パンテラオ王国/07*
金属の擦れた耳障りな音と共に視界に飛び込んで来たものは学校を捨ててまで探した人間の倒れる姿だった。あの闇の中でベッドの下でモストロと共に隠れていたが妙な気配がした途端に隣に居たモストロは一瞬にして消え、混乱にまた上乗せするように混乱に襲われた。漸く明るくなったと思い、外に出てみれば探していたディスティーが血塗れの姿で倒れて行くのが目に入った。
「…おい!探しに来たのに何で勝手に死ぬんだよ!」
少年は焦り過ぎて足が縺れるのも構わず魔物の死骸を踏むのも構わずに青年の元に駆け寄り、揺さぶればあの時ディスティーを発見したと同じような血にも負けない赤黒い水晶に似た何かが腕から徐々に半身を覆い始めていた。毟るようにその水晶を引き抜けば引きぬく程、引き抜いた分を補うように水晶がまた生えてくる。
「無闇に触らない方が良い、寧ろ触るな。ただの魔力暴走だから安心しろ。」
首根を後ろに引かれて無理矢理引きはがされ、首根を掴む奴を睨みければ意外な人物であった。
「フ、フィラーリネ先生…!?どうして此処に居るの?」
フィラーリネと呼ばれた人物は不機嫌そうに片眉を釣り上げ、「あれは私の妹だ。」と言ったラヴィーラは間違われるのは慣れていると言った様子で然程気にしてはいなかったが胸を凝視する少年を見て眉間に皺が寄って行く。
「言っておくが私は男だ。胸なんて無いぞ。」
「…馬鹿じゃないの。何で胸から凄い血が出てるのに生きてるのかって思っただけだよ。」
子供特有の生意気そうな純粋なものに満ち溢れている瞳ではなく冷め切った凍えるような見下す瞳で自分を射抜く少年を見下ろし、小便臭え餓鬼の癖に随分と大人びてやがると他の子供とは毛色の異なった餓鬼という印象だった。昔の教え子の一人にそんな奴が居たなと思いつつ首根を掴むのを止めた。
「一体此処で何が起きていたんだ?」
自分に聞いているのかという顔をしつつも少年は自分の理解範囲内で現状を話せばラヴィーラは「…ヴァリエンテ様は御無事だろうか!」と顔を曇らせた。
「私は無事よ。…それより彼を早く部屋に運びなさい。」
死人のような青白い顔をしたヴァリエンテが現れ、その様子にラヴィーラの忠誠心が爆発したように彼も同じくらいに顔が青くなり「体調が優れないならば部屋にお戻り下さい!」と言うがヴァリエンテは聞き入れはしなかった。
「少し動揺しただけよ。彼が心配で堪らないの。お願い、ラヴィーラ。彼を早く中に。」
全てが繋がった。ヴァリエンテ様がミストに漏らしていた誘惑したい相手、彼女の御心を射止めた男とは。先程"呪いに侵された異形者"と罵ったこの男。血塗れで魔力暴走を起こしており、ヴァリエンテ様が心配で堪らないと仰ったこの男。この男に違いない。この男はヴァリエンテ様に釣り合うような人間か?いやヴァリエンテ様が見初めた男だ。もし顔が整っていなくても性格に難が有ろうとも彼女が惚れた男だ。その者に無礼を働いてしまった。従者失格だ。
「…何ぼーっとしてんのさ。早くディスティー運んでよ。」
少年の頭突きにより自分の世界から現実に戻って来たラヴィーラの汗は止まる事なく、青年を魔術で運び終えた後も滝のように流れ続けていた。
その後適当にラヴィーラに命じて部屋を出て行かせ、ベッドの傍で椅子の上に丸まったように座り込む少年の姿を横目に見ながら下手に動く事は出来ないなと目を細めた。
「貴方はディスティーの血縁者なの?」
無愛想な横顔は何となくディスティーと同じ印象を受け、髪色の所為かしらとヴァリエンテは感じた。バシレウスの一族特有の瞳の色にとてもよく似ていたがこの子供は紫を帯びた鮮やかな青色で純粋な青色ではなく瑠璃色だった。だがヴァリエンテは一つ大きな勘違いをしていた。バシレウスの血を受け継いだ者は瞳の色は青色ではなく、瑠璃色である。ヴァリエンテが出会ったバシレウスの人間は純血ではない事だった。目の前に居るこの少年がバシレウスの血縁者である事は露も知らない。だがこの少年でさえももう一つの血族の特徴は知らない、名付けられる前に見放されたためだ。
「…そういう事にしておけば。」
そう言い放った少年はディスティーの方へと視線を元に戻し、余りヴァリエンテとは話さぬように口を閉ざした。ヴァリエンテの正体を知らなくとも少年には彼女から妙なものを感じ取っており、本能的に自分の情報を漏らしてはいけないような気がしてならなかった。少年は剣を握るが何方かというと魔法や魔術といったものが好きで独学で頑張った結果なのか魔の類いは感じ取れるようになっている。
「ならそういう事にしておくわ。私はヴァリエンテ・レオ。…貴方の名前は何て言うのかしら?」
少年が振り向く事は無かった。彼らは根本的なものが似通う二人だ。此方側が名乗らなければ自分から名乗れと言うだろうとそう考えて自分から名乗ったは良いが名前は無いと意外な返答が返って来た。今までどのように呼ばれていたのかと問い掛ければトレースと一言のみで、確かラヴィーラの出身国では二番目と意味していた筈だ。
「此処に到着するまで私は彼らに同行していたの。此処までの旅で貴方の姿は一度も目にしていないわ。…さて貴方と彼は一体何処で出会ったのかしら?不思議な話よね。」
ヴァリエンテが嫌味っぽく笑えば少年は「不思議な話にしておけば。」と鼻で笑った。嫌味には慣れっこだ。オルクストーデンに入学させられる以前はあれに虐げられて来たのだからと妙な所でそれが役に立ったなと部屋から去って行った彼女を横目で見ながらまた鼻で笑った。
「…早く起きてくれないかな。」と呟いた少年はどうして人間の死体は回収して魔物は山にされているだけ何だろうなと窓の外に広がる種族の違いについて考えていた。
「…ねえ何で種族が違うだけであんなに変わるんだろうね。」
「元々は皆同じ一つの種族だ。」
ディスティーに似たいや彼より少し低い声が部屋に響き、ばっと素早い動きで振り向けば暗闇に包まれたような色に隠れて強い緑色を帯びた瞳が覗く男が少年が先程まで座っていた椅子に腰を下ろしていた。
「どうした。俺に気づいて話し掛けたんじゃないのか?」
椅子に座っていた男はディスティーより何歳か年上だが年齢に釣り合わない妙な威厳に満ちており、そのちぐはぐな雰囲気に気圧されつつも「ただの独り言だよ。」と答えた。
「独り言にして大きいな。それと…その独り言は余り他の人間の前では止せ。周囲の人間が避けて行くようになるぞ。」
「…ふうん、でもお兄さんが言うには元々一つの種族だったんでしょ。同じなら魔物も同じように扱ってやればいいのに、変なの。」
少年がそう言えば男の表情は少し緩んだ。眠る青年の髪を撫でて立ち上がった男は少年を見下ろした。
「…だが今は二つの種族に別れている。今の話は昔の話だ。忘れた方が良い。」
首が痛む程に見上げれば無機質な瞳の中に少年の姿が映る。
「何処に行くの。」と手を掴めば目は見開くが表情は変わらず少年を見下ろしていた。
「その話聞かせてよ。」
無垢で無知な瞳は彼女を彷彿させる。
「構わない…が、他の人間に話さない事を誓ってくれるか?」
「誓うよ!」と瑠璃色の瞳を輝かせた頭何個分か分からない下の少年の頭を撫でつけた。
「昔の話だ。昔と言っても一年や二年じゃない…太古に滅びたとさらるドラゴンが空を支配していた頃だ。今と違って昔は平和な世界で種族の対立なんて無かった世界だ。」
「種族は一つだったんじゃないの?」
怪訝そうに尋ねる少年を他所に男は話を続けた。
「悪魔や妖精、精霊、人間が種族という概念が無かったという事だ。実際に種族は何個もあったが種族なんて関係無く皆手を取り合って生きていた時代だ。だがその時代は聖杯が姿を現した事で幕を閉じた。まあ他にも理由はあるが…。
聖杯は永遠に生きたい、強くなりたい、美味しいものを食べたいやら何でも数限りなく全てを叶える素晴らしく恐ろしい代物だ。そんな代物が現れたとなれば誰もが欲しいだろう。それを奪い合って種族の対立が始まった。
強大な力を今では普及している魔法を使う事が出来る悪魔が圧倒的優勢だった。だが一度だけ悪魔が聖杯を手放してしまったんだ。その聖杯を一度だけ手に入れた種族は誰だと思う?」
「…人間?」と答えれば頭を撫でられ胸の奥でむず痒さが込み上げてくる。ディスティーに初めて頭を撫でられたような感覚だった。
「そうだ。聖杯を手に入れた人間は聖杯に三つ願った。一つは全ての種族を圧倒させる力が欲しい。二つは人間のみが使える力が欲しい。三つは悪魔が使う力を人間も使えるようになること。だが三つ目の願いを叶えて貰う途中に邪魔が入ってその願いは中途半端に叶えられ人間の中でも魔法が使える人間が限られた。だが今は人間の中で魔法は使える者使えない者と仕分けられているんだろう?昔はそうじゃなかった。限られた人間が魔法を使えるようになったが他の人間にも魔法を使えるように魔法をかけたんだ。これが人間が台頭し始めた頃の話で此処から大まかに二つ、人間と魔族とで種族が別れた。」
しっかりと全て聞き入っていた少年は子供らしくない難しい顔で眉間に皺を寄せていた。
「今も人間と魔族は聖杯を奪い合ってるの?」
「いやもう聖杯は叩き割られて聖杯だったものは魔族が保管していると聞いている。今は古い因縁が続いているだけで人間側が勝手に魔族を敵視しているだけだ。どちらかが滅ぶまで続くだろう。」
「じゃあ無駄な戦いなんだね。」
そう言い切った少年は男を見上げれば無機質な瞳には冷たさが宿っていたが彼はそれには気づけない。
「ああ、無駄なだけだ。無駄な戦いで同胞が命を落としている。どちらかが終止符を打たなければこの戦いは永遠に続く。…意味は分かるだろう?」
「……終止符は誰が打つの。」
「魔王と勇者の二人だ。魔王が倒れれば魔王が従え抑えていた種族達は怒り狂って一斉に人間を攻め入るだろう。勇者が倒れれば人間達はまた新しい勇者を立てるだろう。どう転んでも人間は滅びる。一気に滅びるか、徐々に滅びるかのどちらかだ。」
「…ディスティーは死ぬの?」
大人気なく脅し過ぎたかと目線を下に落とせば震える声に似つかない強く鋭さが宿る眼光が男を射抜く。この瑠璃色の瞳だけではない、少年そのものが彼女を彷彿させる。
「…あの子次第だ。彼が選択出来る運命は三つ。どれが正解なのかは誰も分かる筈が無い、本人でさえもな。」
男が魔力暴走が起こっている箇所を撫でれば青年に生えていた可視化して硬化した魔力は彼の中に戻って行き、そして紋様の鈍い光は治まって行った。苦悶の表情は消えるも今日一日は目覚める事は無いだろう。
「…お兄さんは運命が見えるの。」
「さあな…ただの助言さ。それとお前にも助言しておこう。…バシレウスの末裔、お前はまだ幼い。力を制御するには知識と技術が必要だ。何事も基礎が必要だ。」
乱暴の様で優しく、髪を掻き乱すように撫でられ、少し文句を言ってやろうと顔を上げれば隣に居た筈の男の姿は無かった。先程まで男が座っていた椅子に触れればひんやりと冷たく、男が存在していた痕跡など何処にも無かった。不思議な雰囲気の男の人だったなと少年は何処か寂しそうに男が座っていた椅子に腰を下ろした。
眠っているディスティーの様子を見てみれば魔力は暴走しておらず、早く起きてくれないかなと思いながら持ってきた荷物の中から助言の通りに魔法や魔術の基礎が綴られている本を開いた。
──
「無様な姿ね、姉様。」
透き通る透明に近い布で女性特有の柔らかな肢体を覆ったきわどい衣服に腕を通し、一つに編み込んだ艶やかな金髪を肩口に垂らして勝ち誇った笑みを浮かべる女の名はニムエ。八番目、末っ子に当たるニヴィアンの妹である。
「口を慎みなさい、ニムエ。」
魔力の枯渇した体では王女ヴァリエンテの身体を操る事さえ難しい。聖杯から溢れ出たと言われている魔力そのものに近い聖水に満たされた湖から繋がる槽から魔力が回復された体を起こし、水分を吸った髪が煩わしい。それより煩わしいのは姉妹の中で最も力の無い存在すら危うい目の前に居る妹だ。
「姉様は本当に貧相な体。最近姉様が執着しているあの男も振り向かない筈ね。」
「身体で釣られるような男は男とは呼ばないわ、ただの猿よ。貴方こそ馬鹿ね、猿を男と勘違いして快楽に溺れているだけだもの。本当に…可哀想な惨めな妹。」
憎たらしい妹の豊満な胸に指を滑らせながら耳元でそう囁けば、真っ赤になった顔は正に猿と同じようだ。いくら悪態を吐いても姉である彼女には逆らえず言い返せないニムエの怒り狂った様子を横目で嘲笑しつつ、一枚羽織って切り札を保管していた部屋を訪れればやはりそこにはもう無い。
何重にも結界や罠を張り、自分の魔力及び血液が無ければあれには辿り着かない筈であった魔法は全て書き換えられており、常に魔力を送っていたためその改竄された箇所を修復するために魔力は搾り取られた。その結果、聖水に頼る羽目になったのである。こんな芸当を仕出かす者はこの場所を知っており、尚且つこの場所に侵入出来る力の持ち主だ。そんな者は居ない。カリブルディアはこの場所を把握してはいるがこんな実力は無い。自分の認識が甘かった事もあるがタイミングが悪かった。全てはあの魔女。あの魔女が元凶か。何故あの機会で本性を現したのか気にはなっていたが…。
「…ああ、最悪よ。」
常に余裕を持ち、他人を欺いて来たニヴィアンですら予想もしなかった出来事であり、これだけはなく表の方の自分がまた妙な事になっているなんて思いもしなかった。
聖水を浴びて王女の自室に備え付けられている浴室で湯船に浸かる身体に入り込み、数回瞬きをして起き上がった。相当な量の魔力を消費した事により聖水に浸かっていた時間も長ければこの身体も湯船に浸かる時間は長くなるため、指先が少々ふやけていた。浴室から出れば侍女達が綺麗に整列して待っており人にやらされるほど今はそんな気分では無い。
「少し一人になりたいの。」と言えば「風邪を引かれては成りませぬ。」と返され、「お願い。」と伏せ目がちに訴えれば侍女達は負けてバスローブを羽織らせてから深々と頭を下げて部屋を去って行った。ヴァリエンテは一息吐くがこの行動がまた様々な人間に伝わり"王女様は御心を痛めてらっしゃる"と妙な噂が立つのである。心を痛めている理由は冗談半分でミストに言った話に出てきた誘惑したい相手が倒れた所為だと。その相手が何故彼になっているのかは目聡い耳聡い忠誠心の塊であるラヴィーラの所為である。
衣服に袖を腕に通す事すら今のヴァリエンテには面倒な事だ。無駄に胸が大きい厄介な妹に会うわ、切り札は無くなるわと一日で散々な目にあったのだ。無理も無い。もし青年がこの状態の王女を見れば鼻で笑うだろう。