パンテラオ王国/04
大切な友人を自分と繋ぐ指輪は何処かで無くした手甲で覆い隠されていた筈の指に嵌まっている。こちらの腕には紋様は無く、あるのは利き腕側だ。山中から見えていた赤煉瓦の町の向こう側には近代的な作りではなく敵を一切受け付けない厳格な城壁が広がっており、それが守護するのはこのパンテラオ王国を築いて来た王族の御殿が小さく見えた。此処は王都の外れで宮殿まで行くのは寄り道をしなければ半日に着くだろう。夕暮れ時には到着している筈だと伝言水晶を通じて、それを伝えた。返事は無かったが聞こえているだろう。少しばかりの観光を邪魔されたくはないなと伝言水晶を首から外した。外した際に触れたもう一つの首飾りに気が付き、何だこれはといつ自分が身につけたのか全く記憶にない。項に手を添えれば繋ぎ目である金具の感触は無い。十中八九誰かに魔法的なもので自分の首に下げられたのだろう。この首飾りが加護の具現化かと頭を過るが、加護とやらを受ける程の何か自分は働いたというのか。うんうんと一人で悩んでいれば様子を盗み見るような視線がちらほらと刺さる。町の入口で立ち止まっている不審気な人間が居れば誰だって見る筈だ、そしてこの珍しい髪色も含めて。青年はフードを被りながら歩き始めた。
この王都の外れには微かに潮の香りが漂っており、山で囲まれた環境で育った青年には好奇心を擽る匂いだった。生まれてこの方、未だに海を見た事は無かった。だが正確的には海と表すのかあやふやなもので一つの海峡が海と繋ぐ湖となるが淡水では無く水は海水であるためパンテラオ王国では海としている。好奇心に駆られ、それを見てみたいと思うがこれからパンテラオ王国からカエルムエィス王国までは海路を使って向かう為に飽きるほど見るだろうと青年は改めて目的地である宮殿へと観光を兼ねて向かう事にした。
パンテラオ王国は他国と比べて魔王が住む大陸から離れているため比較的魔物が出没しない地域で、魔物を狩る冒険者やギルドは少なく、魔物が出没した場合は兵士達が退治している。そのため武装した者は余り町では見かけないので、青年は好奇の目で見られていた。進む度に見えてくる看板に目を向けながら、何度も同じ料理が描かれた看板を目にする。ミルターニャで食べたパンというものに似ており、そう言えば魔術師の主食はパンだったなとふと思い出した。
<なあ、フェン。腹減ってないか?>
糸を手繰り寄せるように指輪の繋がりに意識を集中させて問い掛けて見れば、少し遅れて少々御立腹気味な唸り声が聞こえてくる。
<無闇にこんな日の高い時間帯に私のようなものを召喚してはいけないと再三注意しただろう。>
要はフェンはまだ寝足りないのである。狼は夜行性と言われている。狼の形をした魔獣というフェンは律儀にその習慣を受け継いでいるみたいだ。 だが先程まで居たグリアーロスでは日はまだ高かったというのに、もしや自分が現れる事を初めから知っていたのだろうか。フェンの存在について誰にも明かしてはいない。そもそも自分にフェンという友人が居るとは言っていない。グリアーロスを今日訪れる事を知っているのはセヴィリアールと楕円形の眼鏡を掛けた女のみだ。だが魔王との会話を思い出して見れば、それとなくフェンの事を知っているような口振りをしていた。
魔獣であるフェンは魔族で、魔王は魔族の頂点に立つ男だ。魔族には絶対的な信頼関係があり、フェンもそうであるのなら──
<腹減ったら言ってくれよ。>
そうならそれでもいい。青年は自分は何も考えず黙って戦えば良いのだと錆びつき腐った言葉に縋った。
<…私は少し眠る。>
太陽に照らされ出来た影が揺らめく。だが影は何も言わずにただ静かに青年を見守っていた。そして妙な気配が迷わず此方に向かっている事に気がつき、そちらに意識を向ける。彼の目蓋が閉じる事は無かった。
青年は悩みに悩んだ結果、結局は空腹感に従ってとあの看板が掲げてある店に入った。店内には数人におり、その客らは皆同じ物を口にしていた。あれが一番売れており美味しい物だろうと青年も頼むが、ミルターニャ王国の硬貨は使用可能なのかと思いつつもその硬貨をカウンターに置いた。店員は一瞬この硬貨は何だというような表情が浮かんだがその隣の店員が「ミルターニャの硬貨でお支払いですね」と対応し、青年は頷いた。
パンテラオ王国とミルターニャ王国はミルターニャが出来た頃からの同盟国で両国の硬貨は両国で使用可能であり、だがパンテラオ王国が使用しているもう一つの通貨である紙幣はパンテラオ王国のみでしか使えない。そのため入国する際に両替所に向かう手間は大分省かれるので、両国を行き来する旅行者は多い。また両国以外に入国する際には通貨が違うため両替所に寄る必要がある。
そんな事を知らない青年はああ此処では使用可能なのかとぼんやりと考えており、二つのパンが入った袋を片手に店を出た。一つはフェンの分でもあるが彼は寝ているため食べないだろう。なるべく人気の無い静かな場所は無いかとふらふらと彷徨い、赤煉瓦の町を眺めつつ町を離れて森の近くにあった川沿いの倒れた木々の上に座った。青年の目の前を流れる川が氾濫して出来た自然の椅子は懐かしい景色を連想させる。自分が住んでいた小屋はまだ残っているだろうか。きっと残っていないだろうな。今期の勇者を輩出した村としてあの村は有名になっただろうが、青年が存在していた形跡は全て消えている筈だ。旅に出てから自分と同じ髪色にあったのは名の無い少年、そしてサルヴァン。二人のみだ。この国、世界には数多くの人間が居るが同じ髪色にあったのはたった二人。彼を含めれば三人だが、あれ以来彼は自分の前には現れてはいないため数には入れなかった。それほどまで珍しいこの髪色はあの小さな閉ざされた村では異端児などに見られるのは至極当然の事だ。疫病神と罵られるのも当然だ。疫病神が消えて、そして莫大な金も手に入った。まさに一石二鳥で村人はニンマリと笑みを浮かべているだろう。実際あの男は隠れて笑っていた。
パンを頬張りながら野菜に挟まれた柔らかい肉にかかった辛いタレが口の端につき、じんわりと熱くなっていく。味は好みだが余り腹には残らない。朝食向きだろうか。朝は滅多に食べないため軽く食べるには丁度良い。
「俺は何の為に生きて居るのかな、クルト。」
自分の目の前から消えた博識な友人に問い掛ければこの疑問は消えるのか。自分の生きる意味など考える事は無かった。ただ剣を振ってぼんやりと生きてきただけだ。
今は魔王討伐の為に旅をしている。魔王を倒す為に生きているのか。いや自分は確固たる意志を持って此処に居ない。ただ従って此処に居るだけだ。
魔王と会い、自分は何を思ったのか。
「…此処に居たのかスティア。」
自分に問い掛ける前に草陰から現れた人影に遮られ、青年はパンを口に含んだまま振り向いた。もぐもぐと咀嚼する呑気な様子の青年に思わず人影、カリブルディアは苦笑してしまった。
「サキュバスに連れ去られた時は肝を冷やしたぞ。怪我は無いか?」
撫でられる頭の中でパーティから離れる際に淫魔に協力を仰ぎ、離脱したんだったなと思い出しながら青年は頷く。「なら良かった。」と頭を撫でる力が強くなり、心配してくれていたのかなど思ってしまう。だが勇者である自分を心配しているだけだと、その考えを振り払った。
「なあスティア、もし此処で旅の続行が不可能になったらどうする?」
「…どういう事だ?」と考えた事もない突飛な質問に青年は首を傾げて、最後の一欠片を口に放り込む。
「もし此処で旅が終わるとしたら、だ。」
「…旅は終わらないよ。この旅が終わる時は俺が死んだ時だけだ。」
いつも笑みを浮かべているカリスの顔は歪み、「そうか。」と一言だけ頭を撫でる手は離れていった。
「勇者なんざ旅の最後に死ぬ事が決まってる職業だ」
独り言のように呟いたカリスは神妙な面持ちで青年の隣に座った。背中を丸めて肘をつくカリブルディアの横顔は何処か遠くを見つめる色素の薄い深い青色の瞳は目の前の川さえ映っていない。その瞳は色は違えども何処か青年の深緑色の瞳に似ており、カリブルディアを構成する根本的な何かが青年と似ているのだろう。
「どうして勇者になろうとした?」
「あんな場所で死にたくなかったから、死に場所は自分で決める。…まあ、死に場所ももう自分で決める事なんて出来なくなったけど。」
四肢や胴体を切り刻まれて他の勇者候補と同じように死にたくはないと思ったからだ。まして魔物に殺されるのは。だがフェンや彼女のように殺されて、人生を終わらせるのも良いのかもしれない。そんな事を言った日にはフェンに噛みつかれ、あの子には蹴り飛ばされるだろうなと目を細めた。
「ミルターニャの選定の儀は厳しいものになったと聞いたが、スティアがそこまで思う程に厳しいものだったのか。」
「頑丈な部屋で魔物と戦うだけだったよ。」
「…拒否権は無かったのか?」
「王に会うって案内されたから。事前に魔物と戦って貰うと言われたら全員拒否するだろ、だから騙す真似までして案内したんだと思う。」
「あの国は外側も内側も腐ってきてるようだな。」
ミルターニャ王国という王国は数年前までは王より貴族や議会などが権力を保持していたが、第四代目の王としてミルターニャ初の女王スレクェアが聖剣カリバーンを選定の岩から引き抜いた史上初の聖剣に選ばれた王になった事によって一気に権力が王へと集結して行った。だが彼女は聖剣に選ばれただけの王であり、内政や外交など政治に関して全くの素人で彼女はただの先代の王に大事にされてきた娘の一人にしか過ぎないのである。
それに目をつけたのは湖の妖精でありパンテラオ王国を影で操っているであろう女王ヴァリエンテで彼女はスレクェアの友人としての地位と信頼を勝ち取り、自分の意のままになるように助言をしている。その状況を常に間近で目にしてきたカリブルディアにとって、青年から伝えられたそれは耐え難いものである。ディスティーが勇者になってしまったのはほぼあの妖精の所為ではないか。勇者選定の儀がそのようなものになる前は勇者候補同士で戦うだけの簡単なものであった。
あの国を内側から変えてくれる者はまだ王女の息がかかっていない女王スレクェアの幼い妹君である王女アウラザームぐらいだろう。だが女王が聖剣を引き抜く事すらあの妖精の仕組んだ事なのかもしれないなとカリブルディアは目を細めた。
「…どうしてカリスはあの女王の側にいつも居るんだ?カリスみたいな自由な人間が一人の人間、妖精に忠誠を誓うようには思えない。」
カリスとの短い旅の間で稽古をつけて貰っている際にカリスは自由奔放な人間だと青年は感じており、そんなような人間があのくそったれな憎たらしい我儘な王女に忠誠を誓えるとは思えない。きっと自分だったら爆発するだろう。
「忠誠は誓っていないさ。ただ利害が一致しただけだ。まあその関係も此処までだ。」
青年は首を傾げるがカリスは何処か遠くを見たままで苦笑する。
「ま、俺は面倒事は嫌いなんでな!さあ、城に向かうぞ。スティアが居ない間に大変な事が起きたんだぞ。」
カリスの手はまた青年の頭に乗せられる。カリスの手は氷のように冷たいが、青年には温かく感じていた。カリブルディアがポケットから転移結晶を取り出す前に青年はフェンにパンを食べるか聞いてみれば、小さく<食べる>と返事が返ってきた。青年は自分の影にパンの入った袋を置き、袋が影に入り込んで行ったのを見届けた。
転移結晶から発せられた眩い光が二人を飲み込み、次に青年が目蓋を開いた時には外と比べれば少々埃臭い部屋で今まで共に旅をしてきた仲間の一人がベッドに横たわっていた。剣士ガースト・アード・グァンガン。王女ヴァリエンテ、いや妖精ニヴィアンに力を求め、その力に溺れていった哀れな男である。その男はもうこの世を去っている。だが目の前に横たわる剣士はゆっくりと胸が上下しており、呼吸をしている事は目に映っている。
「モストロが提案した試合でガーストは魔力暴走を起こし、まだ目が覚めていないんだ。」
「…モストロが、か?魔法治癒師の間違えじゃないのか。」
試合と言えば旅の前日に行われた試合。それを提案したのは魔法治癒師であるマリーだ。モストロのような人間が自ら進んで、そんなような事を言う筈が無い。「…魔法治癒師?」とカリスは怪訝そうな表情になり、「パーティは三人構成じゃなかったか?」と妙な事を言い始めた。
「…カリス、どうしたんだ?パーティは俺と魔術師、剣士、魔法治癒師の四人だ。幾ら存在感は無いとは言え、俺でも覚えてるよ。」
<スティアよ、何を言っても無駄だ。魔法により記憶の改竄が行われている。>
妙な臭いがすると青年の影の中でフェンは眉間に皺を寄せながら青年に告げた。
<お前がパーティから離れている間に何者かにかけられたのだろう。>
青年がフェンと言葉を交わしていた間、カリブルディアは薬指に嵌っている指輪を外して痛み始めた頭を摩った。
「…ああ、成る程な。」と囁き声で呟いたカリブルディアの声音は酷く鋭い。彼は指輪を嵌っていた指に嵌め直した。
「すまん。魔法治癒師マリー、であってるか?」
確認するようにカリブルディアはディスティーに問い掛け、青年は少し驚いたように目を見開く。
「…ああ、あってるよ。」
<…何か魔法が解かれてるみたいだけど。>
<あれが指輪を外した途端に妙な臭いは消えた。…何らかの魔法道具の一つだろう。>
「いつの間にか誰かに魔法で記憶を操られていたみたいだな。俺以外にも魔法治癒師に関わった人間の記憶も同じようになってるだろうな。」
「…魔法治癒師に関する記憶が消えて得をする人間なんか居ないと思う。」
無い頭を捻って考えて見るが全く考えが浮かばない。得をすると言えばモーウヌスノで眠れない夜が続いたらしい魔術師ぐらいだろうか。演技がかった甘ったるい声が夜な夜な響いていたみたいだったが青年は布団に入れば直ぐに眠ってしまうため、安眠妨害という被害はあってはいない。
「得をすると言えば本人ぐらいだろうな。…それに王女とマリーは、王女が一方的にだが顔見知りらしい。」
魔法治癒師と王女の関係とは。青年はパーティの人間について殆どと言っていいほど何も知らない。
「…放っておいても問題は無いと思うよ。此処は一応王女の国、下手な真似は出来ないと思うから。」
胸に埋め込まれた破片を見つめながら自分に無い力を求めた結果がこれなのだと青年は沈黙し、目を細めた。その冷たい視線に何が宿っているのか隣に居るカリブルディアは表情の見えない顔でただ見ていた。
「もしこの世に魔王や魔物が居なくなったとして、勇者が必要無い…平和な世界だったらディスティーは何をしたい?どんな事を思う?」
「…平和な世界、か。」と呟いた青年の頭に浮かんだのはあの少女と大きな狼、博識な友人。そして顔の知らない両親。彼は平和と言うものを知らない。平和とは一体何か。生き甲斐の無い世界の間違えでは無いのか。
「さあね…、まあ旅でもしたいかな。」
平和な世界では自分という人間は生きていけないだろう。また異端として見られるだけだ。
「だけど俺はその平和な世界では生きれないよ。」
そう言い切ったディスティーの瞳の奥は不透明で濁り切っておりカリブルディアにはそれが彼と自分を隔てる壁なのだと哀しそうに笑った。ディスティーの頭を無性に撫でたくなり、青年の柔らかい黒髪にそっと手を伸ばした。
青年の影に潜む友人の一人であり、青年の幼少期を見ていた彼にとって今の話は胸の痛む話だった。自分が無残に食い殺されていく姿は今も青年の目に焼き付いているだろう。彼の琥珀色の瞳にも少年だった彼が膝から崩れ落ちていく姿が今だに克明に刻まれている。"こうでしかお前を守れない私を許してくれ"と死ぬ前に鳴いた声は人間である少年には届かず、段々と痛みも感じ取れなくなっていく麻痺した脳内で己の声と泣き声が反響していた。すまない、すまないと何度もさめざめと泣き、やがて涙は枯れて彼も生まれ変わった。魔獣としてこの世に戻って来た今の私ならば大切な友人を守れる。
徐々に近づいてくる足音に耳を澄ませ、その足音と数の合わない気味の悪い気配に警戒する。ふと影の中を覗き込まれるような感覚を覚え、その視線を辿った先には頭を撫で回す事が好きな妙な男、カリブルディアがディスティーの影に潜むフェンを見ていた。気のせいでは無い。今もまだ視線がぶつかり合っている。あの男も気づいているのだろう。そして私にも。
「…こいつも気味の悪い男だ。」
そう呟いたフェンの独り言は誰の耳にも届かない筈なのに、聞こえた素振りをカリブルディアは見せるように笑った。