うような人間とは到底思えない。欲が無いという所だけは頷けるが。烏は何処を見てどう判断して彼を化け物だと感じたのか、自分には理解出来ない。
ぼうっと二人を眺めていれば視線に気がついたディスティーにどうかしたのかと声をかけられる。
「仲の良い兄弟だなあと思ってさ。見てて微笑ましいよ。」
彼らは顔を見合わせ、何か言いたそうにディスティーは少年に視線を送るが気づいていないというように少年はわざとらしく目を逸らした。戸惑う二人に気づくはずもなくモストロは笑っている。
「ほら、さっさと行こうよ!行くところあるんだろ、あんたも行くぞ!」
ディスティーの腕を掴み、ああ二人でお出掛けかと思っていれば意外にもモストロも腕を掴まれてしまい、引き摺られるように城門を潜り抜けた。
見た事の無いものに溢れている王都は今まで世界と遮断されていた少年にとって宝箱のようだった。目についたものに駆け寄って見て見たいと思っても少年の意地のようなものがそうはさせず、ウズウズとしながら辺りを見渡していた。それを横目で見ていたモストロだが、此処で何か言えばきっとこの子はそれらには近寄る事もしなくなるだろうと天邪鬼な少年をどう接すればいいのか小さな問題が頭の片隅に積み重なる。一方青年は青年でカリブルディアの行方を気にしていた。城の人間に聞けば誰も見ていないと言っており、また城内で火柱が現れた時にカリブルディアと似た背格好の人間が火に包まれて落ちて来たのを見たと言った人間も数人居た。落下して来た場所はあの部屋の直ぐ真下だった。確かにフェンに連れ出され、そして戻った時にはあの部屋は火に包まれていたが熱さも感じない火でカリスが死ぬ筈がないと青年は考える。だがカリブルディアの姿は無い。
「……俺、あの店に行ってみたい。」
小さな声で少年が指差したのは青年が求めていたあの不思議な店であった。少年が指差した方向を見るとモストロには何か異様な雰囲気を放っているように思い、本能は近づいてはいけないと言っていた。先程までウズウズとしていた少年の様子から考えれば、どうしても行きたい店なのだろうと本能を押さえつけてモストロは彼らに着いて行く。
「やあ久し振りだね。今日は一体何の用だい…と言いたい所だが、少し手が離せないんでね。ジャックが案内するよ。」
本棚から生えた手は目が見えているようにディスティーに手を振り、彼らが通り抜ける事が出来るのを知っている青年は何とも思わなかったが後ろの二人は違った。モストロは本棚に戻っていった手を何かの見間違いだと思い込むが、その近くの本棚から現れた女性が視界に入り込んでそれは見事にモストロは卒倒した。
「とっても不思議なバングルしか見ていなかったから…、お兄さんの瞳は綺麗な色をしているのね……。」
腕に嵌めたバングルの時もそうであったがのんびりとした口調をしているが意外と思ってもないような行動をする。興味の対象はバングルから今度はディスティーの深緑色の瞳に移り変わり、後ろで気絶しているモストロなどには興味を示さず頬に手を寄せて瞳を食い入るように見つめている。
「常連さん…半身のお友達もお兄さんの瞳を持っているわ。会えるといいわね…。」
そう言うとひたひたと静かな足音を立てながら奥へとジャックは消えて行った。叩き起こす事はせずに青年は黙ってモストロを担ぎ、少年を連れてジャックの後について行った。
興味有り気に本棚を見つめていたが大人ですら読めない言語の羅列により、好奇心は薄れていく。今だに気絶している情けない大人に呆れつつ、何処からか取り出した本を読むディスティーの横顔を盗み見る。顔は整っているが死んでいるような輝きの無い瞳が台無しにしている。それに加えて口数も少なく、不気味と思う人も居るだろう。笑みすら一つ見せなかった少年が言えた義理では無いが、先生に連れられて初めてディスティーに会った時に少年もそう感じた。決して口にはしないが今は家族が居れば彼の事を兄の様な存在だと思っている。同じ血筋だからと理由では無い。寧ろ少年はバシレウスを嫌っている。だが彼らがああなったのは悪魔の所為である事は知る由もない。彼が自分を変える切っ掛けを与えてくれただからだ。物心がついてから初めて声を上げて泣き、憑き物が落ちた名の無い少年は自分の事を受け入れた。
ぼうっとディスティーを見つめていた少年の視線に気がつき、「…暇なら読むか?」と青年は声を掛けるが少年は慌てて首を横に振った。
「母国語しかわかんないよ。…異国語なんか読めないし、古代語も。他に何かないの?」
「…星、神話、魔導書、宗教、図鑑、地図、歴史書ぐらいしかないが。」
「……読めそうなの魔導書しかないよ。」
そう言えばまた何も無いところから本を取り出し、テーブルの上に並べる。金属で装飾された魔導書や古びた魔導書など、それらは相当使い込まれており魔術の腕も剣の腕と同等なのだろうか。
「火、水の魔術…それと……読めない。」
「…空間魔術。読めないのは当たり前だ。この魔導書は代々と受け継ぐ代物らしい。…バシレウスの魔導書だろうな、フィラーリネも魔術を見て俺をバシレウスだと判断した。」
空間魔術という単語に少年は目を見開いた。両親が欲していた魔術の名前で、その執念から空間魔術に似た魔術を作り出してしまう程にだ。
「この魔導書を読むには魔導書にバシレウスの血、自分の血を与えれば読める。…最後の項目は当主以外は読めないらしいが。」
「店の中で店を開くのは止してくれよ。待たせてすまなかった。」
少年が魔導書に手を伸ばそうとした瞬間、見計らったように店主の一人レコが現れて少年は手を伸ばすのを止めた。レコは少年の顔を見るなり、何か悟ったように自室へ青年を招き入れた。
「ディスティー…俺に子守りを頼む気か?君の信用に値するカリブルディアは去り、残ったのはこの俺…。生憎だが俺は便利屋ではないぞ。」
少々埃臭い中で乱雑に積まれた書類の山を背に、机によしかかるレコは珈琲を飲みながら青年の用事を見事に言い当てた。
「少年…トレースを俺に預ける事を了承する前に、この事すら話していない。もし預かるとして彼が面倒事を起こすのは目に見えているよ。」
「……レコには全て見えてるのか?」
青年しか知らない情報をすらすらと並べるレコに青年は驚くが、人の記憶を扱う彼には造作もないことなのだろうか。
「それは企業秘密さ。まあ…此処を見つけたのはあの少年だから君がどう動いても、彼が決める事だよ。」
この店を見つけたのは少年であり、もし青年一人だった場合は見つける事は出来なかった。レコとジャックの店は本当に必要としている時のみしか目の前には現れない。
「老婆心ながら一つ言うがディスティー…、君は今は人の事を考えるより自分の事を先ず考えた方が良い。」
「…分かってるよ。」と言ったディスティーの瞳にはレコの姿は写っていない。そして自分の姿さえも。
勇者になってしまった時点で彼の宿命は決められたに等しい。だがそれは表向きの話だ。宿命というのは運命と同様に自分の意志次第では変えられるものであると宿命を捻じ曲げた人間を目にしてきたレコはそう考えている。だがレコが目にしてきた宿命は宿命に抗う為に最後の手段を取った者達の出来事であるが、それはそれで彼らが宿命を運命、自分の選択で塗り替えたと言える。運命は選択した際につけられた後付けに過ぎない。誤った選択をした場合につけられる事が多い。
この自論を彼に話せば、彼が変わる可能性は多いにある。だが出しゃばればディスティーの選択を狭める事にもなりかねないし、そして何より友人らの邪魔をしてしまう可能性も有り得る。ディスティーもレコにとってはまだ日は浅くとも友人である事は変わりない。彼らには幸せになってほしいとレコらしくはないが、心からそう願っている。だがそれぞれの思惑を邪魔するわけにはいかない。
「俺は君の友人だ。友人は頼るべきものだって事を忘れないでくれよ。」
見守る事しか出来ない自分を嘲笑いながら、友人らから胡散臭いと評判のいつも笑みを浮かべた。いつの日か幸せになる君達を願って。
──
橙、緑、赤、藍色の果物を乗せて均等に切り分けられたそれは、デザートをほとんど口にした事が無い少年にはとても不思議な物に見えた。これは本当に食べ物なのだろうかと。
レコとディスティーの話し合いが終わるまで暇な少年と彼に叩き起こされたモストロはお互いに話をしてみたが世代も違う事から共通の話題は無く、沈黙が続いていた。その状況の中で現れたのが着飾った少女の様なデザートを片手にモストロが卒倒した原因にもなったジャックだった。
「暇ならお茶しましょう。半身もお兄さんとお話中だし…、仕事も終わったからわたしも暇なの。」
一息つくためにつくられたジャックお手製の紅茶の独特な甘い香りが香る。薄め橙色の水面からは湯気がたち、覗き込んでいた少年の鼻腔をあの香りがくすぐった。
「ねえ、君の名前は?」
暫く見つめていたケーキに漸く手を伸ばし始めた少年はケーキを口に運びながら、名は無いと首を横に振った。目を細めて笑うジャックの視線は美味いと目を輝かせた少年からモストロへと移り、同じ問いを投げかけた。
「モストロ…です。」
「…そう、君は…本当の自分が分からないのね……。」
その言葉にモストロは目を丸くした。自分は記憶を無くす前は確かにモストロという名前の人間ではないはずだが、それを知るのは極僅かな少数の人間だ。
「…どうして、それを知っているんですか?前に俺に会った事が…?」
「君は…綺麗で不思議な色の瞳の子。記憶が無いと色はくすむのね…。」
ジャックは目を伏せて、夕焼けを閉じ込めた瞳を思い出していた。沈み行く太陽と訪れる月。かつての彼はまさに月の様な存在で、物静かの割りには堂々たる態度をとっていたがモストロと名乗った自分を忘れた彼は全てが違った。黒ずんだ瞳、貧弱な身体、そして弱々しい気な態度。
口をつけた紅茶はもう湯気は立ってはいなかった。
「名の無い子は…此処を必要としているけど……、君はもう此処に来る事はないよ。」
ケーキを食べ終わった満足気な表情が浮かぶ少年は名の無い子と呼ばれて眉間に皺が寄るが、名前が無い事は事実に変わりないので何か言う事はせずに紅茶に口をつける。よく分からない話に飽き飽きとし、早くディスティー戻って来ないかなと少年は思った。
ディスティーとレコが戻って来たのはモストロがデザートを食べ終わる頃だった。気づけば先程まで座っていたジャックの姿は消えており、代わりに少年の目の前には胡散臭い笑みを浮かべるレコが座っていた。
「やあ待たせてしまったね。…さてディスティーの用事は済んだ…が、お客さんの用事は一体何かな?」
「…用事なんて無いけど。」と少年が言えば、レコは「少し間を開けて喋るのはディスティーそっくりだね。」と笑みを崩さないまま少年を見据える。
「用事と言うよりは願い事だ。此処を見つけたのは名の無い子、君だ。…此処は本当に必要とするものが手に入る、謂わば"魔法の店"だ。まあ、そんな陳腐な名前では無いけどね。」
「……必要なものは自分で探せる。」「それはどうかな。」
間髪いれずにレコは少年の言葉を否定した。そして彼は指を鳴らし、それまで居たはずのディスティーとモストロは忽然と姿を消した。
「君の願いはディスティーと居る事だろう?」
表情の動きが少ないジャックの微笑みとは違い、レコという男はあまり信用ならない笑顔だ。…これがディスティーの友人なのかとさえ疑ってしまう程に。
少年の願いを的確に当てたレコに少年は鳥肌が立つ。嫌悪感からではなく生存本能のようなものからだった。
「あんたの目、嫌い。気持ち悪い。」
視線はただ一点、少年の瞳を見つめたままで一切動いていない。真っ直ぐと射抜かれる視線は隠し事や心まで見抜いてしまうようで少年は悪寒がした。
「いやあそれは有難いね。俺もこの目が嫌いなんだよ、まあ…置いておいて…。
俺が今言ったのは君の願いであって、必要としているものではないよ。それを頭の片隅に置いてくれ。」
意味が分からないと少年の眉間に皺が寄る。険しい顔をする少年とは反対にレコは優雅に紅茶に口をつけた。
「俺の言葉が分からないなら、それは分かっていない証拠だ。そんな君が必要なものを自分で探す事が出来るのかな?結論から言わせてもらうがそれは無理な話だよ。君は言葉に囚われている、君の両親の言う「時間は有意義に使え」にね。
その言葉に君は騎士に連れられ彼についてきた。君は彼と居る事で時間を有意義に使えると考えたんだ。それを言い訳にして今は彼と一緒に居る。
捨てられても、捨てた奴の言葉に従い続けるのか。とんだ阿呆だな。」
レコは彼の言葉を口にした。そう名の無い少年は今だに両親の言葉に従い続けている。あの時にレコが現れなくとも少年は魔導書に触れる寸前で手は止まっていた。俺はバシレウスの魔術に相応しくないからと。
「お客さん、次回の来店には何が必要か考えておくんだよ。」
次の瞬間には元の空間に戻っており、青年は二人に違和感を覚えた。レコに視線をやれば案の定胡散臭い笑みを浮かべたままだった。