パンテラオ王国/06
視覚を奪われこの状況下で頼れるのは聴覚のみだが悲鳴や肉が千切られる様々な音が入り混じってはどんな強者でも弱体化する。魔術師の背後に居る戦士セレムもそうであり、強かろうがこの騒音下では聴力が研ぎ済まれても使い物にはならない。<俺の力が必要何じゃねえのか?>と脳内に響く声を無視しつつ、補助に徹する魔術は苦手だが広範囲でなければ使える。五感の一つを失うと他の感覚が研ぎ澄まれるという。その感覚を強化させる補助術を自分と背後に居る戦士にかけた。魔法召喚陣により精霊ペリドート、精霊ユカナイトの二人が召喚され、ユカナイトは魔術師の手の中に弓として収まった。
「フィロは援護を頼む。」
魔術師は聴覚を頼りに弓を引く。相手は中級、上級の核持ちの魔物だ。核を射抜かなければ意味は無いが精霊の矢ならば問題は無い。そしてユカナイトは火の精霊。燃やし尽くすまで炎は消える事はない。魔術師は魔物を倒す事ではなく、足止めをする事に専念していた。先程まで目の前に居た筈の執事風の老人の不気味な気配は近くには無い。だが周囲に確実に存在している事は確かだ。何時仕掛けてくるのか油断は出来ない状況だ。
「真正面から一体、強力な悪魔が来るわ!」「他には見向きもしないで一直線!狙われてルウ〜!」
この状況に不釣合いな笑い声が弓から響くが魔術師には咎めるほど余裕は無い。悪魔が接近していること、そして悪魔という単語に反応した自分の内側から蠢くもの。
<相手は俺らの中で最も強靭で高い戦闘能力を持つ悪魔だ。俺と同じ爵位だが俺より遥かに強え。だが──>
魔術師がどう脱するべきか思考を巡らした途端にその僅かな隙に乗じて契約という鎖を引き千切って内側に飼っていたものがギュシラーの身体を乗っ取った。それは契約上の話だが実際はゾーマ、フェネクスが力を授けていなければもうこの世に彼は居ないだろう。契約上ギュシラーがフェネクスの召喚者もとい主人だが歴然とした力の差ではフェネクスの方が上である。要はギュシラーはフェネクスに生かされているようなものだ。彼の機嫌一つでギュシラーの命は左右される。
「お前で言う俺とアモンは"仲間"だぜ。なあアモン?」
強膜が徐々に悪魔特有の黒色に染まって行き、裂けそうな程に釣り上がった口角は同族であるアモンですらも気味が悪いと蛇の尾でフェネクスを地面に減り込ませた。契約者が飲み込まれた事で精霊らは魔力の供給を絶たれ、戦闘により消費していた残り少ない魔力では姿を保つ事は出来ずに虚しく消えて行った。忌々しい邪魔な精霊は消え、自由に行動出来るようになったわけだ。
「仲間…悪魔という括りではそうはなるが、集まりに顔も出さないお前を我らはそう呼べるのか否呼べないな。だがフェネクス、お前にも事情があったのだろう。何があったのだ?」
蛇の尾を持った狼に長い間、会う事は無かったがその姿は楽な形体だと確か昔にアモンが言っていた普段の姿で、それを見れば戦いに参加しに来たのでは無いと理解した。
「集まりに顔を出せねえのは契約に縛られてるからだ。勿論契約者はこの人間だ。他のクソ共より遥かに馬鹿で、直ぐ側に永遠があるっつうのに手を出さない面白え人間だぜ。
此処最近集まりに顔を出せねえのは契約の所為だが俺はダチのハルファスを探してたんだよ。」
アモンには過去と未来を見通す力が備わっており、また召喚者にもそれを授けるという。此処で嘘を吐けば圧倒的に不利になり、フェネクスには嘘を吐く気は無く正直に理由を話した。
「契約…か、成る程。それは確かな理由だな。その口振りではハルファスは見つかったらしい否此処に居るのだな。相当力が削がれているが確かにこれはハルファスの魂だ。それに私が探していたお前やハルファスと同時期に消えた者達もどうやら此処に居るようだな。」
「マジで?」と聞き返すが二度も同じ事は口にしないと同族から妙な所に面倒臭さがあると有名な奴だったとフェネクスはそれを思い出し、小さく溜息を吐きながら「誰だ?」と聞き直した。
「ラウムとオロバスだ。誠実なオロバスならまだ分かるが、ラウムまでいなくなるとはハルファスに余程の事があったのだろう。」
「ああ、あったらしいな。契約の所為で表に出られなかったが、召喚された時に運良くアイツを見つけたんだよ。そしたら何て言ったと思う?"俺はハルファスじゃない。…知人なら悪いが今の俺にはお前の事は分からない。"だとよ!笑っちまうぜ、漸く見つけたと思ったら記憶は無えわ、口調、姿形まで変わってやらあ。巫山戯んなッ!!何で記憶も力も身体も封じ込まれてンだよ!クソッタレッ!!」
「気持ちは分かるが私に当たってくれるな。」と一旦は宥めたが「私に当たるぐらいならハルファスを封じ込めた者に当たれ。」と八つ当たりではなく彼を封じ込めた者への怒りへと転換させる。案の定それは上手くいったようで、フェネクスが此処で暴れてしまえばまた彼は人間達に狙われるだろう。特に彼の契約者が。
「…契約者は今どうなっている?契約の所為で表に出られなかったのなら、今は同意を得て身体を借りているのか?」
血が上っていたフェネクスの頭がアモンの言葉により徐々に冷めていった。魔族の奇襲の最中で悪魔達が会話していた一方でまた違った場所で勇者である青年と彼の敵対者である魔王も同様にいや一方的に問いを投げ掛けていた。
「なあ勇者、お前は何を望む。」
この状況下では何処から声の発信源は分からないが魔王の声が喧騒を通り抜けて直接的に話しかけているような錯覚に陥るがそんなものは直ぐに忘れてしまい、ただ耳に入ってくるのは助けを乞う叫び声と鉤爪が肉を千切る音で平穏に豊かに暮らしていた日常は一変し、魔王が少しでも動けば一時の平和は簡単に崩れ去るのだと何処か遠くその状況を冷静に見つめている自分が頭の中に存在した。その一時の平和を取り戻す為に俺は作られた気がしてならなかった。白銀の王は宿命と言った。俺が勇者になる事は生まれた時から決まっていたのだと。俺には──
荒い鼻息で背後に立った魔物を斬り伏せる。相手は核を持つ中級だが、彼は光を奪われたのにも関わらず的確に核を叩き斬った。勇者は魔王の声など耳に届いていないような様子で周囲に存在している魔物の核を貫いていく。その姿は知性の欠片も無い魔物と同じようで生憎人間達はこの闇ではその勇者の姿を目にしてはいなかった。それを見つめるのはただ一人、魔王のみであった。その異様さに同胞が消えて行く中で上出来だと無意識の内に口角は上がっていった。漸く宿命というものを目視する事が出来たらしい。
運命というものは幾ら足掻こうとも人間の意志を超え、天によって決められているものだ。その運命は天から選択肢を与えられ、それを選択したものからなった結果に過ぎない。だが宿命というものは運命とは違い、選択の余地も与えずに定められた道だ。抗う事は出来ない。
<スティアもう止せ。>
フェンの声に気がついた時には青年はフェンに首根を引っ張られており、次の獲物に向かって進もうとしていた足は強制的に止まった。柔らかい毛が青年の頬に着く血を拭き取るように宥めるようにに青年に声をかける。<自分を失うな。>とフェンの声により噎せ返るような血の臭いがこの闇の中で唯一頼れる嗅覚を刺激し、一瞬吐気が襲うが自分からも魔物の核を叩き斬った際に核から噴き出した血が着いている事に気がついてこの臭いは自分からも漂っているのだと思えば吐気は消えて行った。
「…あの時の俺の問いに答えたらどうだ。」
酸素を求めて激しく何度も上下する胸を撫でつけ、先程の魔王の問いかけに青年は答えた。自分は息切れするほど剣を振るっていたのか。魔力も消費していない。疲れもない。何かがおかしかった。この闇の中で気が狂っているのか。それとも自分自身に恐怖したのか。自問自答を繰り返しても答えは出てこない。
「…おや貴方の耳には同族の断末魔が聞こえていないのですか?何年か前の勇者は途中で逃げ出し、逃げ出した原因となった女…いえ人間の女の皮を被った同胞に食われ死んだ…。その勇者を木偶の坊と言うなら、今回の勇者は人形という言葉がお似合いでしょう。」
魔王から絶対的な信頼を置かれているウィルクルムですら彼の突飛な行動には驚かされており、全てを聞かされているウィルクルムはその行動には頭を悩ませていた。
「…断末魔はもう聞こえていない。魔物が食い殺したか、逃げたりしたんだろう。」
勇者の立場であるのに何処か傍観者のように冷静に語った青年の声には感情というものは一切篭っていない、きっと表情も無いのだろう。そう考えている内に全てが整いつつあり、彼の下命を待つばかりであった。
──
この世の終わりだと人々はこれまで信仰してきたものを投げ出して魔族に屈服する事を選択した者も居ただろう。
<聞け、人間共。貴様らはこの瞬間から滅亡への道を辿る事を身をもって知る事になろう。>
魔王の言葉と共に闇が雲散して行き、久しく見ていなかった太陽が現れ始め、それと同時に巨大な影が生き残った数少ない人間達の目に驚愕の色を帯させながら映った。人間が台頭する以前は大空は飛翔するドラゴンによって支配されていた。だが人間が台頭した同時期にドラゴンは唐突に姿を消し、代わりに様々な種族が現れ始めた。それを全て魔族と人間は称した。ドラゴンというのは御伽噺でしかない空想上の生物、魔族の最高位魔王と並ぶ魔物だと語られ続けていた。その魔物が姿を現したという事は、即ち人間の敗北を意味する。遂に魔王が本腰を入れたのだと。
そしてもう一つ人間が目を見開いた理由は魔王の背後に浮かぶ太陽により照らされた大小様々の鋭利な何か。人間にはそれが何か分からなかった。恐怖と驚愕という二つのものに混乱する頭には理解し難いという事もあるが、人間はその何かをそういう風には利用しない。そもそもその何かの正体は人間はまだ解明していない。解明したとしてもそれは受け入れない筈だ。
この状況を勇者が打破してくれるだろうと恐る恐る魔王と対峙する勇者を見れば、魔物の血により出来た海の中央で血塗れのまま微動だにせず佇んでいた。その様子は人々を絶望の淵に追いやった。生きているのか、死んでいるのか分からない。もし生きていても人々と同じように絶望しているに違いない、死んでいれば希望はもう何処にも存在しない。あれほど魔物を倒し尽くせば傷の一つや二つあるだろうと勘違いから人々は自分を絶望へと誘っていた。それを魔族を代表して哄笑するように開けた大口からは少しでも吸えば数日は苦痛にのた打ち回り、じわりじわりと確実に死に至る猛毒であり迂闊には近づけない。だが放たれたものを掻い潜ればの話である。大小様々のそれは死に損ないは眼中に無く、青年めがけて一直線に放たれた。
<小癪な…ッ!!>
青年に隣に立つ上位魔獣の一角であるフェンリルの咆哮でさえも、それは小さなものしか防ぐ事しか出来なかった。殺傷能力の高いものばかりで一つでも当たれば致命傷になる。この状況下でも太陽に照らされる色硝子のようなそれを美しいと思ってしまうのは青年は呑気なもので、傷を負っても構いはしないという無謀な戦法を取った青年はその降り注ぐ色硝子をフェンの援護を受けながら叩き落とすように粉々するも魔王は「また会える事を願うよ、勇者。」と言葉を残して去って行った。色硝子のようなそれの破片が血に塗れた青年の周りに舞い、その光景は青年を取り巻く様々な人間の期待や希望が常に背負わされている勇者の姿である。今もまたそうだ。青年が勇者として期待や希望を押しつけられていくと同時にそれに合わせて青年は魔物の血によって汚れていく。先程の闇が青年を蝕んだように、また同様に周囲の人間によって青年は勇者という型に押し込められていく。
<…ありがとう、フェン。フェンのお陰で助かったよ。>
周りを見渡せば核を叩き斬った魔物の死骸や魔物に食い千切られ死んだ兵士の亡骸が至るところに転がっている。遠くの方では魔術師は息を切らせながら精霊と何か話し込んでおり、その近くでは自分の流れた血より倒した魔物の血の方が多いであろう血塗れの兵士が隠れていた兵士や女官達と共に重傷者から負傷者を運んでいた。
<…半分も力が出なかったぞ。次にあんな真似を仕出かすなら私をちゃんと召喚しろ。>
不貞腐れたような拗ねたように睨みつけるフェンは説教もする体力も無いのか何処か疲れており、低く唸った後に青年の背後に回って影に入り込んでいった。後でフェンの柔らかい毛に埋れて眠ろうと思いながら肩当を外し、どうやら肩当と衣服の隙間から血が入り込んでしまったようで肩当に覆われていた腕にも血が付着していた。これは上から下まで全ての防具に血がこびりついているはずだ。血を拭き取るのが面倒な事になったなとあの闇の中では仕方ないと思い込み、溜息を一つ吐いた。
それと同時にドッと一気に疲労感が襲い掛かり、一瞬の眩暈に気がついた時には青年は深い闇の中に落ちて行った後で半身を覆い尽くしつつある紋様が鈍く光を放ち始めた。